贖罪のハーブイン蒸しパン ②
だが、俺の心の半分は穏やかではなかった。
片や、俺がその命を間接的に奪い続けてきた、贖罪の対象。
片や、俺が禁忌を犯して生み出してしまった、罪の象徴。
俺の過去と現在の罪が、今、この部屋で奇妙な形で邂逅している。
その事実に俺は目眩にも似た感覚を覚えた。
ティアナの優しい微笑みに促され、リリアは少しずつ警戒を解いていった。俺の後ろに隠れるのをやめ、そろそろとティアナのベッドのそばへと歩み寄る。
「ティアナお姉様のお部屋、いい匂いがします」
「ふふ、ありがとう。ハーブの匂いよ。この匂いを嗅いでいると、心が落ち着くの」
「ハーブ……」
リリアはベッドサイドに置かれたポプリの入った小袋を、興味深そうに指でつんつんと突いている。ティアナはそんなリリアの仕草を、慈愛に満ちた眼差しで見つめていた。
その光景を俺は少し離れた場所から、複雑な気持ちで眺めていた。
リリアが俺以外の人間と、こんなにも自然に打ち解けている。
屋敷に閉じ込められ、俺の命令だけを待つ人形だった彼女が、外の世界に触れ、新しい人間関係を築こうとしている。
その姿は父親として素直に喜ばしいものだった。
だが同時に俺は深い罪悪感に襲われた。
俺が彼女からこんな当たり前の日常を奪っていたのだ。
彼女を「禁忌の存在」として屋敷に隠し、俺一人の所有物のように扱ってきた。
そのことがどれほど残酷なことだったか、今更ながらに思い知らされた。
転生前の俺も、そしてアレクシスも、温かい家庭というものを知らずに育った。
誰かと食卓を囲む温かさも、姉や妹という存在の愛おしさも、俺たちは知らなかった。
だからリリアにも、それを与えるという発想がなかったのだ。
俺が与えてきたのは、歪んだ執着と、義務感からくる食事だけ。
だがこの子は、もっとたくさんの愛情に触れるべきなのだ。
俺は部屋の隣がキッチン付きの小さなリビングスペースになっていることを、訪問する際に知った。
壁際には様々な種類のハーブが束ねられて吊るされている。
ふと、良い考えが浮かんだ。
「ティアナ嬢。一つ、頼みがあるのだが」
「はい、なんでしょうか?」
「そこの厨房を、少しだけお借りすることは可能だろうか。なにか腹にたまる物を作っておこう、やせすぎのティアナ嬢」
俺の唐突な申し出に、ティアナは目を丸くした。
「まあ、先生が……? そんな、滅相もございません」
「簡単なものだ。吊るされているハーブを使って、君の滋養になるような簡単なお菓子を作ろう」
俺はリリアの頭に、そっと手を置いた。
リリアは俺の言葉の意味が分からず、きょとんとした顔で俺を見上げている。
結局、ティアナは俺の突然の申し出を断りきれなかったようだった。
彼女は恐縮しながらも、どうぞお使いください、と静かに頷いた。
俺が作るのは「ハーブと蜂蜜の蒸しパン」だ。ポーションの材料にもなる、滋養強壮効果の高いハーブを細かく刻み、生地に練り込む。
砂糖の代わりに栄養価の高い蜂蜜を使い、優しい甘みをつける。
蒸しパンなら、まだ食欲のないティアナでも食べやすいはずだ。
「さて、リリア。今から、お菓子を作る。お前も手伝え」
「わたくしが、ですか?」
「ああ。ティアナ嬢のために、一緒に作るんだ」
俺の言葉にリリアの紫の瞳が、期待にきらきらと輝いた。
「リリア、このハーブの葉をちぎってくれるか。できるだけ、小さくだ」
「はい、お父様」
リリアは小さな椅子に乗り、一生懸命、ハーブの葉をちぎり始める。
その小さな指先は、まだ不器用だが、その表情は真剣そのものだ。
俺はその横で、生地を混ぜ合わせる。小麦粉、卵、蜂蜜、そしてリリアがちぎってくれたハーブ。
俺が生地を混ぜるたびに、リリアは「わぁ」と小さな歓声を上げる。
無邪気な姿は見ていて飽きない。
そんな親子の微笑ましい光景を、ティアナは椅子に腰を掛け、ただ黙って見つめていた。
彼女の目に映るアレクシスは、もう学園で噂される「冷血漢」の姿ではなかった。
ぶっきらぼうだが、その手つきは驚くほど優しく、娘の小さな失敗を決して咎めたりしない。
娘が生地をこぼせば、黙って布巾で拭いてやり、上手にハーブをちぎれた時には、「上出来だ」と、その頭を優しく撫でてやる。
その横顔にはこれまで見たことのない、穏やかで、温かい色が浮かんでいた。
(……怖い人だと、思ってたけど)
廊下ですれ違うだけで、背筋が凍るような悪寒がした。
ガラス玉のような冷たい瞳で見つめられると、魂を吸い取られるような気がした。
でも、今の先生は、違う。
まるで普通のどこにでもいる、優しいお父さんみたいだ。
ティアナの中で、アレクシスへの恐怖のイメージがゆっくりと溶けていくのを感じた。
やがて、ふっくらと蒸しあがったパンが、湯気と共に甘い香りを立ち上らせる。
俺はその一つを、ティアナの元へと運んだ。
「うちの娘が作れたぐらい簡単な奴だ。まずは食べてみてくれ」
「はい。ありがとうございます」
ティアナは温かい蒸しパンを両手でそっと受け取ると、おずおずと一口、頬張った。
俺も一口食べる。ハーブの爽やかな香りと、蜂蜜の優しい甘さが、口の中にふわりと広がる。
「美味しいです。とても温かい味がします」
「そうなんですティアナお姉様! お父様の料理はいつも、なぜかこう、あったかくなるんです。冷たい料理でもですよ。不思議ですよね?」
その感想は、いつかリリアが俺に言ってくれた言葉と、奇しくも同じだった。
「ティアナお姉様、おいしいですか?」
リリアが期待に満ちた瞳で、ティアナの顔を覗き込む。
「ええ、とても。リリアちゃんが手伝ってくれたおかげね」
「えへへ」
ティアナに褒められて、リリアは照れくさそうに、そして、誇らしそうに笑った。
その顔はただ命令されて作業をしただけの顔ではない。
自分の行いが、誰かを喜ばせたという、確かな達成感に満ちていた。
「リリア。なぜ俺が手伝いをさせたか、分かるか?」
「え……? それは、お父様が、そうおっしゃったから……」
きょとんとするリリアに、俺は本当の理由を語り始めた。
それは俺が父親として、彼女にどうしても教えたかったことだった。
「一つは、友人というものができてほしかったからだ」
俺はティアナの方へと、視線を向けた。
「ずっと屋敷の中で過ごしていた。誰とも会わずにだ。だが世界はもっと広い。ティアナ嬢のような、優しく、気遣ってくれる存在があることを知ってほしい」
俺の言葉にティアナは驚いたように、そして少しだけ頬を染めて俯いた。
「だが急に誰かと仲良くしろと言われても難しい、だからリリアには人と仲良くなる方法を知ってほしかった」
「……人と、仲良くなる方法?」
リリアが、不思議そうに繰り返す。
「誰かを大切に思う気持ちはただ心の中で願うだけでは伝わらない。誰かのために何かを作ってあげたり、助けてあげたり、そうやって行動することで、初めて気持ちが届く。そして、相手の感謝が自分の心も伝わってくる。その心の温かさを覚えて欲しい、それがきっと――、あの…」
「愛情、ですね」
俺の言葉をさえぎって、ティアナが続けた。
俺は不器用な言葉で、必死に伝えた。前世で誰にも愛情を注げなかった俺が、この世界でこの小さな娘から、ようやく学び始めたこと。
「今日、ティアナお姉様のために一生懸命ハーブをちぎった。そして彼女がそれを食べて、笑顔になってくれた。……どうだ? 今、心は温かいか?」
俺の問いにリリアは自分の胸に、そっと手を当てた。
そして、しばらくしてその意味を理解したのだろう。
彼女の顔が、ぱあっと輝いた。
「はい! お父様! 今リリアの心、とってもぽかぽかします!」
その、魂からの答え。
「今リリアはわかりました。ずっと疑問に思ってたこと」
「疑問に思ってた事?」
「どうしてお父様はいつも美味しいお料理を作ってくださるのだろうって。それはリリアを愛してくれていたからなんですね」
俺は一瞬目を丸くし、言葉に詰まった。
そうして少し上を向いて、顔をそむけた。
「…ふふ、そうやっている姿を見ると、普通のパパさんですね先生」
ティアナは小さく笑った。
それからリリアに向かって、最高の笑顔を見せた。
「リリアちゃん。お姉ちゃんはいつでも、歓迎するわ。またいらしてね」
「! 本当ですか!?」
「ええ、本当よ」
「唐突な事、突き合わせて悪いなティアナ嬢」
「いえいえ。こんな可愛い妹が欲しかったから、全然かまいません」
「それならシエルがいるはずだが。確かティア姉といって慕っていたような――」
「あの子はほら、あの…、小さい頃からの知り合いで。どっちかっていうと、……弟?」
俺は腕を組んだ。
まぁ可愛らしい妹、とは少し違うか。
その時、リリアが何かを思いついたように言った。
「あの、ティアナお姉様。リリアもお姉様みたいな家族がいればなって思ってて…」
その、あまりにも無邪気な言葉にティアナは一瞬、虚を突かれたように目を丸くした。
そして、すぐにその顔に花が咲くような優しい笑みを浮かべた。
「まあ、嬉しい。……もし、リリアちゃんが私の妹になってくれたら嬉しいわ」
ティアナの少しだけ悪戯っぽい提案。
それに、リリアは「えっ」と頬を染め、そして、俺の顔を、窺うようにちらりと見た。
その瞳は「いいですか?」と、雄弁に語っている。
俺は小さく、肩をすくめてみせた。
悪くない。
いや、むしろ歓迎だ。
この優しい少女が、リリアの「お姉さん」になってくれるというのなら。
それは、俺が与えてやることのできない、かけがえのない宝物になるだろう。
「……すまないな」
俺のその言葉が許可だと分かったのだろう。
リリアの顔がぱあっと輝いた。
「本当ですか!? やったあ! お姉ちゃんが、できた!」
リリアは喜びの声を上げると、ティアナに駆け寄り、その手にぎゅっとしがみついた。
ティアナもまた、そんなリリアの姿を愛おしそうに見つめ、その小さな頭を優しく撫でていた。
その光景はまるで、本物の姉妹のようだった。
俺が犯した罪によって、出会うはずのなかった二人の少女。
その二人が今、俺の目の前で新しい絆を結ぼうとしている。




