異変
次の日、いつもと同じようにクロエはアリスでひと時の休憩時間を過ごしている。
(もうすぐ十五時半……)
テーブルに置いた懐中時計に何度も目を向けるが、未だに長針は一つも動かない。
(十五時半前になると急に時間の流れが遅くなるのよね………)
落ち着きのない様子で、それでいていつヴィルジールが現れてもいいようにと、クロエは平常心を忘れずにティーカップを口に運ぶ。
今日選んだ紅茶の香りは、枝に満開の花を咲かせた桜が春の訪れを祝福しているかのように風に揺れている、そんな情景が浮かぶ桜の香りがするものだった。
(いつか殿下とここでお茶をしてみたいなあ……)
そんな妄想しているクロエの顔はまた緩みきっていた。
ほどなくして、懐中時計の長針が三十の数字を指した。当然その瞬間を見逃したりはしない。
クロエの緩んでいた口元が決まった角度へと上がっていった。
(これでいつ来ても大丈夫……!)
紅茶の香りと同じように、クロエもヴィルジールの訪れに心躍らせていた。
しかし、五分過ぎてもヴィルジールは姿を現さない。
それから十分、十五分……。
結局ヴィルジールが現れることはなかった。
落胆しながら一人ティーカップとポットを片付ける。
(きっと忙しくて今日は来れなかったんだ……。明日には、また……)
華やかだった桜の香りがなくなりひっそりとしたアリスは、春の終わりを告げているように感じた。
⁂ ⁂ ⁂
アリスで過ごすクロエから笑顔が消えたのは、それから三日後のことだった。
あれからヴィルジールがアリスへ来ることはなく、この日のクロエは無表情のまま紅茶を飲み続けている。
王宮内で姿を見かける時はあるにせよ、相手は王族でありそう易々と話しかけられるものではない。ふと目が合った瞬間に微笑んでくれたりもするが、クロエは物足りなさと焦燥感と喪失感に駆られていた。
(どうして急に来てくれなくなっちゃったの……。どうして何も言ってくれないの……。理由があれば納得するのに……)
紅茶の香りもわからない、ただ苦い液体を飲んでいるだけの時間が過ぎていく中でクロエはやるせなく懐中時計を握りしめた。
十五時半を回り、アリスで過ごせる時間に終わりが来てもやはりヴィルジールは来なかった。
ティーセットを片付けに行くためクロエは王宮内の廊下をしとしとと歩く。数メートル先ではルビーのブローチをつけた四十代くらいの使用人二人が井戸端会議をしているようだった。
その使用人たちとの距離が縮まってきた時、二人の会話がうっすらと耳に入ってきた。
「ヴィルジール殿下ってば、最近暇さえあれば部屋にこもってるけど、何してるのかしらね?」
『ヴィルジール』という名に思わずクロエの耳が大きくなった。そのまま不自然にバスケットの中の整理を始め、蝸牛の歩みになりながら使用人の会話に聞き耳を立てる。
「なんでも、愛しい人への贈り物を作ってるって噂よ」
「まあ! あの小さかった殿下にも、ついにお妃様が?」
「もういいお歳だしねえ。お相手は先日いらっしゃった隣国の王女様かしら」
「ああ、四日前にいらっしゃってたわね。殿下と歳も近かったはずだし、お似合いよね」
「泣き虫だった殿下もご結婚かあ。そりゃ、私も歳を取るわね!」
そんな会話を盗み聞きしながら使用人たちの横を通り過ぎる。
会話を聞いたクロエの足取りは先ほどとは違い、どたどたと足音を立て地響きすら感じさせるものだった。
(結婚……? 王女様……!? そんな話、全然聞いてない……!!)
ふつふつと湧き上がる苛立ちとやるせなさを隠せなかったクロエは無意識のうちに鬼の形相になっていた。
その顔たるや、すれ違っていく使用人仲間が思わず二度見をしてしまうくらいの変貌ぶりだった。
それでも仕事に戻れば、いつもの完璧な『使用人クロエ』の人格が現れる。
あの形相は何かの見間違いだったのかと思うくらいに、クロエは真面目に使用人としての業務を行なった。
⁂ ⁂ ⁂
夜になりクロエの業務が終わったころ、マーガレットがひっそりと声をかけに来た。
「クロエ、何かあった? 夕方ごろ『すごい剣幕だった』って使用人たちがちょっと噂してたんだけど」
「え、そんなことはなかっと思うんですが……」
無意識に出ていた表情だったのでクロエにはそのような自覚が全くなかった。
「そう? ならいいんだけど。前にも言ったけど、頑張りすぎちゃだめよ」
マーガレットは一息吐いて胸をなでおろす。
「それにしても、クロエにそんな噂が立つなんて珍しいわよね。今日はアリスで息抜き出来なかったの?」
マーガレットの何気ない台詞がクロエの心に突き刺さった。
「……アリスには……、もう行かないかもしれません」
精一杯の作り笑顔をしたクロエの眉は下がりきっており、声もかすかに震えていた。
試験中にも勤務中にも見せたことない、こんなにも弱々しいクロエは初めてだと、マーガレットはその原因を脳内で探った。そうして一つの答えを導きだし、ぎゅっと唇を噛み締め、意を決したように口を開いた。
「アリスでヴィルジール殿下と何かあった?」
「…………! どうして……、殿下が出てくるんですか?」
クロエの心臓が跳ね上がった。アリスでの密会は誰も知らないものだと思っていたのだ。
王族と使用人がこそこそと会っているなんてことが知れたら王宮中の噂になるし、クロエに対する風当たりも強くなる。だがそんな気配など皆無だったので、アリスでのことは二人だけの秘密なのかと思っていた。
「安心して。クロエと殿下が会ってること、私と彼の専属執事しか知らないだろうから」
困惑するクロエの顔から彼女が何を考えているのかを察し、慌ててフォローをする。
この洞察力が、マーガレットが若くしてルビーのブローチをつけている所以でもある。
「……そう……ですか」
そう言って安堵の表情を浮かべながらも、今にも泣き出しそうなくらい声が震えていた。
なんとか一人で抑えていた気持ちだったが我慢の限界が来てしまったようで、『知っているのなら』とマーガレットに溜め込んでいたものを吐き出し始めた。
「アリスに……、来てくれないんです。もう四日経ちました。今日休憩から戻る時、使用人の方が『殿下が隣国の王女様と結婚する』って話してて……。別に、それならそれでいいんです。なんで何も言ってくれないんだろうって……」
ずっと泣かないようにと我慢していたクロエの頬に涙が伝う。この四日間の感情が静かに零れるような、一粒一粒が大きい涙がゆっくりと流れた。
マーガレットは優しく彼女の頭を撫でる。
「そうだったの。でも結婚なんて話聞いてないわよ。本当にそうなら、王宮内だってもっと賑やかになっててもいいはずだし」
なだめるよう優しい口調で話すマーガレットだったが、一度溢れた涙は栓を抜いたようでそう簡単に止まるはずもなかった。
「ねえ、クロエ。私には殿下があなた以外の人と結婚するなんて考えられないわ。ずっとあなたのことを求めていたんだもの。それは知っているでしょう?」
「……でも、それならどうしてって尚更。……何も言わず急に来なくなってからもう四日、普通好きな相手にそんなことしますか? そうですよ、やっぱり私との時間は戯れでただの暇つぶしだったんです。からかって面白がってたんです」
誰にも言えなかった不満と不安を声に出したことで感情が暴走したようだった。そのまま堰を切ったように話すクロエはどんどんと早口になる。
「昔会ったことのある、ちょうどいい玩具が来たってずーっとあざ笑ってたんです。どうせ私は下級貴族の使用人で、殿下と結ばれるなんて夢のまた夢で……、一人で舞い上がって馬鹿みたいでした」
くだを巻くよう言い切り顔を両手で覆うと、大きく肩を振るわせてすすり泣いた。
マーガレットはまた頭を優しく撫でて慎重に言葉を選ぶ。
「そうよね、何も言ってくれないんじゃわからないし不安にもなるわよね。クロエがそう言ってしまう気持ちも理解できるわ。でもね……」
マーガレットは今まで聞いてきた中で一番穏やかで優艶な声していた。
「ねえ。十年前、あなたと殿下がアリスで出会った時のこと覚えてる?」
クロエは顔を上げてマーガレットと目を合わせる。あの日のことを知っている人がいたことに驚き、クロエは泣きながらも目を丸くする。
マーガレットの穏やかな表情から全て知っているのだと察っした。
「……もちろんです、忘れるはずないです」
童話に出てくるような場所で、お伽話のような王子様に出会ったあの日。
泣いていた王子様、強くなりと言っていた王子様、笑った時は口角が誰よりも高く上がる王子様、懐中時計をくれた王子様、また会おうと約束した王子様……。
クロエは今でもあの日のことを鮮明に思い出せる。
「あの日は私とクロエが出会った日でもあるわよね。実はね、クロエと別れた後すぐにガゼボに殿下がいらっしゃったの」
「そう……、なんですか?」
「ええ。クロエがガゼボにいるのを見かけて走ってきたんですって。でもタイミングが悪くて、殿下とお会いしたのはちょうどあなたたちが王宮内に入っていくところだった。殿下ってば、すごい息を切らしていてね」
にこりと笑うマーガレットも、クロエと同じようにあの日のことを鮮明に覚えていた。
「クロエを見送ったけど、やっぱり名残惜しいって探してたみたいよ。その時にアリスで二人が会っていたって聞いたの。『運命の人だ』って目を輝かせながら話していたわ」
マーガレットはくすくすと思い出し笑いをしながら話す。
「正直、よくある子供のいっときの感情だと思ったの。でもそうじゃなかったわ。殿下ね、この時期になると毎年のように『クロエは元気だろうか』って私に言ってたのよ、それもすごい切なそうに。転機が来たのは一年半前ね」
一年半前、という言葉にクロエはハッとする。使用人採用試験で王宮に足を踏み入れた頃だ。
「クロエを推薦したこと、殿下には言ってなかったの」
「どうしてですか?」
「こっちではクロエの気持ちを知る由もないでしょ。もしかしたら他に恋人が出来ているかもしれない、『使用人なんて嫌』って来ないかもしれない。殿下には申し訳ないけど……、同じ女としてあなたの思いを、生活を、幸せを踏みにじるようなことはしたくなかったの」
「マーガレット長……」
マーガレットの優しさに触れたおかげか、涙はいつの間にか止まっていた。
「でも、杞憂だったみたいね。クロエも殿下と同じ思いだったんだもの」
マーガレットは胸をなでおろし微笑む。
「クロエが来てからの殿下は本当に楽しそうで、見ているこっちまで幸福感でいっぱいになるくらいだったわ。本当にあたなのことが好きなのよ。だから……、殿下を信じてあげてほしいの」
「……はい」
クロエの口角はいつしかほんのりと上がっていた。
「お話していただきありがとうございます。……殿下を、信じてみようと思います」
「ありがとう。どうか信じてあげて。私には二人が結婚する未来しか見えないんだからね」
クロエは照れくさく笑う。
最後に深々と頭を下げてマーガレットと別れた。
自室へ戻る廊下を歩きながら、頭の中で情報と記憶と感情の整理を試みる。
(マーガレット長が全部知っていたなんて思いもしなかった。それに殿下もガゼボに来たなんて……、それならもう少しマーガレット長と話していればよかった。
本当にずっと真剣に思っていてくれたんだ……。どうしよう、すごい嬉しい……!
やっぱり王女様との結婚なんてないのかな……。でも、アリスに来なくなった日と王女様が来た日が一致してるなんて訳ありとしか……)
整理するはずだったのに、気がつけば百面相のように思考がとっちらかっていた。
そうして自室の前に着いた時、どうしても答えの出ない疑問に行きついた。
(本当に……どうして急に来てくれなくなっちゃったの……)
悄然としながらドアノブを回す。
ドアを開けた瞬間、床に無造作に置かれている真っ白な封筒が目に入った。部屋には鍵をかけているし、辺りを見回してみるも誰かが侵入した形跡もない。
(何これ……?)
不審に思いながらも手紙をそっと拾う。
差出人の記載がなかったが、不死鳥の紋章が浮かび上がった赤いシーリングスタンプで封がしてあることから、王宮の誰かからだということはすぐに理解した。
ゆっくりと封を開け、手紙に目を通す。
しかめていた眉がみるみると上がり、鋭かった目は大きく見開いていく。
ものの数秒で読み終わった手紙を放り投げるように手から離し、クロエは部屋を飛び出した。
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