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天才魔術師の探求心の塩ラーメン

夜の王立魔法学園は、月の光だけが支配する静寂の世界だ。

旧校舎の工房で、俺は一人、壁に貼り付けた複雑な術式図を睨みつけ、深く腕を組んでいた。「魂喰いの揺り籠」のバイパス構築は、最後のピースが見つからず、完全に行き詰まっていた。

煮詰まった思考をほぐすため、俺は気分転換に夜食を作ることにした。こういう時は、全く別の作業に没頭するのが一番だ。

今夜、俺の脳裏に浮かんだのは、あの塩辛くて熱い汁物の記憶だった。前世で疲弊しきった深夜に胃に流し込んだ「塩ラーメン」。この世界の食材で、あの懐かしい味を再現できるだろうか。

俺のささやかな探求心が、静かに動き始めた。


俺は錬金術を駆使し、調理を開始した。

まずはスープ。豚骨に似た獣骨を大鍋で煮込み、濃厚な出汁を取る。アクを丁寧に取り除き、岩塩と数種類の香草で味を調える。

次に麺。強力粉に似た穀物の粉に、特殊な鉱石から抽出した「かん水」の代用品を混ぜて練り上げる。

工房の中には、食欲を猛烈に刺激する、複雑で抗いがたい香りが満ち満ちていく。


(……少し、匂いが強すぎたか)


この強烈な香りは、夜警の者に見つかるかもしれない。

俺がそう反省した、まさにその時だった。

工房の固く閉ざした扉が、何の躊躇もなく、するり、と開いた。鍵はかけていたはずだ。おそらく、高度な解錠魔法だろう。


そこに立っていたのは、一人の少年だった。

月光を浴びて銀色に輝く髪。血の気のない、透き通るような白い肌。そして、何を考えているのか全く読めない、静かで深い紫の瞳。

宮廷魔術師団の至宝、学園一の天才と謳われる、フェリクス・クロムウェルだった。


彼はその無表情な顔で、俺に一瞥もくれず、ふわりとした足取りで工房の中に入ってきた。そして、湯気の立つ大鍋の前に立つと、その中を、興味深そうにじっと覗き込んでいる。

「……何の用だ」

俺が低い声で尋ねると、彼はようやく、ゆっくりとこちらを振り返った。

「いい匂いがしたから、来てみた」

その声は彼の見た目通り、体温を感じさせない、平坦な響きだった。だが、その言葉の内容は、あまりにもマイペースで、子供じみている。

「匂いの主は、君だったんだね。この、きらきらしたスープは、なあに?」


彼はラーメンの匂いをまるで道端で見つけた珍しい石ころについて尋ねるかのように、無邪気に問いかけてきた。

この男、天才すぎて逆に常識が欠落しているタイプか。

俺は彼の、底知れない不思議な空気に、少しだけ、気圧された。


「夜食だ。もう、行ってくれ」

俺は扉を閉めようとした。これ以上、この予測不能な天才と関わるのはごめんだ。

しかし、フェリクスは、俺の言葉など聞こえていないかのように、また鍋の中を覗き込んでいる。

「このくるくるした白い糸みたいなものは、食べられるの? 魔法陣みたいで、きれいだね」

「麺だ」

「めん? それが、この術式の名前?」


会話が、全く噛み合わない。

俺は深く、深いため息をついた。

このままでは、朝までこの調子が続きそうだ。ならば、いっそ。


「食べるか?」


俺がそう言うと、フェリクスの瞳が、ほんのわずかに、輝いたように見えた。

彼はこてん、と小首を傾げると、「いいの?」と呟いた。

その仕草はどこか、飼い主の許しを待つ無垢な子猫のようだった。


俺は彼をテーブルへと促すと、茹で上げた麺を丼に入れ、熱々のスープを注ぎ、チャーシューもどきを二枚乗せてやった。

それを無言で彼の前に差し出す。

フェリクスは差し出された「塩ラーメン」を、しばらく不思議そうにじっと見つめていた。

おずおずとレンゲを手に取ると、スープを一口、その口に運んだ。

その瞬間だった。


彼の常に無感動だったはずの紫の瞳が、驚きで、大きく見開かれた。

そして、次の瞬間には、を忘れたかのように麺を啜り始めた。

その勢いは凄まじく、上品な彼の見た目からは到底想像もできないほどだった。


ズズズ、ズズーッ。

静かな工房に、麺をすする音だけが、響き渡る。

やがて彼は丼を持ち上げるとスープを飲み干した。

ぷはー、と、満足のため息を一つ。

丼をことりと、テーブルに置く。

その顔にはまだ、無表情の仮面が貼り付いている。

だが、その頬はほんのりと上気し、額には玉のような汗が光っていた。



彼はしばらく、空になった丼を名残惜しそうに見つめていた。

ゆっくりと顔を上げると、その不思議な輝きを宿した瞳で俺を真っ直ぐに見つめてきた。


「君は、すごいね」


ぽつり、と。

彼が初めて、明確な賞賛の言葉を口にした。

「この、『ラーメン』という現象。僕の脳が、今まで経験したことのない情報量で満たされて、処理が追いつかない。……面白い。すごく、面白い」


その純粋な反応を見ていると、俺の中にふと、素朴な疑問が湧いてきた。

この学園の男子生徒たちの話題といえば、最近はもっぱら特待生のシエル・クロウリーのことばかりだ。王子も騎士も誰もが彼女に夢中になっている。

だがこの目の前の天才は彼女のことなどまるで存在しないかのように、ただひたすらにラーメンに感動している。


俺は自分用のラーメンの麺をすすりながら、カマをかけるつもりで何気なく尋ねてみた。

「君はシエル・クロウリーのことをどう思う?」


俺の問いにフェリクスはきょとんとした顔で、数回瞬きをした。

まるで全く知らない単語を聞いたかのような反応だ。

「シエル・クロウリー……? ああ、あの、星術の特待生か」

ようやく思い出した、というように彼はこくりと頷く。


「どう、とは?」

「いや、王子も騎士団長の息子も、皆彼女に夢中だと聞く。君は興味ないのかと」


俺の言葉にフェリクスは心底不思議そうに、小首を傾げた。

そして全く悪気のない、純粋な声でこう言い放ったのだ。


「うーん……。別に」

「……ないのか」

「うん。だって、彼女の魔力は解明できそうにない。大雑把で制御もされていない。美しい術式とはほど遠い。まるで自然災害で、僕にはどうしようもないよ」

彼は事もなげにそう言うと、空になった自分の丼を、指でつ、と撫でた。

そして続けた。


「でも、君のこの『ラーメン』は違う。なにげない素材を完璧な理論で、全く新しい、高次元の存在へと昇華させている。こっちの方が、ずっと、ずっと、神秘的で美しい」


その真理の探求者としての、魂からの告白。

俺は思わず、すすりかけていた麺を吹き出しそうになった。

原作では、彼のその探求心はヒロインへと向けられ、彼女を磨き上げることに喜びを見出し、やがてそれは恋心へと発展していくはずだった。

しかし今、彼の純粋で、厄介極まりない興味はヒロインではなく、俺が作った一杯のラーメンへと、完全に心を奪われてしまっている。


「また、作ってくれる?」

フェリクスは少しだけ期待を込めた目で、俺を見上げてくる。

その姿はまるで「おかわり」をねだる、飼い猫そのものだ。

俺はもう何も言うことができなかった。

ただ、静かに頷く。

「材料があればな」

その答えにフェリクスは満足そうに、ほんの少しだけ口元を緩めた。

それは彼が俺の前で初めて見せた、笑顔のようなものだった。

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