「第一話」十六回目の誕生日
長い赤髪を耳にかけ、ちょっと小さい自分の胸に手を当てる。ブカブカの黒いローブは相変わらず重くて、いっそのこと脱いでやろうかと思ってしまうほどだ。
木々の間隙に息を潜めながら、私は一人の男を見据えていた。森中へ伝播する覇気、常に空気の流れを支配しているかのようなその佇まいは事実、周囲の魔力を騒がせ、周囲に動物は一匹たりともいなかった。
白髪、青い瞳。羽織った黒いローブはそれらを包み込み、昼間にも拘わらずまるで夜空を見ているような気持ちにさせられる。
彼の名はゼファー。
かつて世界を救った、誰もが認める最強の魔法使い。
しかし、私の勝利条件は今も昔も変わらない。
たった一撃。私の魔法をあの男に当てることさえできれば、私は私自身の夢へと大きく一歩近づく。
気づかれないように、魔力を練ることに全神経を注ぎ込む。
空気中の自然な流れに溶け込むように、風に紛れ込むように。
優秀な魔法使いはその気になれば、魔力の流れを読み取るだけで相手の位置を把握することができる。正面から勝てるような相手ではない。ならば不意打ち、しかも、一撃でケリを付けなければならない。
収束、そして練り上げる。
得た魔力を杖先に集中させ、圧縮して。限界まで溜め、ゼファーのいる方向に放つ。当たれば勝利、外せば即ち私の負けだ。
緊張の一瞬。──その隙を、私は見逃さなかった。
抑えていた魔力を解放し、即座に魔法として変換する。集めた魔力は光の束として、迅速かつ十分な威力を以て放たれた。対してゼファーは防ぐ素振りも、気づく様子もない。──だが。
「っ……」
勢いがあったはずの魔法は急激に小さく細くなっていき、ゼファーの間合いに入る頃にはバラバラに霧散していた。
ああ、まただ。この違和感。
また魔法をきちんと練ることができなかった。
思わず一歩下がって、背中に硬いものが当たった。振り返るとそこには、杖を握ったゼファーがいた。咄嗟に魔法を放とうとしたがそれも虚しく、彼の指先が少し動くと同時に、手から杖が弾かれてしまった。
「まだまだ修行が足りんな」
杖を引っ込められて、私はその場に座り込んでしまった。こんな滅茶苦茶に自分に腹を立てるのはもう何度目だろうか? 噛み締めて、飲み込んで、悔しさが煮え立っていた。
「あーもうまた負けた! 今度は絶対に上手くいったと思ったのに!」
「惜しいところまで行ったんだがなぁ……やはりお前は、魔力を練るのが苦手らしい」
ゼファーは顎をさすりながら、座り込んだ私を見ていた。そしてやがて、ぎこちなく尋ねてきた。
「魔法を使う時に、何か違和感を感じたりしていないか?」
「? 言われてみればあるかもだけど……うーん、別に気にするほどじゃないと思うよ?」
「……そうか。まぁ前回よりは飛距離が伸びているし、それはきちんと頑張っている証拠だ。偉いぞ」
ゼファーは笑いながらしゃがみ込み、私の頭を撫でてきた。落ち着くけど、嬉しいけど。そうじゃないっていう気持ちが、ゼファーの手を振り払った。
「おっと、どうした?」
「もう一回やろう、今度は絶対勝つから!」
勢いよく立ち上がった私を、ゼファーは目を丸くして見ていた。やがて悲しそうな顔をするとともに、厳しい眼差しを向けてきた。
「アリーシャ、それは駄目だ。言っただろう? 儂との実技試験は一日一回まで。約束したじゃないか」
「そんなんじゃ全然足りないよ! 私は早く一人前になって旅に出たいの! ねぇ、いいでしょ? ねぇお願い」
「……駄目だ、今のお前では三日経たない内に死ぬ」
子供っぽいことを言っているのは分かっている。甘えていることなど百も承知だ。
でも、それでも私は、早く一人前にならなければならないのだ。
ゼファーは私の顔を見たまま、困惑したように聞いてきた。
「アリーシャ、最近のお前はどうにも変だ。魔法に熱心で向上心があるのはとてもいいことだが、焦っているようにも見える。何をそんなに急いでいるんだ?」
「それは! ……っ」
気づけば、ゼファーの顔には不安しか残っていなかった。私のことを心の底から心配していた。
「……最近、思うんだよね。私、才能無いんじゃないかって」
正直に胸の内を明かすことにした。
「十年、子供の頃から沢山修行してきたよ。ゼファーに教えてもらって、ゼファーに勝つために頑張ってきた。だけど私、いつまで経ってもちゃんとした魔法が打てないの」
飲み込んだ言葉を抑えきれず、結局吐き出す。
「私、こんなので立派な魔法使いになれるのかな」
弱音を吐いた。
ゼファーに直接こんな事を言うのは、多分初めてだ。その証拠に彼の顔は驚いていて、考え込むように黙っていた。
「こんなので、虹の魔法なんて見つけられるのかな」
それは、魔法使いの間に伝わる伝説。
ある時はあらゆる傷や呪いを溶かし、それらに侵された命を救う。またある時はすべての魔法の威力を凌駕すると言われている、魔法においての一つの到達点。それが虹の魔法。
何処にあるのかも分からない、だが御伽話にしては余りにも証拠になる文献が多すぎる……どっちつかずのまま、その概念は今日まで全ての魔法使いの頭の中で息をしている。中には、実際にそれを見つけるために生涯を捧げている者も少なくない。
私の夢は、そんな夢物語を手に入れることである。
言ったってどうにもならないことは分かる。でも、自分の将来への疑問を抱かずにはいられなかった。
「大丈夫さ」
そんな私の頭を、ゼファーはそっと撫でた。
「なんたってお前は、その立派な魔法使い様の一番弟子なのだからな」
その力強い手が心地よくて、安心できて。
根拠も何も無いけど、そんな気がしてきた。私は湧き上がる嬉しさを抑えること無く、その場でぴょんと跳んでみた。
「うん! 私、もっと頑張る! 早くゼファーに勝って、旅に出て……虹の魔法を見つける! それでいつか、ゼファーもびっくりするぐらい凄い魔法使いになるんだ!」
ゼファーはそんな私を見て微笑んでいた。嬉しさの中に、若干の寂しさを感じさせて、それでもやはり、喜んでいた。
「よく言った! じゃあそのためにも、早く帰って魔法使いとしての知識を積もうじゃないか」
「げぇっ! は、ハメられたぁ……」
ケラケラと笑うゼファー。なんてことはない、いつも通りに笑う彼を見て、しかし私は、漠然と嫌な予感がした。
「……ねぇ、ゼファー」
「ん?」
「私が一人前になるまで、いなくなったりしないよね?」
冗談交じりに聞いたが、彼は少しも笑っていなかった。驚いたような、悲しむような……そんななんとも言えない表情を静かに切り替え、ゼファーは笑った。
「では誓おう。魔法使いゼファーは、未来の魔法使いアリーシャの行く末を、この命ある限り見届け続ける……と」
それは安心感を与えてくれた。最強の魔法使いとして、それ以前に育ての親として……私の将来に期待し、それを最後まで見届けると誓ってくれた。
「……約束だよ?」
「ああ、約束だ」
安心感の中に、燻る不安。
思い込み、どうせ何も起こらない。そう自分に言い聞かせ続けて、私は大きく息を吸って、思いっきり吐いた。
「お腹空いた! 今日のご飯なぁに!?」
「そうだなぁ、久しぶりにシチューでもどうだ?」
「やったぁ!」
「喜ぶのはまだ早いぞぅ? なんとなんと……今日はお前の誕生日! だから肉も入れるぞぉ!」
「ほんとに!? ゼファー大好き!」
私は喜びのあまり、飛びかかるように抱きついた。よろめきながらもしっかりと受け止めてくれた身体は、ちょっと臭い。そんな匂いが全身を包み込む。
「儂も愛しているぞぉ! 可愛い可愛い、儂の自慢の愛弟子よ!」
くっしゃくしゃに頭を撫でられ、くすぐったくて嬉しくて……でもちょっと恥ずかしかったから、流石に離れた。
「え、どうした?」
「い、家まで競争! 勝ったほうがシチューの盛り付け役ね! よーいドン!」
「ふぁっ!? お前さては肉をかっさらうつもりだな!? そうはさせるか待てぇええいっ!」
木々を掻い潜るように、私は走った。背後からはいい年したゼファーが、ゼェゼェ言いながら走ってくる。がんばれ、がんばれ……そんなふうに笑っていたら、私は遂に気づいた。
「ま、まて……待ってぇ!」
「こっこまでおいで〜!」
いいや、見つけたと言ったほうが正しいのかもしれない。
自分が置かれているこの環境、生きている今この時こそ、私にとっての至上の幸せだという事実を。──だからこそ、私は。
「……気のせい、だよね」
見えないものに蓋でもするかのように、今も向けられる視線に見て見ぬふりをする。走っても拭いきれない汗と不安は、静かに迫っている何か……いいや、明確な誰かへの恐怖を増幅させていた。
それでも、大丈夫。
何があっても、ゼファーが守ってくれるから。
「あれ?」
「……」
ふと振り返ると、ゼファーが深刻そうな顔で遠くを見つめていた。丁度私が見ていた方向と同じ。やはり、何かあるのだろうか?
「……気のせいか」
「ゼファー? どうしたの?」
「ああ、大したことじゃない。薪を切らしているのを忘れてしまっていてな……すまないが、中に入って待っててくれ」
「あっ、それなら私が……」
私が言い終わる前に、ゼファーの杖先が地面を小突く。直後、ゼファーの姿は既に無く、そこには残滓とは思えないほど強力な魔力が漂っているだけだった。
「……行っちゃった」
溜め息をつきながら、ドアノブに手を伸ばす。──その時だった、背後から刺すような何かを感じ取ったのは。それが何なのかを思考するよりも前に、魔力の流れに潜んだ殺意が、腑抜けた自分に放たれた。
「──ッ!」
見るよりも観た。捉えるよりも前に身体が動き、私は後方へと飛び込んでいた。余波による衝撃により、私は初めて襲撃されたことを認識した。
霧散した魔法の奥に、獣がいた。
杖を握り、同じ人間にしか見えない。しかし溢れ出る殺意、周囲の魔力の流れが、その存在を人外だと証明していた。
「……あんた誰」
「これから死ぬ奴に、名乗る意味なんて無い」
杖先が、私に向けられる。その瞬間、私の握りしめていた杖が勢いよく引き寄せられていき、襲撃者の手元にするりと収まった。
「杖が無くてはまともな魔法は使えまい」
大人しくしていれば、楽に殺してやる。
そう言いたげな威圧、圧迫感が全身を強張らせる。
丸腰の魔法使いに打つ手など、無い。
杖が無ければまともな魔法を使うことなどできない。掌の上に乗るほどの魔力だ、使える魔法などたかが知れている。
ここで死ぬのか?
私はここで、殺されるのか?
何がなんだか分からないまま?
始まる前に、私の夢は終わるのか?
──そんなの、嫌だ。
「ぁぁぁぁぁぁあああ!!」
踏み出し、詰める。
例え魔法が使えなくても、魔力を握ることぐらいはできる。練り上げる前の段階のそれを、ありったけ拳に纏った。
「馬鹿め、血迷ったな! 貴様程度の魔力量では、俺の防御魔法は破れない!」
魔法使いにあるまじき、ただの拳。
威力などたかが知れている、安い防御魔法を張るだけで事足りるような代物。──だが、いつも感じていた違和感がそこにはなかった。
「──っ、うりゃぁぁああああ!!」
まるで硝子のように、防御魔法の壁を突き破る。
拳はそのまま、襲撃者の顔面を撃ち抜いた。
「っ、ぁ」
鼻っ柱を殴り飛ばされた襲撃者は、顔面を抑えながら悶えていた。何故自分が殴られたのか、何が起こったのか理解できていない様子だった。
「……え?」
握りしめた自分の拳を見つめる。
私も、訳が分からない。