「第三十六話」路地裏にて
(今回はアリーシャ視点です)
とにかく屋根を走り続けた私達は、どうにかして追手を振り払うことができた。今は路地裏をひっそりと……とにかく人目につかないところをそろりそろりと歩いていた。
「ここまで来れば、流石に追ってこねぇだろ」
肩で息をしていた男が、とうとうその場に崩れ落ちた。よっぽど疲れていたのか、ゲホゲホと辛そうに呼吸をしている。考えてみれば、こんな年のおっさんがあれだけ走ったのだ。こんだけくたびれてもまぁ仕方がないだろう。
「……お前さんのお陰で助かった。俺一人だったら、人数差でやられてた」
「そう、じゃあ……そろそろ質問に答えてもらっても良い?」
「おいおい、その前にやるべきことがあるだろ。お互い初対面なんだぜ?」
変なところでしっかりとしたがるこの男。ある程度息を整えてから、ゆっくりと立ち上がる。そして何故かニヤニヤ笑いながら、私を見ている。
「……自己紹介は?」
「しねぇよ、俺には名前がねぇんだ」
「はぁ!?」
「声でかい、黙れ」
私はとっさに自分の口を塞ぎ、周囲をちらりと見渡す。建物と建物の間に挟まれた位置にいるため声が漏れることはないだろうが、それにしたってまぁ心臓には悪い。取り敢えず私は深呼吸をした。正直、私も走りっぱなしで息が苦しかったのだ。
男はため息をついた。
「まぁ正確には、思い出せねぇんだよ。自分の名前」
「どういうこと?」
私はこの人が何を言っているのかが分からなかったが、この人も自分が何を言っているのか分かっていない様子だった。ひとまず無駄に口を挟むことを止め、私はこの男の話を聞くことにした。
「なんて言えばいいかねぇ、ぼんやりとは分かるんだ……だが、思い出せない」
「そう、なんだ。……なんか、ごめん」
「んぁ? なんで謝るんだ?」
「え?」
「だから、なんで謝る必要があるんだよって聞いてるんだよ」
小首を傾げながら、男は懐に手を突っ込む。人差し指でつまんでいたそれは、初めて会った時に私が貰った飴玉だった。
「別にお前のせいで覚えてないわけじゃねぇんだ、非が無いのに謝るんじゃねぇ」
それにな。そう言って、男は飴玉を口に放り込んだ。
「思い出さないほうがいいかもしれないようなクソ野郎だったんじゃないか。そう思うと、まぁ別に思い出さなくてもいいんじゃないか……って思ったんだ」
その顔は、今までの印象とは大きくかけ離れたものだった。深くて、悲しそうで……真面目に自分の境遇を見つめている人間の目だった。それこそまさに、別人のように見えるほど。
「……ま、そんな訳なんだが。お前、俺に用があったんだろう?」
口元から何かを噛み砕くような音が聞こえると同時に、男は尋ねてきた。
「教えてやるよ。知りたいんだろ? お前が持ってる虹の魔法……それを完全に目覚めさせる方法を」
その直後、爆風と轟音が同時に五感を刺激する。
特に意味もなく空を見上げると、赤い雷のような光と、青白い光が互いに弾け合っていた。




