序章:処刑予定犯とその娘
ひどい熱っぽさと、喉が焼けるような渇きを感じて、俺は意識を浮上させた。
最後に覚えていたのは、積み上がった資料の山と、モニターの明かりが目に染みる薄暗い自席の光景だった。連日の徹夜作業による疲労はとうに限界を超えており、不意に訪れた強い眠気に逆らえなかった、はずだ。だんだんと意識が落ちていく。そして俺は…。
(ああ、なんて味気ない最期だったんだろうな)
"100メートル"
自嘲めいた感想が浮かんだのも束の間、次に目を開けた俺の視界に広がったのは、見慣れたオフィスとは似ても似つかぬ、豪奢な天井だった。精緻な彫刻が施され、中央には水晶のようなものが煌めくシャンデリアが吊り下がっている。
状況が全く理解できない。ここはどこだ? 俺は誰かに助けられたのだろうか?
混乱する思考の中、ふと、視界の端に自分の手が入った。俺のものではない、すらりとして節くれ立ちのない、まるで貴族のように美しい手。
そして、その手が――振り上げられている。
目の前には、小さな少女が一人、静かに立っていた。
月光を溶かし込んで紡いだかのような、繊細な銀の髪。吸い込まれそうなほどに深く澄んだ、宝石のアメジストを思わせる紫の瞳。あまりにも完璧に整った顔立ちは、まるで精巧なビスクドールのようだ。
(やめろ)
頭の奥で警鐘が鳴る。誰かが必死に止めようとしている。
しかし、この身体は俺の意思を無視して、振り上げた手を振り下ろした。
パァン、と空気を裂く乾いた音が、静かな部屋にやけに大きく響き渡った。
俺の手が、少女のまだ柔らかな白い頬を、強く、打ったのだ。
"10メートル"
小さな身体がいとも簡単に弾き飛ばされ、分厚い絨毯の上に倒れ込む。
俺は、自分の手が起こしたその光景を、まるで他人事のようにぼんやりと眺めていた。ジン、と痺れる掌の熱だけが、今起きたことが現実だと告げている。
何てことだ。俺はこの小さな子供に、暴力を振るったのか?
記憶が混濁する。俺にはこんな幼い少女に手を上げるような覚えは一切ない。
床に倒れていた少女がゆっくりと身を起こした。
打たれた頬が痛々しく赤く色づいている。
けれど、その紫の瞳に涙はなく、俺を非難する色も、怯える色もない。
ただ、空っぽのガラス玉のように静かに俺を映しているだけだった。
そして、少女はか細く、けれどはっきりとした声で信じられない言葉を紡いだ。
「……ごめんなさい、お父様。リリアが、悪い子だから……」
その一言が堰を切ったかのように、俺の脳内に膨大な情報を流し込んできた。
知らない男の、生まれてから今この瞬間に至るまでの記憶。それはまるで、脳に直接大容量のデータをダウンロードされるような、凄まじい激痛と情報量だった。
この身体の主の名は、アレクシス・フォン・ヴァイスハイト。王宮に仕える高名な錬金術師。
そして、目の前の少女は――リリア。
違う。本物のリリアは、もうこの世にいない。太陽のように笑う、快活で愛らしい娘だった。彼女は、6歳の時に病でその短い生涯を終えた。
では、目の前にいるこの子は?
アレクシスの記憶が、その答えを俺に突きつける。これは、彼が禁忌の術を用いて、亡き娘の亡骸から創り出した“人形”。
"1メートル"
「違う……」
俺の口から、かすれた声が漏れる。
アレクシスの愛娘を失った絶望が、
蘇らせた人形への嫌悪が、
そして神の領域を侵した自分へのどうしようもない自己嫌悪が、
まるで俺自身の感情であるかのように心を黒く塗りつぶしていく。
(なんてことだ……。俺は、こんな男に転生してしまったのか……?)
死んだと思ったら、次は子供を虐待するような最低の男の身体の中とは。
これでは、あんまりではないか。
呆然とする俺の前で、少女がふらりと立ち上がった。
そして、俺が叩いた拍子に乱れた自分の服の襟を小さな手で健気にも直そうとしている。
主人の機嫌を損ねないように。
これ以上、怒らせないように。
そのあまりにも痛々しい姿に、俺は息を呑んだ。
彼女は人形だ。
そう記憶は告げている。
だが、俺が叩いた頬は確かに赤く腫れているではないか。
俺が吐いた暴言を、この子は「自分が悪いからだ」と信じ込んでいるではないか。
(違うだろう……)
前世の俺に家族はいなかった。
温かい家庭というものを、俺は知らない。
だから、正しい父親の在り方など分かるはずもない。
けれどこれだけは断言できる。
――これは、絶対に、間違っている。
しかし、どうすればいいというのだ?
この状況、この名前。どこかで聞いたことがある。
そうだ、以前アニメを見て、キャラ推しでやった事のある乙女ゲームだ。
たしか、『星降りのシエル』。
金髪の王子様、赤髪の騎士、銀髪の天才魔術師……。
そして、窓にうっすらと映るのは悪役として登場するミステリアスな年上の教官。
その名はアレクシス・フォン・ヴァイスハイト。
間違いない。ここはあのゲームの世界だ。
そして、このアレクシスという男の末路は、確か……国民の前で断罪され、処刑される、というものだったはずだ。
ひゅ、と喉が鳴った。
過労死で人生を終えたと思ったら、次はゲーム世界の悪役としてギロチン行き?
まるで冗談にもならない。
俺は改めて、目の前の少女を見た。
破滅の原因は、この子だ。
この禁忌の存在を維持するために、アレクシスは更なる罪を重ねていく。
ならばこの子を捨てて逃げ出すか?
俺には関係ない。今の俺はアレクシスではないのだから。
そう思考が傾きかけた、その時だった。
「お父様……?」
少女が、おずおずと俺に近づいてくる。
俺は思わず「来るな!」と叫びそうになり、すんでのところで言葉を飲み込んだ。
俺の怯えが伝わったのだろうか、少女は数歩手前でぴたりと足を止める。
そして、どうしていいか分からない、というように、ただその場に立ち尽くした。
その困惑したような表情に、初めて、ほんの少しだけ感情の色が宿ったように見えた。
俺は壁に背を預けたまま、ずるずると床に座り込んだ。
頭を抱える。答えが出ない。右に進めば破滅。左に進んでも、この小さな少女を見捨てるという、人として決して許されない道。
転生した先はバッドエンド確定の悪役。
俺はこの世界で一体、どう生きていけばいいというのだろうか。
答えの見えない問いに、ただ静かな時間が流れていく。
破滅のシナリオへ向かう、運命の歯車が軋む音だけが、やけに大きく聞こえていた。
"0メートル"
ラノベ1冊分、10万字ほどすでにあるので、よろしければブックマークといいねをしていただけると幸いです。
私も10代の若者ではなく、家族のいる身になりました。これはそんな大人がパパ萌作品読みてぇ気持ちで出来上がったものです。