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贖罪のハーブイン蒸しパン ①

休日の朝ヴァイスハイト家の屋敷はいつもより静かだ。使用人たちの慌ただしい足音も少なく、窓から差し込む陽光が廊下の埃をきらきらと照らしている。俺はそんな穏やかな空気の中、自室で外出の準備を整えていた。


今日の目的地はティアナ・ミルフェが療養しているという実家のハーブ園だ。シエルから聞いた話では休日は家族と過ごすために学園の寮を出て、実家に戻っているらしい。平日の学園では常にシエルがティアナに付き添っているため、俺が直接ティアナと接触するのは難しい。

だが、休日ならば話は別だ。シエルは実家のパン屋の手伝いで忙しく、ティアナの元を訪れることはないという。

今日こそ、俺が直接ティアナの容体を診察し、今後の治療方針を固める絶好の機会だった。


俺は薬学の知識をまとめた手帳と、先日新たに開発したマナ回復効果を高めたポーションの試作品を鞄に詰め、部屋を出ようとした。その時だった。

「お父様、どこかへお出かけですか?」

扉のすぐそばで、リリアが俺の服の裾をくいっと引いた。いつの間に来ていたのか、全く気づかなかった。彼女は俺が見上げるほどの高さにあるドアノブと俺の顔を、不安そうに交互に見上げている。


「ああ、少し野暮用だ。すぐに戻る」


俺がそう言うと、リリアはさらに強く俺の服を握りしめた。その紫の瞳が、僅かに潤んでいるように見える。


「……リリアもご一緒してもよろしいでしょうか?」

「ダメだ。お前は屋敷で待っていろ。いい子だから」


俺は彼女の頭をポンと撫でて宥めようとした。しかし、リリアは頑として俺の服を離さない。それどころか、ふるふると小さな頭を横に振った。


「いやです。わたくし、お父様と離れたくありません。お父様と、ずっと一緒にいたいです」


初めて聞く明確な「わがまま」に俺は言葉を失った。

これまでの彼女は俺の命令にただ従うだけの人形だった。だが、今の彼女は自らの「意志」で、俺のそばにいたいと訴えている。その健気な訴えに俺の心はぐらりと揺らいだ。

だが、連れて行くわけにはいかない。ティアナの元へ行くのはいわば俺の罪と向き合うための、秘密の贖罪行だ。そこにリリアを巻き込むわけには……。


「……お願い、します。お父様。わたくし、決して邪魔はいたしません。馬車の中で、静かにしておりますから」


リリアは潤んだ瞳で俺を見上げ、必死に懇願する。その姿は庇護欲を掻き立てるには十分すぎた。

ああ、もう。ダメだ。こんな顔をされたら、断れるわけがないじゃないか。

俺は心の中で早々に白旗を上げた。父親という生き物はどうしてこうも娘の涙に弱いのだろうか。


「はあ。分かった。今回だけだぞ。絶対に俺のそばを離れるな」

「! はい! ありがとうございます、お父様!」

俺の許可が出た瞬間、リリアの顔がぱあっと輝いた。その太陽のような笑顔に俺は「まあ、連れて行くのも悪くないか」などと、現金にも思ってしまうのだった。


それにと俺は心の中で言い訳を探す。

リリアを外に連れ出すことは彼女の生命維持に関する一つの実験にもなるかもしれない。俺が開発中の「代替エネルギー理論」が正しければ、彼女は生命力マナだけでなく、人々の「正の感情」からもエネルギーを得られるはずだ。美しい景色を見たり、美味しい空気を吸ったり、そういったポジティブな体験が、彼女の身体にどう影響するのか。それを観察する良い機会だ。

決して、娘の甘えに負けたわけではない。全ては研究のためなのだ。そう、研究のためだ。


俺は自分にそう言い聞かせながら、リリアの手を引いて屋敷の玄関へと向かった。

小さな手を握ると、温かい体温が伝わってくる。その確かな感触が、俺の心を不思議と満たしていった。


辻馬車に揺られ、王都を抜けて郊外へと向かう。窓の外にはのどかな田園風景が広がっていた。リリアは生まれて初めて見るであろう外の景色に興味津々といった様子で、窓に顔をぴったりとくっつけている。

「お父様、見てください。牛です。大きいです」

「お父様、あのお花、なんという名前ですか?」

彼女は指をさしながら、子供らしい好奇心で次々と質問を投げかけてくる。俺はその一つ一つにできるだけ丁寧に答えてやった。

そのやり取りはまるで本物の親子が休日にピクニックでも楽しんでいるかのようで、俺の口元からは自然と笑みがこぼれていた。


やがて、馬車は広大なハーブ園の前で止まった。

ここが、ティアナの実家であるミルフェ家のハーブ園だ。馬車を降りた瞬間、様々なハーブが混じり合った、清涼感のある良い香りが鼻腔をくすぐる。

俺はリリアに「ここで待っていろ」と念を押すと、屋敷の呼び鈴を鳴らした。

出てきたのは人の良さそうな初老の女性だった。ティアナの母親だろう。俺はヴァイスハイト家の名を名乗り、学園の教官として、生徒であるティアナの様子を見舞いに来たと告げた。

突然の公爵家の訪問に彼女は恐縮しきりだったが、すぐに俺たちを客間へと通してくれた。


通された客間は質素だが、清潔で、居心地の良い空間だった。部屋のあちこちにドライフラワーが飾られており、優しい香りが満ちている。

しばらくして、ティアナ本人が、母親に付き添われて部屋に入ってきた。

「ヴァイスハイス教官、ようこそお越しくださいました」

ティアナは俺の訪問に戸惑っているようで、いまだ警戒の様子が解かれない。彼女の顔色はシエルの報告通り、以前よりは随分と良くなっている。だが、まだ健康とは言い難い、儚げな雰囲気をまとっていた。

「君の体調が気になってな。様子を見に来た」

「でしたら学園でも…。近ごろはすっかりくなったので、時折学園にもいけるようになってるのですよ」

「すまない。平日ではあまりこちらの都合があわなかったのだ」


俺は教官としての威厳を保ちながら、そう言った。


「君の親友のシエル・クロウリーから、君のことを頼まれている」

シエルの名前を出すことで、俺の訪問に正当性を持たせる。完璧な言い訳だ。


俺は彼女の母親に許可を取り、ティアナの簡単な問診と診察を始めた。脈拍を測り、マナの流れを軽く探る。

やはりマナの絶対量が、健康な人間に比べて著しく低い。

俺のポーションで一時的に補ってはいるが、根本的な体力そのものが弱ってしまっているようだった。


「食生活について、いくつか聞きたい。最近、食欲は?」

「以前よりは少し。先生にいただいた、あの……、差し入れのおかげかもしれません」

ティアナは少し恥ずかしそうに俯きながら答えた。どうやら、夜食の差し入れの主が俺であることにも薄々気づいているらしい。

「あれは君の体質に合わせて特別に調合したものだ。効果があったのなら何よりだ。今日は新しい薬も持ってきた」

俺は鞄から改良型のポーションを取り出し、彼女に渡した。

「それと、これを。今後の食事療法の参考に」

俺は栄養学に基づいた食事メニューのリストと、いくつかの簡単なレシピを記したメモも彼女に手渡した。


ティアナは俺から差し出されたポーションとメモを、戸惑いながらも受け取った。

「……あの、先生。どうして、ここまで?」


その問いに俺は少し言葉に詰まった。

あなたの病気はかつての俺のせいで罪悪感からやってます、などと言えるはずもない。

きっとアレクシスは娘のためになんでもやる悪党に染まりつつ、良心の呵責がどこかにある一般人で、きっとこういう事をしたかったのだろう。

今はどこか心が、俺のもう一つの魂が落ち着いている気がする。


俺は窓の外に視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに答えた。


「やはり流行の枯渇病の治療を研究なさってるとか?」

「悪いが答えられない」


それは彼女を傷つけないための、そして、俺自身の心を守るための答えだった。


その時、客間の扉が、そっと開いた。

「……お父様?」

顔を覗かせたのは馬車で待っているはずのリリアだった。どうやら、俺がなかなか戻ってこないので、心配になって見に来たらしい。

「リリア! どうしてここに……」

俺が咎める声を上げるより先にティアナが、息を呑むのが分かった。


「可愛い……。その子、先生のお子さんですか?」


ティアナはリリアの、まるで人形のように整った容姿に目を奪われているようだった。

リリアは知らない大人たちに囲まれて、少し緊張したように俺の後ろに隠れた。その仕草が、また庇護欲をそそる。


俺は仕方なく、リリアをティアナに紹介した。


「俺の娘のリリアだ」

「まあ……! こんにちはリリアちゃん。私はティアナよ」


ティアナはベッドから身を起こし、リリアに優しく微笑みかけた。その聖母のような微笑みにリリアの緊張も少しだけ解けたようだった。


「……こんにちは。あの、お仕事、お邪魔してごめんなさい」


リリアは小さな声で挨拶を返した。

その、少女二人がはにかみながら見つめ合う光景は一枚の絵画のように美しかった。

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