クロエの過去
アリスでヴィルジールと別れた後、母と合流したクロエは当然烈火の如く怒られた。しかし、はぐれたことよりもスカートの裾が破れていたことの方に癇癪を起こしたようだった。
「今から王宮に入るところだって言うのに……! どうして破けてるの!?」
荒々しく責められながらも本当のことを話さなかったのは、『王子様に会った』という御伽話のような出来事を自分だけの秘密にして胸にしまっておきたいと感じていたからだ。
普段なら大泣きしていたかもしれないが、その胸のときめきとスカートのポケットにしまった懐中時計が、夢見心地な気分から彼女を覚めさせなかった。
そして、破けたスカートはのちに副産物をもたらすことになる。
王宮の入り口前で父や出迎えの騎士と合流したクロエは二人にも深々と腰を折り謝罪をすると、自分でスカートを縫うから少し待ってくれと打診した。
破れたスカートで王宮に入る訳にもいかず、かと言ってここでクロエ一人待たせてしまうのも気が引けた両親はしぶしぶ了承するしかなかった。
ごめんなさい、と再度謝罪したクロエは少し離れた場所にあるガゼボの方へと向かった。
ドーム型の屋根で手彫りの装飾を施された真っ白な大理石で出来たガゼボは、アリスとは比べられないほど麗しく優雅であり、庭園の顔とも言える造りをしていた。
クロエはガゼボの手すりに腰掛けすぐさまソーイングセットを取り出すと、手間取ることなく一度で針に糸を通しスカートの裁縫を始めた。
「できた!」
ものの三分で完成したのは、彼女が日頃から行っている裁縫の技術があったからだろう。
切断部の丈が少し上がりアシンメトリーになったのだが、クロエの腕により初めからそのデザインであったかのようなスカートに蘇った。
我ながら上出来だと立ち上がったクロエに声がかかった。
「あなた、とても器用ね」
そう声をかけたのは女の使用人だった。
年齢は二十半ばくらいだろうか。紅梅色の短い髪とはつらつとした茶色い瞳は、春の生命力を表しているように見える。
その使用人は目を丸くして、首元の翡翠色のブローチの前で小さな拍手をしていた。
「はじめまして、クロエです。七歳です。今日はパパとママのおしごとのつごうでおじゃましてます。こんごとも、よろしくおねがいします」
深く頭を下げる。先ほどヴィルジールに挨拶をしたこともあり、今回は割とスムーズな挨拶が出来ていた。
「ありがとう、お利口さんね。それに可愛い。娘にしちゃいたいくらいだわ」
使用人はクロエを愛でるように接する。
「私はマーガレット。よろしくね、クロエちゃん。裁縫得意なんだね」
マーガレットはそのまましゃがみ込み、クロエと同じ目線になった。
「わたしのおうち、お洋服屋さんなのです。なので、わたしもいつもなにか作ってます」
「そっか、お洋服屋さんなんだね。じゃあ大きくなったらパパとママみたいなお洋服屋さんになるのかな?」
「んー……。わたし、大きくなったらお花屋さんになりたいです!」
予想外の返答だったのと屈託のない笑顔でそう答えるクロエがまた可愛かったので、自然とマーガレットは「あはは」と笑っていた。
「クロエちゃん、本当に可愛いね」
「えへへ……。ありがとうございます」
「ここはお花がいっぱいあるでしょ。お花屋さんは無理かもしれないけど、たくさんの花に囲まれてお仕事ができるから。いつか大きくなったら、うちで使用人として働くっていうのも選択肢の一つに入れてみてね」
「んー……? ここで働く……ですか?」
「うちは給料いいけど、その分いろいろハードで離職率も高くてね。手先が器用な人は頭も要領も良い、って個人的な統計もあるし、器用で可愛いクロエちゃんなら大歓迎だよ」
「ごめんなさい、ちょっとわからない……です」
畳みかけるようなマーガレットのおしゃべりにクロエは困り果てていた。
「わ、謝らないで! 私こそ一人で喋ってごめんね。クロエちゃん可愛いから、つい」
きっと悪い人ではないんだろう。幼少のクロエでもなんとなくそんな雰囲気を感じた。
「ありがとう、クロエちゃん。元気に明るく大きく育ってね」
「はい! ありがとうございます! パパとママが待ってるのでもういきます!」
バイバイとマーガレットは手を振り、クロエが両親たちと合流するまで見届ける。
王宮の前から頭を下げてきたクロエの両親の姿を目視したマーガレットは微笑みながら会釈を返した。
………………
…………
……
それから八年後。
クロエが十五歳だった時の春、家に一通の文が届いた。それは王宮からの手紙で、差出人の名には『マーガレット』と記載されていた。
あの日のことは今でも忘れていなかったクロエにとって、その名前はとても懐かしい響きであった。
お手本のような綺麗な筆記体で書かれた手紙の内容を要約すると、秋に使用人の採用試験があるからそれに参加しないか、ということだった。
いわば推薦状ともとれる手紙をもらったことにクロエと両親は大いに喜んだ。王宮で働けるのは選ばれた貴族のみであり、こうしたきっかけがなければ下級貴族が王宮勤務できる可能性はほぼ皆無に等しかったからだ。
あの日スカートを切断していなかったら、この文が届くこともなかっただろう。
だが、クロエは手放しで喜べなかった。身体も心も成長してしまった彼女は、思考もずいぶんと現実的になっていた。
春には鳥が唄うように、冬には世界が銀に染まるように、いずれ洋裁師になり家業を継ぐのが自然の摂理なんだと身を委ねていた。
その摂理を壊すかのようにやってきた一枚の手紙は、過去の思い出を強く蘇らせると共に、大人になったクロエを惑わせるのには十分すぎるほどだった。
名誉ある王宮での仕事。安定した高給料。裁縫以外の世界を知れるまたとない機会。そしてアリスと、あの時また会おうと約束した王子様……。
王宮で働きたいという気持ちは私利私欲であり不純すぎるのではないか、やはり家業を継ぐためにこのまま家で裁縫の経験を積まなくてはいけないのではないかと、自問自答を繰り返していた。
手紙が来てから数日後、クロエが未だに悩んでいると察した母はずっと胸に秘めていた思いを打ち明かした。
「ねぇ、クロエ。あなたの家業を継ぐという気持ちはとても嬉しいわ。私もそのつもりで小さい時からクロエに針を持たせていたしね。でもね、それを後悔していたりもするの。もっと自由にいろいろなことに触れさせてあげれば良かったって。この歳になってやっとわかった、あれは……親のエゴだった」
母は伏し目がちに話す。
クロエの脳内では幼少期の思い出が駆け巡っていた。
くだらない話にも笑ってくれた母、いけないことをした時に怒ってくれた母、友達と喧嘩して慰めてくれた母、上手く裁縫ができた時に一緒に喜んで褒めてくれた母、仕事に真剣に取り組んでいた母、大好きな母……。
あの時の若々しい母の姿はもうない。
今目に映っているのは、顔や首や手にたくさんのしわを作り、哀愁めいた表情を浮かべる老いた母の姿だった。
「お母さん……。私、裁縫しかしてこなかったこと嫌だったわけじゃないよ。一から物を作るのは楽しかった。でも、私……」
言葉を詰まらせ母の前で立ちすくむ。
本当にそれが正解なのか、それこそ自分のエゴなのではないか、家業を継ぐのが一番の親孝行になるのではないか。
気持ちの整理ができず、うつむいてしまったクロエからはそれ以上の言葉が出てこなかった。その心中を察した母は、今にも涙が伝いそうな彼女の頬を優しく包み込む。
「ありがとう、クロエ。良い子に育ってくれて、お母さんは本当に嬉しいわ。もう十分すぎるくらい。だからこれからは、親のレールから外れて自分の道を進んでみなさい」
目尻にしわを寄せ微笑む母の顔が時の流れを現していたが、彼女を思うその温もりだけは昔からなにも変わってはいなかった。
溢れ出した涙を母の手が受け止める。
「クロエなら大丈夫。お母さんもお父さんも応援してる。もし駄目だと思ったら帰ってくればいい。いつだって、あなたの家はここにあるのよ」
母の言葉で決心がついたクロエは大粒の涙を流した。
「お母さん……、ありがとう」
他にももっと伝えたいことがあるはずなのだが、今はこの言葉しか出てこなかった。
彼女が母の前で声を出しながら泣くのは何年振りだっただろうか。何度も涙を拭うクロエの頭を母が撫でる。
「クロエは頑張り屋さんだからちょっと心配もしちゃうけど……、ここで見守ってる。あなたならきっと裁縫以外の世界でも上手くやれるわ」
優しく笑う母の表情の中には、ようやく娘が独り立ちしたという安堵の気持ちも含まれていた。