クロエとヴィルジールの茶会時間 〜close〜
クロエは昔を思い出しながら紅茶に映る自分と目を合わせる。
ティーカップに入っている残り僅かな紅茶は、アリスで過ごせる残り時間も一緒に告げていた。
「その気まぐれに、俺がティースプーン一杯分だけでも関与していたら嬉しいよ」
テーブルの上に肘を立て顔の前で手を組んだヴィルジールの微笑みは、庭園の赤い薔薇を散りばめたような王子様の微笑みだった。
「そうですね、ティーフォーク一杯分くらいでしたらあるかもしれません」
そう言うクロエの微笑みは氷のようで、ヴィルジールが背後に散りばめた薔薇をドライフラワーに変えてしまいそうなほど人間味がなかった。
それでもヴィルジールはクロエの返しに顔をくしゃっとし「ははっ」とひと笑いする。
「それでは掬えずに溢れてしまうではないか。クロエは相変わらず面白いことを言うね」
「恐縮です。これも、日々の殿下のお戯れで鍛えられているからかもしれませんね」
「なるほど……、それならもっと互いに鍛え合うというのも良いと思わないか?」
「これ以上鍛えたら、私は不敬罪で罪人になってしまうかもしれませんね。それと殿下、お戯れとは言え女性を口説く際に『鍛え合う』という表現はいささか不穏当かと思いますよ」
「これは失礼した。クロエの『鍛えられている』といった言葉につられてしまったようだ。俺は本当にクロエの影響をすぐに受けてしまう」
紳士的な謝罪の後、軽く口に手を当てて笑うヴィルジールの金髪をそよ風が揺らしていた。その姿はとても爽やかで、クロエは吹き抜ける春の風はやはり暖かいなと感じていた。
ティーカップに残っていた紅茶を飲み干すとまた小さな吐息をもらし、いつもの様にヴィルジールに告げる。
「それでは殿下、私はもう仕事に戻らなければいけませんので失礼いたします」
クロエはティーカップとポットをシーグラスのバスケットに片付け、解いていた髪を器用に編んでいく。
時刻は十五時五十分。彼女のアリスでのひと時は今日も終わりを迎える。
「もうそんな時間か。クロエと過ごす時間はあっという間だ。永遠に続けば良いのにと思ってしまうよ」
「終わりがあるから儚くて尊いんですよ。花と一緒です、散るとわかっているからこそ、四季を感じ花を愛でるんです」
「なるほど。じゃあ、クロエも俺と過ごす時間を儚くて尊いものだと思ってくれているのかな?」
「そうですね……、殿下とのお時間は終わりがあるとわかっているから、こうしてご一緒できているのかもしれませんね」
「これはまた上手い切り返しだ」
感服したかのように笑うヴィルジールは手際よく片付けるクロエを見つめていた。
決してアリスから去るのを引き留めたりはしない。時間で動いている使用人にとって、時間のズレは業務にも業績にも致命的であることを彼は知っていた。
そして、それは仕事熱心で真面目なクロエが一番嫌がることだと理解していた。
「頑張れ、クロエ」
立ち上がったクロエと一緒に腰を上げ、胸の横で小さく手を振り彼女を見送った。
⁂ ⁂ ⁂
王宮へと戻るクロエの歩幅は大きく、弾むようなステップをしている。そして微笑んでいるその顔は、先ほどまでの精密機器のような微笑みではなく、目元口元をだらしなく綻ばせたにやけ顔であった。
(本っ当に殿下ってば、かっこ良すぎで平常心を保つのが大変!)
クロエもまた、ヴィルジールと同じようにアリスでのひと時を特別なものだと感じていた。ヴィルジールがクロエを思っていたように、クロエもヴィルジールに恋焦がれてる。
つまるところ二人は両思いなのだが、それがヴィルジールに伝わらないようにとひた隠しにしていた。意地悪や焦らしているわけではなく、『下級貴族出身のたかが使用人の娘が。王族の、それも王子と。結ばれるなんてあってはならない』と、覆せない身分差というものを重く感じていたからだった。
「ご機嫌そうね、クロエ」
「マ、マーガレット長! お疲れ様です」
王宮内の見回りをしていたマーガレットが上機嫌なクロエを見つけ声をかけにきた。
にやけ顔が見れてしまったことを恥ずかしく思いながらも、目上の人に対する敬意はしっかりと払った挨拶をした。
幼少期に会ったマーガレットは今では家政婦長となっており、雰囲気も「お姉さん」から「淑女」へと変わっていた。当時短かった紅梅色の髪はだいぶ伸びたようで高い位置で一つに束ねられており、薄赤く引かれた口紅は首元に飾られたルビー色のブローチと同じように艶やかである。
変わっていないのは人当たりの良さだった。一年半前に試験を受けに来たクロエを、マーガレットはあの日の続きのであるかのように明るく接し迎え入れた。
そんなマーガレットを姉のように慕っていたし、他の使用人からの人望も厚かった。
「またアリスで休憩していたの?」
「はい。あそこは特別な場所で………。大好きなんです」
「息抜きできる自分だけの居場所があるのはいいことだわ。それにクロエが来るまで誰もアリスを使っていなかったし、庭師も喜んでいると思う」
王宮の庭園は庭師が毎日手入れをしており、四季折々の花々も庭師が植え替えている。庭園のどこにも枯れている花や乱れている草木がないのは庭師たちのおかげだ。
「そうですかね?」
「そうよ。やっぱり見てくれる人、使ってくれる人がいるってわかると仕事にも精が出たりするものよ」
そう言い切るマーガレットは誇らしげであった。
クロエもその意見には賛同した。家で裁縫の手伝いをしていた時でも、客が自分の仕立てた服に袖を通すところを想像するだけで針の進みが早くなったりしたものだった。
「確かに、マーガレット長のおっしゃってること分かる気がします」
「でしょ」
ニカっと笑うマーガレットに、本当の姉妹であるかのようなちょうど良い距離感と安心感を覚えた。
「あ! 急に引き留めてごめんね」
マーガレットは少し申し訳なさそうに顔の前で手を合わせる。
「もう休憩終わりよね?」
「まだ大丈夫です、時間に余裕はもたせていますので」
「さすがね。一年とせずに翡翠色のブローチになったんだもの、やっぱり他の見習いとは違うわ。でも、くれぐれも頑張りすぎないようにね」
「はい、ありがとうございます」
去り際に「万が一遅れたら、マーガレットに捕まってましたって言っていいから」と言った彼女の立ち振る舞いは、やはり実姉のようであった。
(私も、マーガレット長のようになれるかな……)
王宮の廊下を素早く歩きながらブローチを軽く撫でる。
首元のリボンに付けられたブローチの色は使用人の階級を表していた。
上からゴールド、ルビー、サファイア、翡翠、シルバーと並んでいる。シルバーは見習い使用人の色で、ここで働く使用人は皆シルバーのブローチから始まる。
多くの見習いが一年半以上かけて翡翠色に上がる中、一年足らずで翡翠色のブローチを授かったクロエの力量は目を見張るものであった。
そして、王宮にいる使用人の大多数は翡翠色のブローチを付けている。ルビーのブローチを付けているのは五人で、そのうちの一人がマーガレットだった。
クロエを褒めたマーガレットが弱冠三十半ばにしてルビーのブローチを付けていることも、また珍しいことでもあった。
(今日も頑張ろう!)
クロエは気合を入れ直し、いつもの業務へと戻っていった。