月夜の下で
窓から漏れる光を頼りにクロエは暗い庭園の中を小走りで進む。
(もう少しで……)
はやる気持ちを抑えなながら向かっている先はアリスだった。こんなにも庭園が広いと感じたのは初めてだと思いながらクロエは静まった庭園を進む。
アリスが視界に入ったと同時に足が止まったのは、見知った風貌の男性が椅子に腰掛けていたからだ。
月明かりに照らされた金髪が星屑のように輝いていて、少し俯いている顔は憂いを帯びているように見える。真っ白な貴族衣装はいつも以上に高貴さを感じさせた。
(ヴィルジール殿下……)
嬉しさと喜びと切なさと不安と、一言では言い表せない感情が一気に押し寄せまた泣きそうになった。
こんな状態では顔向けできないと、平然を装えるよう胸に手を当て何度も深呼吸をする。
クロエが大きく息を吐いた瞬間、ヴィルジールが顔を上げこちらを向いた。目が合ったヴィルジールの顔が口を大きく開けた笑顔に変わっていったのがわかった。顔の横で手を振っている。
その姿を見たクロエの心臓は、張り裂けてしまうんじゃないかと思うくらい激しく鼓動した。
(本当に……子供みたいに笑う人だな)
再度深呼吸をし、いつもの精密機器の笑顔に切り替えたクロエは優雅にアリスへと歩き出した。
⁂ ⁂ ⁂
「お疲れ様、クロエ」
ヴィルジールがにこっと笑いかける。
クロエの笑顔は早くも崩れそうだったが、感情を押し殺して飄々とした態度で応える。
「こんばんは、ヴィルジール殿下。私に何かご用ですか?」
「用はクロエに会いたかったということかな。月光の下で輝くクロエも素敵だ、舞い降りてきた天使のようだよ」
「こんな黒い服に身を包んでいたら、ただの天使ではなく堕天使かもしれませんね」
エプロンの取れたメイド服のスカートを少しつまみ上げてふふっと笑う。
「こんなに麗しい堕天使がいるのなら、俺も一緒に堕落しようじゃないか」
ヴィルジールもまたクロエとの久々の会話を楽しんでいるようだった。
そのまま椅子に腰掛けるよう促し、クロエは流れるような所作で椅子に座った。
「それにしても驚きました。アリスへの急なお呼び出し、しかも手紙でだなんて」
「急に呼び出してすまない、クロエに早く会いたくて。手紙は専属執事に頼んで部屋に投げ入れてもらったんだ」
アリスに来てくれれば会えるのに、という気持ちを隠してクロエは微笑み続ける。
「やっと納得のいくものが出来たんだ。クロエの口に合えばいいんだけど」
そう言うとヴィルジールはテーブルに置いてあったバスケットからティーポットとティーカップのセットを取り出した。
「これは……?」
「たまには月夜のお茶会も良いかと思ってね。……なんて言うのは建前で、ゆっくりクロエと話したかったんだ。いつも限られた時間内でしか会えないから」
ヴィルジールの金髪が王冠を付けているかのように煌めいている。にこりと微笑む姿と相待って、やっぱり王子様みたいだとクロエはドキッとした。
不慣れな手つきでポットを持ったヴィルジールはテーブルに置いたカップへと注ぎ始める。
「……紅茶ですか?」
「そう。俺がブレンドしたんだ」
「殿下が?」
「そんな不安そうな顔をしないで」
ヴィルジールはいつものように口角を高く上げてははっと笑う。
クロエは決して不安なわけではなく、むしろ自分のために淹れてくれたということが嬉しくて仕方なかった。
ついいつもの癖で表情を変えないようにと意識しすぎてしまい、逆に不自然な顔になってしまっていたようだった。
「いろいろ試行錯誤したんだよ。さ、飲んでみて」
「……ありがとうございます。いただきます」
見られていることに緊張しながらカップを口元まで近づけると、ふわりと庭園の匂いがした。
そのまま紅茶を口に含む。
(……美味しい!)
クロエは目を見開き、思わず口元に手をかざす。
「どう?」
「すごい美味しいです! この上品な香りは薔薇でしょうか!? 渋みも口の中でスッと消えて旨みだけが残る、殿下の気品さがとてもよく現れている紅茶ですね!」
「口に合ったようで安心したよ、ありがとう」
クロエの生き生きとした表情を見てヴィルジールは心から安堵したようだった。
その微笑みにドキッとしたと同時に、はしゃぎすぎたとクロエは少し自身を制した。
「クロエのことを考えて作った紅茶だから、『俺』と言うよりクロエの気品さを現したものかな」
「私の……」
「そう、俺が思うクロエを紅茶にしてみたんだ。まあ俺の気持ちも余すことなく入れてるけどね」
また子供っぽく笑ってみせるヴィルジールに愛おしさを感じた反面、心のすみでチクリと薔薇の棘が刺さったような感覚がした。
そして、眉間にしわを寄せ黙っているクロエにヴィルジールは違和感を覚えた。普段なら「気持ちが入っていなければもっと美味しい」とか「愛情はスパイスにはなりませんよ」などの返しがあってもいいはずなのだが、それがなかった。
「本当は口に合わなかった?」
ヴィルジールは心配そうに伺ったが、クロエはその質問と食い違った答えを出した。
「……信じていいんですか? ……本当は、私なんかよりももっと他に送るべき相手がいるんじゃないですか?」
声をわずかに低くしながら俯いた。
マーガレットの話を聞き「信じる」と言ったクロエだったが、どうしても信じきれない気持ちが拭えず不安で押しつぶされそうだった。
「信じて。他にいるはずがない。俺がここまでするのはクロエだけだよ」
「……でも、殿下が隣国の王女様とご結婚されるって噂を耳にしました」
「隣国の王女? ああ、アンナのことか。
…………で、誰がそんなことを?」
そう言ったマリンブルーの瞳が、一瞬だがクロエには深海のごとく深く暗い色に沈んでいったように見えた。
「……誰と言いますか、ちょっと小耳に挟んだ程度です」
第六感で『ルビーのブローチをつけた使用人が』と答えたら後が大変だろうと察したクロエの機転を効かせた答えだった。
そして、ヴィルジールが王女を呼び捨てにしていることと結婚を真っ先に否定しなかった事実がまた心臓にチクリと棘を刺した。
「アンナは小さい時からの顔見知り程度だよ。お互い国王の子供としていろいろと話が弾んだりはするけれど、まあその程度だよ」
「……ご結婚は、否定されないのですか?」
「そんなの否定するまでもないじゃないか。俺はクロエとしか結婚しないよ」
そう言いうと椅子から身を乗り出し、うつむいているクロエに目線を合わせる。
「どうしたんだ? 今日のクロエはとても思い詰めているようで苦しそうだよ。一人で抱えないでなんでも言ってほしい。大丈夫、俺はいつだってクロエの味方だ」
月夜の下で輝くその優しい笑顔は、昼間見る笑顔とは少し違うものに見えた。それこそ天使か神なのではないかと思うほどの包容力と慈愛に満ちている。
絵画を彷彿とさせる美しい情景を目の当たりにし、クロエは不思議と心に刺さった棘がぽろぽろと抜け落ちている感覚になっていた。
(すごいな、なんだか教会にでも来たみたい……。今なら言えるかな、私の本当の気持ち……)
強張っていた顔つきが朗らかになる。
そうして膝の上に置いていた両手を力強く握りしめ、自分の気持ちを言葉に乗せ始めた。
「……私は……、殿下に……怒っています」
「どうして?」
「……アリスに来てくれなくなったからです。毎日のように来て口説いていたくせに、何も言わずに急に来なくなるなんて不安になるじゃないですか、心配になるじゃないですか……。その上、ご結婚の噂話まで。『結局私との時間は戯れにすぎなかった』って何度も考えて、傷付いて……、苛立って。でも、違うんです」
ヴィルジールはいつものような横槍を入れたりせず、真摯に話を聞く姿勢を崩さずにいた。
「一番怒っているのは……、自分自身にです。
……殿下と親しくなった時に『使用人のくせに』って後ろ指を指されたくないから殿下の気持ちから距離を取って、殿下に振られた時に『使用人のくせに』って嘲笑されたくないから殿下の気持ちを適当に受け流して……」
見ないように、触れないようにとしていた本当の気持ちが露わになっていく。
「きっと本当は殿下のことちゃんと考えてなかったんです。『使用人』という肩書きを免罪符にして逃げてたんです。傷つきたくない、今のこの関係を壊したくない、と……。保身のことばかり、殿下はいつも真っ直ぐに向き合ってくれていたのに……。私、最低です……」
水面下にずっと隠していた思いを初めて口にしたクロエは自然と泣いていた。
しかし、それは悲しいからではない。自分の気持ちと向き合うことがこんなにも辛く苦しく、それでいて開放的でもあり、初めての感覚が波のように押し寄せてきて感情のコントロールが上手く出来なかったからだ。
ヴィルジールはそっと手を差し伸べて涙を拭うと、気品溢れる声と速さでクロエに語りかける。
「この王宮のみんな、クロエがいつも直向きに仕事をしているのを知っているし、そして誰よりも努力し励んでいるのも知っているよ。そんなクロエを『使用人のくせに』なんて侮辱する人がいるはずがない。もしいたら、そうだな……俺がこらしめてやる」
クロエの頬から手を離し無邪気そうに腕を掲げた。
その仕草が本当の子供のように見え、クロエからふふっと笑みがこぼれた。
「やっぱり笑った姿が一番素敵だ。それに……」
ヴィルジールは膝の上で握りしめられているクロエの手をそっと包みこむ。
「身分差、とでもいうのかな。クロエがずっとそのことを気をしているのは気づいていたよ。でもさっきも言ったけど、クロエの頑張りはみんな知っている。
俺の執事だって……『殿下とご結婚されても差し支えない人格者ですね』……って太鼓判だよ」
声を低くし専属執事の真似をしてみせた。
「あ、また笑ってくれた」
クロエは自然と笑っていたようだ。
「だからね、身分差なんて感じないほどクロエはすごい人なんだよ。そんなすごい人を娶るんだ、誰が反対なんてすると思う?」
ヴィルジールの瞳は昼間の海のようにキラキラと輝いている。嘘偽りのない、綺麗に透き通った瞳だ。
「それと、クロエは大きな思い違いをしている。俺がクロエを振るなんてありえない。……まあ、逆はあるかもしれないって常々思っているけれど」
「そんなことは……!」
ありません、と言い切るより前に恥ずかしさが勝ってしまい、クロエは少し照れた表情を浮かべる。
ヴィルジールはそれに応えるように続けた。
「何年も思い続けてきた人を、そしてやっと巡り会えた人を振る理由なんて見当たらないよ。この気持ちはずっと変わらない。クロエは、運命の人だと思っているよ」
「……殿下」
二人の距離は心と共に近づいていく。
ふとヴィルジールは不自然にこほんと咳払いをし、顔つきを凛々しいものへと変えた。
「これはまだ内密にしていることなんだけど……。俺は来年、王位を継承する」
「そうなんですか!?」
こくりとヴィルジールが頷いた。
「十年前クロエに会って傷を癒してもらった日……、それは俺が誓いを立てた日でもあるんだ」
「誓い……ですか?」
「絶対に強くなる。心身共に。一国の王となる者として恥じない人間になる、と」
「あ……! それなら、殿下はもう成就されていると思いますよ!」
クロエは右手の指を一本ずつ折り曲げながら話を続ける。
「毎日欠かさずに剣技や体術の稽古に励んで、それから政治の勉強をして、それでも疲れた顔一つ見せないで、あと王宮の誰とでも分け隔てなく話が出来るのは当然として、外交先の方ともすぐに距離を縮められて。
それから……、あの日私に銀時計をくれました。治療のお礼だと。あの時も『一国の王となる者が』と言っていましたよね」
「覚えていてくれたんだね」
「もちろんです。すごい嬉しかったんです。『裁縫以外で私のしたことが認められた』って証が銀時計という形で現れて、幼心ながら感動したんだと思います。でもそれより、王子様がまた会おうと約束してれたことが……。
……あ、えと、つまり、私からみたら殿下の誓いはもう成就しているとしか思えないんです!」
話している途中でクロエはまた照れくさくなったようで、最後の方は舌を噛みそうなほどの早口になっていた。
「ありがとう。クロエにそう言ってもらえるとすごく嬉しいし自信になるよ。
……それと、実はもう一つ誓いを立ててたんだ」
「と言いますと?」
そう問う紫色の瞳は好奇心や興味でいっぱいのように見える。
その姿にふっと微笑んだ後、ヴィルジールは今一度真剣な眼差しになりクロエから目を逸らさずに口を開いた。
「あの少女と生涯を共にする」
その真っ直ぐな瞳と言葉に射抜かれたクロエは時が止まってしまったかのように感じた。
と同時に、夜風に乗った紅茶の薔薇の香りがふわりと二人を包み込んだ。その香りを感じた瞬間、クロエの時間がまた動き出した。
「……その誓いは……。いえ、その誓いも……」
クロエはまた拳を握り、小さく深呼吸をした。
やっと言える本当の気持ち。その緊張感や胸の高鳴りは今にも心臓が飛び出してしまうんじゃないかと思うほどだった。
「あの日から、成就していたと思います。
……私も、ずっと殿下のことをお慕いしていました」
そう言うクロエの潤んだ紫色の瞳は、誰もが酔いしれそうなほど麗しいものだった。
「クロエ……」
ヴィルジールはクロエの前に跪くと、彼女の手をそっとすくい上げそのまま手の甲に自身の唇を当てる。
「でっ、殿下……!?」
「初めて会った時からずっとクロエを思っていた。俺にはクロエ以外考えられないんだ、だから───。
────俺と結婚してください」
「はい」
大粒の涙をこぼしたクロエの頬に手を当て涙を拭った。
照れくさくも、『幸せ』とはこういうことなのかと噛み締めるように見つめ合い、互いに優しい笑みを浮かべる。
次に目が合った瞬間、二人の唇が重なり合った。
満天の星と煌々とした月明かりがアリスを照らしていた。
⁂ ⁂ ⁂
〜数年後の春〜
「それにしてもマーガレット長、噂には聞いていましたけれど本当に広い王宮でしたね。それにこの庭園も、想像以上の広さで驚きの連続です」
「そうでしょう。見習いの最初の関門は、この王宮の構造を頭に叩き込むことでしょうね。それが出来てやっとスタートラインって感じよ」
マーガレットはこの春から入った見習い使用人の研修をしており、王宮の案内を終え、今は庭園の案内をしている最中だった。
「はい! 早く覚えられるよう頑張ります! ……あ、マーガレット長、もしかしてあのずっと先で座っている二人って……」
「クロエ准長とヴィルジール王ね。もういつでも会えるのに、アリスでお茶をするのが日課らしいわ。でもそこが二人らしくていいんだけどね」
「わー! 早速お目にかかれるなんて! 噂は聞いています、『国王と使用人が結婚』だなんて夢がありますよね」
見習い使用人は胸の前で手を組み目を輝かせていた。
「夢か……。ねえ、子供の頃オリヴィアには好きな人いた?」
唐突な質問に、見習い使用人のオリヴィアは首を少し傾げた後
「はい。当時近所に住んでいた年上の人のことが好きでした」
と答えた。
「その人のこと、今でも好き?」
「今ですか? 全然ですよ。こんな人いたな、いい思い出だな、って思うくらいです」
「それが普通よね。私もそうだもの」
マーガレットはふふっと微笑み、遠くアリスにいる二人を見つめる。
「確かに夢があるけど私がそれより夢みたいだと思うのは、子供の時会った相手にお互い一目惚れしたもののそれ以降約九年離れ離れで、それでもお互いの気持ちは変わっていなくてこうして結ばれた、ということかしら」
「え? 九年間も会ってなかったんですか? じゃあ、お互いが一目惚れした相手にずぅっと片想いしていたってことですか? いえ、空白の九年間も実はずっと両思いであったと……?」
オリヴィアの矢継ぎ早の話し方は『とても信じられない』とでも言いたそうだ。
「本当、お伽話みたいでしょう」
「すごい……、『運命』ってこういうことを言うんでしょうね」
「そうね。
……さて、まだまだ庭園も広いわよ。案内を続けましょうか」
「はい! よろしくお願いします!」
元気よく返事をするオリヴィアを引き連れてマーガレットはその場から離れていった。
いつもと変わらぬ昼下がり。
アリスのテーブルにティーカップを二つ並べ、ひと時の幸福なティータイムを過ごしてる二人の男女がいる。
そこでは絶え間なく笑顔が溢れ、幸せに包まれた時間が流れているのだった。