騎士様の優しさ蒲焼
その日の放課後は朝から降り続いていた霧雨がようやく上がり、湿った土の匂いが学園の空気を満たしていた。雨上がりの空気は澄んでいて思考を巡らせるにはちょうどいい。俺はティアナの体質改善のための次なる一手を考えながら、人気のない旧校舎裏の小道へと足を向けた。
目的は新たな食材の実験だ。
アレクシスの記憶の片隅に残っていた王都の川で稀に獲れるという、滋養強壮に優れた川魚。その形状は俺が前世でよく口にした「アナゴ」に酷似していた。もしあの香ばしくて甘辛い「蒲焼」をこの世界で再現できれば、食欲のないティアナや成長期のリリアにとって最高の栄養食になるはずだ。
人目を避けて調理の実験をするには、普段は誰も寄り付かないこの裏路地が好都合だった。
俺は錬金術で作り出した小さなコンロに炭火をおこすと、醤油に似た風味を持つ「黒大豆の発酵液」とみりんのような甘みを持つ「樹液の煮詰め蜜」を調合し、特製のタレを作り上げた。
下処理を済ませた川魚に串を打ち炭火の上でじっくりと炙っていく。ぱちぱちと炭がはぜる音、じゅうと魚の脂が滴り落ちる音。そしてタレが焼ける甘く香ばしい匂いが、雨上がりの湿った空気に抗いがたい魅力をもって広がっていった。
我ながら完璧な出来だ。これは成功を確信してもいいだろう。
俺が一人悦に入っていたまさにその時だった。
道の向こうから二人の生徒が歩いてくるのが見えた。
一人はシエル・クロウリー。もう一人は彼女の少し後ろを照れくさそうについて歩く赤髪の少年、騎士団長の息子ギルバート・アイゼンだ。
燃えるような赤髪を無造作に立て、その瞳は翡翠のように鋭い。騎士科の制服の上からでも分かるほど鍛え上げられた身体つきは、若々しい獣のような力強さに満ちている。黙っていれば、その精悍な顔立ちは多くの令嬢の心をときめかせるだろうに、口を開けばその全てが台無しになる典型的な男だった。
どうやら彼は実技の授業の後、シエルを心配して送ってきているらしい。その距離感からは仲の良い友人でありながら、それ以上の感情を抱き始めている彼の不器用な片思いが透けて見える。
「だから! あの時の連携はお前が一人で突っ込みすぎなんだよ! 危なっかしくて見てられねえ!」
「むー! でもギル君が助けてくれたから大丈夫だったもん!」
「当たり前だろ! 俺がついててやらねえと、お前は本当に……!」
ぶっきらぼうな口調だがその言葉の端々には彼女を気遣う優しさが滲んでいる。シエルはそれをただの友情だと思っているようだが。
俺はそんな青春の一ページに水を差すつもりは毛頭なかった。気づかれないよう物陰にそっと身を潜める。
その時、か細い子猫の鳴き声が二人の足を止めた。
道の隅で泥だらけになった手のひらサイズの子猫が、震えながらうずくまっていた。先ほどの雨で親とはぐれてしまったのだろう。
「わ、可哀想に……。お母さんとはぐれちゃったのかな?」
シエルの顔が心配そうに曇る。
ギルバートはこれこそ好機だと思った。
いつもは憎まれ口ばかり叩いているが、ここで自分の優しいところを見せればシエルの俺に対する評価も少しは変わるかもしれない。彼は意を決して一歩前に出た。
「ちっ、こんなところにいやがって……。しょうがねえな」
彼はわざとぶっきらぼうな口調を装いながらゆっくりと子猫の前にしゃがみこんだ。がっしりとした体躯を窮屈そうに折り曲げる。そして普段は大剣を握るであろう、節くれ立ったごつい指先で、おずおずと子猫の頭を撫でようとする。そのギャップに彼の緊張と根っからの優しさが表れていた。
シエルもまたそんな彼の意外な一面に、少し驚いたように目を丸くしている。
いいぞ、ギルバート。今がお前の見せ場だ。
俺は物陰から心の中でエールを送っていた。
だが俺は一つの重大な事実を完全に失念していた。
――俺が今、焼いているのが魚だということを。
子猫の小さな鼻がぴくと動いた。
そして次の瞬間、その小さな身体は弾丸のような勢いでギルバートの差し伸べた優しい手から逃げ出した。
目指す先はただ一つ。
俺が焼いている蒲焼の、香ばしい匂いの発生源だ。
「にゃー! にゃー!(訳:それ! それを、よこせ!)」
子猫は一直線に俺の足元へと駆け寄ってくると、必死の形相で俺のズボンの裾にすり寄り、その小さな身体で精一杯の要求を伝えてきた。
そのあまりにも健気でそして食い意地の張った姿に俺は思わず苦笑してしまった。
「……腹が減っているのか。しょうがないな」
俺は焼けた魚の身を骨が入らないように丁寧にほぐすと、その小さな一切れを子猫の口元へと運んでやった。
子猫は目を輝かせ夢中でその魚の身に食らいつく。喉をゴロゴロと鳴らし尻尾をぶんぶんと振っている。よほど美味しかったらしい。
俺が子猫に餌付けをしているその和やかな光景を、シエルとそしてギルバートはただ呆然と見つめていた。
「……あ」
シエルが間の抜けた声を上げる。
「先生、普段から神出鬼没だと思ってましたが、さすがに焼き魚を焼いてる姿は想像できませんでした」
「俺がどこで何を食べてもいいだろう」
「わたしの事をよく食い意地が張ってるといいますが、先生もたいがいですよ」
彼女は俺の元へと駆け寄ってくると、子猫と俺の顔を交互に見て目をきらきらさせている。
違う。俺は優しさからではない。ただ食い意地の張った生き物に餌を与えただけだ。
一方、ギルバートは絶好の「いいところを見せる」チャンスを、最も気に食わない男に完璧な形で奪われてしまった。
しかもその原因が食欲に負けた子猫だという、あまりにも締まらない結末。
彼は立ち上がるとやり場のない怒りと羞恥で顔を真っ赤にしながら、俺に詰め寄ってきた。
「あんた、シエルとずいぶん仲がいいようだな」
その声は嫉妬とそしてわずかな敗北感で震えていた。
俺はそんな彼の心中など露知らず、ポーカーフェイスで問い返す。
「何のことだ?」
「とぼけんじゃねぇよ。その猫は俺が――」
彼がそこまで言いかけた時、シエルが無邪気に口を挟んだ。
「ギル君も子猫が心配だったんだね。二人とも優しいなあ」
その悪気のない一言がギルバートの心をさらに抉った。
彼は「……うるせえ!」とだけ吐き捨てると、悔しそうに踵を返し足早にその場を去って行ってしまった。
その後ろ姿には「なぜ、いつもこいつなんだ…!」という悲痛な心の叫びが見えるようだった。
シエルは「あれ? ギル君、怒っちゃったのかな?」と不思議そうに小首を傾げている。
俺は一人、静かに天を仰いだ。
まただ。また俺は意図せずして若人の恋路を邪魔してしまったらしい。
しかも今回は片思い中の少年の繊細な心を、蒲焼の匂いで粉々に打ち砕いてしまった。
(……罪なことを、してしまったな)
俺は冷めてしまった蒲焼を罪悪感を噛みしめながら一口かじった。
タレの味は完璧だったが俺の心には、不器用な少年の涙の味がしょっぱく染み渡っていた。




