バットエンドバターケーキ
俺とシエルのやり取りは学園内で奇妙な噂となって広まり始めた。
「あの冷血漢のヴァイスハイト教官が、なぜか特待生のシエルにだけは甘いらしい」
「いや、むしろ、シエルが一方的に懐いているだけだ」
「王子様も騎士様も天才魔術師様もみんなシエルのことが気になっているのに、彼女が見ているのはいつもヴァイスハイト教官の方だ」
そんなあることないこと。
俺が避けようとすればするほど、シエルはまるで磁石に引き寄せられる砂鉄のように俺に絡んでくる。
彼女のトラブルメーカー体質が、俺の平穏な日常を根こそぎ破壊していく。
俺は気づいてしまった。
シエルが俺に向ける視線の種類が、少しずつ変化してきていることに。
最初はただの「恩人」であり、「頼れる先生」だったはずだ。
だが、最近の彼女は俺と話す時に妙に顔を赤らめたり、上目遣いで様子を窺ってきたりする。
その視線は明らかに一人の男性に向けるそれだ。
(……まずい)
これは非常にまずい。
原作のヒーローたちを差し置いて、この悪役令息(中身はおっさん)にヒロインが恋愛フラグを立て始めている。
これは原作ルートからの逸脱ではない。隠し攻略対象である「アレクシスルート」に物語が強制的に向かおうとしているのだ。
そして、そのルートの行き着く先は――破滅。
俺は自分の工房で、頭を抱えて蹲った。
どうしてこうなった。
俺が作ったポーションが、彼女の親友であるシエルの信頼を勝ち取り、その信頼が、いつしか恋愛感情へと変化してしまった。
善意の行動が、最悪のフラグを呼び覚ましてしまったのだ。
「先生、いますかー?」
工房の扉の向こうから、あの能天気な声が聞こえる。
俺は居留守を使おうと、息を殺した。
「開けてください、先生! 今日もティアナの様子を報告しに来ました! それと、これ、差し入れです! 私の実家のパン屋で、今朝焼いたばかりなんです!」
扉の隙間から、香ばしいパンの匂いが漂ってくる。
その匂いに俺の腹が、ぐぅ、と情けない音を立てた。
「ふふっ、先生、お腹すいてるんですね? どうぞ、開けてくださいよー」
扉の向こうで、シエルが悪戯っぽく笑う気配がする。
俺は観念して、重い腰を上げた。
もう逃げられないのかもしれない。
この歩く死亡フラグから。
そして、彼女が引き起こす、恋と破滅の物語から。
俺は大きなため息をつくと、ゆっくりと、工房の扉を開けた。
そこには焼きたてのパンが入った籠を抱え、太陽のような笑顔を浮かべたシエルが立っていた。
その笑顔が、俺には破滅へのカウントダウンを告げる死神の微笑みに見えた。
工房の扉を開けると、焼きたてのパンの香ばしい匂いが、俺の理性を優しく、しかし確実に麻痺させていく。目の前にはシエル・クロウリー。彼女は籠いっぱいのパンを抱え、いたずらが成功した子供のような、得意げな笑みを浮かべていた。
「やっぱり、お腹すいてたんですね、先生!」
「別に」
俺はポーカーフェイスを必死に保ちながら、彼女から籠を受け取った。まだ温かい。中には様々な種類のパンがぎっしりと詰まっていた。クロワッサン、ミルクパン、そして素朴な丸パン。どれも愛情を込めて作られたことが分かる優しい形をしていた。
「実家のパン屋『クロウリーベーカリー』の自信作です! どうぞ、召し上がってください!」
「ああ」
俺が礼を言う前にシエルは当たり前のように工房の中に入ってきた。そして、慣れた様子で空いている椅子に腰を下ろす。もう彼女にとって、この秘密の工房は「先生とのおしゃべり部屋」くらいの認識になっているらしかった。
俺は心の中で三度目のため息をつき、諦めて彼女の向かいに座った。
「それで、ティアナの様子はどうだ?」
「はい! それが、すごくいいんです! 先生のポーションのおかげで、最近は少しずつですが授業にも出られるようなってきて。顔色も前とは比べ物にならないくらい。みんな、奇跡だって言ってます」
シエルは自分のことのように嬉しそうに報告する。
「これも全部、先生のおかげです。本当にありがとうございます」
彼女はそう言うと、テーブルの上で両手を組み、その大きな瞳でじっと俺を見つめてきた。その視線には尊敬と、感謝と、そして――熱っぽい、何か。
俺はその視線から逃れるように籠の中のパンを一つ手に取った。
シエルの俺に対する好感度は明らかに危険水域に達している。
自分のせいで弱らせた女性を救って感謝されるなど、マッチポンプにもほどがある。
誤解を解きたいが、説明するわけにもいかない。
しかしこのままでは原作の「アレクシスルート」に完全に固定されてしまう。
俺はパンをかじりながら、脳内で必死にその忌まわしきルートの記憶を再生していた。
原作ゲーム【星降りのシエル +Plus】、今でいう安価版かつバージョンアップ版だ。
そこで追加された「アレクシスルート」。
それは他の攻略対象とは一線を画す、禁断の香りがする年上ルートとして、一部のプレイヤーからは熱狂的な支持を受けていた。しかし、その実態は救いのない悲劇と、後味の悪い結末が待つ、地獄への片道切符だった。
このルートではシエルは俺――アレクシスのミステリアスな雰囲気と、時折見せる物憂げな表情の裏にある「深い哀しみ」に惹かれていく。彼女は持ち前のお節介と優しさで、彼の閉ざされた心をどうにかして救おうと奮闘する。
最初は彼女を突き放していたアレクシスも亡き娘リリアの面影を彼女に重ね、次第に心を開いていく。二人きりの工房での秘密の逢瀬。他の誰にも見せない、彼の弱さ。シエルは「私だけが、先生を理解してあげられる」という、特別な使命感と恋心に燃えるのだ。
しかし、物語の終盤、アレクシスの犯してきた罪が白日の下に晒される。
彼が禁術でホムンクルスを生み出したこと。
そのホムンクルスを維持するためにティアナをはじめとする無関係な人々から生命を奪っていたこと。
全てを知ったシエルは裏切りに絶望し、苦悩する。
尊敬してい人が罪を犯した犯罪者だったという事実に。
しかも自分の大親友を苦しめた張本人である。
ここで、物語は二つのバッドエンドに分岐する。
【バッドエンド1:断罪のギロチン】
シエルが正義と、彼への愛情の間で苦しみながらも最終的に「彼の罪を償わせるべきだ」と、彼の悪事を王子たちに告発するルート。
真実を知った攻略対象たちはシエルを守るため、そして学園の平和を取り戻すため、アレクシスを追い詰める。
彼はこれまで培ってきた錬金術の全てを駆使して抵抗するが、主人公補正のかかったイケメン軍団に敵うはずもなく、捕らえられる。
そして、王都の広場で民衆が見守る中、断罪される。
シエルは涙を流しながら、その光景を見届けるしかない。愛した人を自らの手で処刑台に送ったという、消えない傷を心に負って――。
(……冗談じゃない。絶対にこの結末だけは避けなければ)
過労死の次はギロチンとか、二度死ぬのはごめんだ。
俺はごくりとパンを飲み込んだ。味がしない。
【バッドエンド2:歪んだ愛の完成】
こちらの方が、ある意味、もっと救いがない。
シエルがアレクシスの罪を知りながらも想いを捨てきれず、「私が彼を救う」という歪んだ決意を固めるルート。
彼女は誰にも相談せず、一人でアレクシスと対峙しようとする。
「先生、もうやめて! 私がそばにいます! 私が、先生の光になりますから!」
そんな彼女の健気な言葉にしかし、アレクシスは心を動かされない。彼の心はすでに亡き娘への狂信的な執着に蝕まれきっている。
彼は自分を救おうとするシエルの中に完璧な「魂の器」としての価値を見出す。
そして、冬の空が透き通った星降祭の夜。物語はクライマックスのラストバトルへと突入する。
アレクシスはリリアを完璧な存在にするため、シエルの魂を奪うための儀式を始める。
それを止めようとするシエル。
二人の最後の戦い。
プレイヤーはシエルを操作し、アレクシスと戦うことになる。
そして勝っても通常ギロチンエンド。
バトルに敗北すると、このバッドエンドが待っている。
シエルはアレクシスの禁術の前に力を失い、その場に崩れ落ちる。
彼女の意識が遠のいていく中、その魂はゆっくりと肉体から引き剥がされ、眠っていたホムンクルスのリリアの身体へと注ぎ込まれていく。
やがて、ホムンクルスのリリアが、ゆっくりと目を開ける。その瞳にはかつてないほどの生命力が輝いている。
「……お父様」
「ああ、リリア。ようやく、会えたな。完璧な、私の娘」
アレクシスは蘇った(ように見える)娘を、恍惚の表情で抱きしめる。そして、魂を抜かれて虚ろな人形のようになったシエルの亡骸には一瞥もくれず、愛する娘と共にどこかへと姿を消していく――。
後にはただ、虚無感と、胸糞の悪さだけが残る。
これが原作アレクシスルートの、最悪の結末。
(こっちも絶対にありえない)
俺があの可愛いリリアを完璧にするため、だと?
そのためにシエルの魂を犠牲にする?
冗談じゃない。そんなこと、今の俺にできるはずがない。
リリアはもうすでに俺にとって完璧な娘だ。誰かの犠牲の上になりたつ幸福など、俺もそしてきっと、リリアも望まない。
それにこのルートを選んだとしても結局、その後の未来はないのだ。
少女誘拐及び殺害、そして禁術使用。国家レベルの重罪人として、彼は永遠に追われる身となる。
愛する娘と世界の全てを敵に回して、逃げ続けるだけの人生。そんなもの、幸せとは到底呼べない。
つまり、どちらのバッドエンドを選んでも待っているのは破滅だけ。
普通は可愛いい少女に好かれて嬉しいとなるところだが、好かれれば俺は死ぬしかない相手である。
アレクシスルートにハッピーエンドなど存在しないのだ。
「……先生? どうかしました? 顔色が、真っ青ですよ?」
俺が黙り込んでパンを咀嚼していると、シエルが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。その距離の近さに俺はびくりとして身体を引いた。
「な、何でもない」
「そうですか? でも先生、最近ずっと根を詰めすぎですよ。ちゃんと休んでくださいね? 私、心配です」
その気遣わしげな優しい言葉。
それが、俺の心を、じわりと締め付ける。
この少女は何も知らない。
自分が、心配している相手こそが、自分の親友を苦しめ、そして、いずれは自分の魂を狙うことになるかもしれない、凶悪な犯罪者なのだということを。
「余計な世話だ」
俺は照れ隠しと、自己嫌悪から、つい、そんな冷たい言葉を吐き捨ててしまった。
しかし、シエルはそんな俺の言葉にも全く動じなかった。
彼女はふふっ、と悪戯っぽく笑うと、こう言ったのだ。
「先生って、素直じゃないんですね」
「何だと?」
「口ではそうやって冷たいこと言うのにちゃんとパン、食べてくれてるじゃないですか。それにティア姉のこともなんだかんだ言って、助けてくれた。本当はすごく優しい人なんだって、私、知ってますよ」
その全てを見透かしたような言葉に俺は絶句した。
やめてくれ。
そんな風に俺を理解したようなことを言わないでくれ。
俺は君が思っているような、優しい人間なんかじゃない。
君の親友を苦しめ、君を騙しているただの卑劣な男なんだ。
俺の心の叫びなど、もちろん彼女に届くはずもなく。
シエルは楽しそうに話を続ける。
「だから、私、決めました! 先生が、ちゃんと休んで、ご飯を食べるまで、私が毎日見張りに来ます!」
「……はあ!?」
「だって先生、一人にしておけないっていうか、なんか不安なんですよね」
彼女はにこっと、太陽のような笑顔を俺に向けた。
その笑顔の、あまりの眩しさに俺は目を細めるしかなかった。
こうして、俺の意思とは全く無関係にシエルが俺の工房に毎日「見張り」と称して押しかけてくるというとんでもない日常が、始まってしまった。
彼女は本当に毎日、甲斐甲斐しくパンや手作りのお菓子を差し入れに来ては「先生、ちゃんと食べてますか?」「今日はちゃんと寝ましたか?」と、まるで世話焼き女房のように俺の健康管理をしようとする。
俺がどんなに冷たく突き放しても彼女は全くめげない。
それどころか、「先生のツンデレ、だんだん分かってきました!」などと、意味不明なことを言って、嬉しそうにしている始末。
俺の破滅フラグ回避計画は完全に頓挫していた。
それどころか、俺は破滅への最短ルートを、ヒロイン本人に手を取られながら、猛スピードで突き進んでいる。
もうどうにでもなれ。
俺はシエルが持ってきた温かいミルクパンを、自暴自棄な気持ちで、ただ、黙々と口に運び続けるのだった。
◇◇◇
シエルが持ってきたパンを黙々と食べ終えると、ずしりとした疲労感が肩にのしかかってきた。連日の研究と、この歩く死亡フラグとの不本意な交流による心労が、じわじわと俺の精神を蝕んでいる。
ふと、無性にあの香りが恋しくなった。
前世の俺が仕事の合間に唯一心安らげる時間を与えてくれた、あの黒い液体の香りが。
「……あぁ、コーヒーが、飲みたいな」
思わず、心の声が口から漏れた。
「こーひー? なんですか、それ?」
シエルが不思議そうに小首を傾げる。どうやら、この世界にコーヒーという文化はまだないらしい。
俺は返事もせずに席を立つと、工房の隅に置いてあった薬品棚を漁り始めた。アレクシスの記憶によれば、この世界のどこかにコーヒー豆に似た植物が存在したはずだ。
覚醒作用のある薬の材料として、少量だけストックがあった。
あった。黒く焙煎され、見た目だけはコーヒーのような偽りの豆だ。
俺はその豆を乳鉢に入れると、ゆっくりと、丁寧に挽き始めた。ゴリ、ゴリ、という硬質な音と共に懐かしい、比較的香ばしい匂いが工房に立ち込める。その香りを吸い込んだだけで、ささくれ立った神経が少しだけ和らぐのを感じた。
豆を挽き、布で濾し、温めた湯をゆっくりと注いでいく。前世でこだわっていた、ハンドドリップという淹れ方だ。
やがて、琥珀色の液体が、ビーカーの底に少しずつ溜まっていく。
その間、シエルは興味津々な様子で、俺の手元をじっと見つめていた。そして、俺が何も言わないのをいいことにまるで長年の友人にでも話しかけるように自分の話をぽつりぽつりと始めた。
「私の実家、王都のはずれで小さなパン屋をやってるんです。お父さんとお母さん、二人だけでやってる本当に小さなお店なんですけど」
「……」
「私、小さい頃から、そのお店の手伝いをするのが大好きで。お客さんが、私の焼いたパンを『美味しい』って言って、笑顔になってくれるのが、何より嬉しくて。だから、私、立派な魔法使いになって、お店をもっと大きくして、お父さんとお母さんを楽させてあげたいんです。それが、私の夢、かな」
彼女は少し照れくさそうに笑った。その横顔はいつもみたいなお転婆な少女ではなく、夢を語る一人の女性の顔をしていた。
俺は何も答えなかった。だが、彼女の言葉は不思議とすんなりと、俺の心の中に入ってきた。
「先生はどうして錬金術師になったんですか?」
今度は質問が俺に向けられた。
「……さあな。気づいたらなっていた」
「ふふ、先生らしい答えですね。でもきっと、誰かを助けたいとか、何かを守りたいとか、そういう優しい理由があったんじゃないかなって、私は思いますよ」
彼女の、根拠のない、しかし確信に満ちた言葉。
それが、俺の心の壁を、また少しだけ、薄くしていく。
やめてくれ。俺にそんな幻想を抱かないでくれ。
俺は出来上がったコーヒーを二つのカップに注ぐと、一つを無言で彼女の前に置いた。
「わ、いいんですか? 何だか、すごくいい匂い……。いただきます」
シエルはカップを両手で持つと、ふーふーと息を吹きかけてから、おずおずと一口飲んだ。
その瞬間、彼女の大きな瞳が、驚きでさらに大きく見開かれた。
「にがっ!? なんですかこれ!? 初めて飲む味です!」
初めて飲むコーヒーに子供のようにはしゃぐシエル。その無邪気な姿を見ていると、俺の中にあった警戒心が、ほんの少しだけ、解けていくのを感じた。
まずいな。この少女の前ではどうにもペースを乱されてしまう。
俺は話の流れを変えるために本題を切り出した。
「それで、ティアナのことだが」
「! はい!」
シエルははっとしたように姿勢を正した。
「俺のポーションで、一時的にマナは回復しているはずだ。だが、根本的な問題は彼女自身の生命力が低下していることにある。つまり、栄養失調の状態だ。まずはしっかりと栄養を摂らせ、体力をつけさせる必要がある」
「栄養……。でもティア姉、最近は食欲もなくて……」
「無理に食べさせる必要はない。少量でも効率よく栄養を摂取できるものが必要だ。……実はそのための食事療法も並行して研究している」
俺はアレクシスの研究日誌の中にあった、ティアナに関する記述を思い出しながら言った。
「食事療法、ですか?」
「ああ。特定の食材の組み合わせによる相乗効果を狙ったものだ。被験者にはすでに何種類か試作品を届けている」
もちろん、被験者とはティアナ本人のことだ。俺が正体を隠して夜な夜な差し入れしていた、あの栄養食のことである。
その言葉にシエルは「はっ」と何かを思い出したように手を叩いた。
「もしかして、先生! ティア姉が最近、誰かから差し入れをもらうって言ってたのって……」
「さあな。俺はただ研究の成果を、適切な相手に提供しているだけだ」
俺は肯定も否定もせず、曖昧に言葉を濁した。
しかし、シエルの頭の中ではもう答えは出てしまっているようだった。彼女は納得したように何度も頷くと、キラキラとした尊敬の眼差しを俺に向けてきた。
「先生、すごすぎます……! そこまでティア姉のために……!」
「全ては研究のためだ」
「それで! その食事療法の試作品って、どんなものなんですか? ティア姉、すっごく美味しいって言ってたから、私も一度食べてみたいなって……!」
彼女は身を乗り出すようにして、目を輝かせている。
その食い意地の張った姿に俺は思わず、苦笑が漏れそうになった。
本当にこの少女は花より団子らしい。
「あれは被験者の体質に合わせて、成分を調整したものだ。君が食べても効果はない」
「いいんです。 美味しければ、それで」
きっぱりと言い切るシエル。その食への執着にはもはや呆れるしかない。
だが、まあいいか。彼女にはティアナの件でこれからも協力を仰ぐことになるだろう。少しぐらい、機嫌を取っておいてもバチは当たるまい。
俺は仕方ないな、というポーズを取りながら、工房の片隅に置いてあった、保冷機能付きの錬金術箱を開けた。中にはティアナの体重を増やすために試作した、高カロリーの菓子がいくつか入っている。
ティアナは長期間の体調不良で、かなり痩せてしまっていた。まずは健康的に少し太らせる必要がある。そう考えて、俺が特別に開発したものだ。
俺はその中から、小さなパウンドケーキを取り出した。
バターと、栄養価の高いナッツ、そしてドライフルーツをふんだんに使った、ずっしりと重いバターケーキだ。
「……試作品の、高カロリー栄養補助食だ。ティアナに渡すために作ったが、少し余った。君にやろう」
「わーい! ありがとうございます、先生!」
シエルは子犬のように喜び、俺からケーキを受け取ると、早速大きな口を開けてかぶりついた。
「んー! おいしいー!」
頬をいっぱいに膨らませ、幸せそうに目を細めるシエル。その姿は見ていて飽きない。
「バターの香りが濃厚で、ナッツの歯ごたえも最高です! ドライフルーツの甘酸っぱさもいいアクセントになってて……先生、パン屋さんにもなれますよ!」
「お世辞はいい」
彼女が夢中でケーキを頬張る姿を眺めながら、俺はコーヒーをすする。
静かな工房にコーヒーの香りと、バターケーキの甘い匂いが混じり合う。
それはまるで、放課後のカフェで過ごす、穏やかな午後のようだった。
歩く死亡フラグ。
そう警戒していたはずの少女と、こうして二人きりで、コーヒーを飲みながら、他愛ない話をする。
こんな未来を、転生したばかりの俺が想像できただろうか。
(まあ、悪くない)
ほんの少しだけ、そう思ってしまった自分に俺は気づかないふりをした。
この穏やかな時間が、破滅への序曲でないことを、ただ、祈るばかりだ。




