9 僕と元カノ
ある昼のことだった。僕はカップラーメンをすすっていた。そのときアパートの部屋のチャイムが鳴らされた。ピンポーン。
「こんにちは!」
壁の向こうから声が聞こえた。女の声だ。僕は待っていてと告げ、ドアの覗き穴に目を通した。ドアの向こうにはもみじがいた。
「ちょっと時間を改めてくれないかな。今、事情があって取り込み中なんだ」
コンコンとドアが叩かれた。僕は参ってしまった。
「ごめん、もみじさん。少し外してくれないか」
コンコンコンコンとドアが叩かれる。もみじは無表情で直立不動だ。
「当方、ただいま多忙と相成候」
ゴンゴンとドアが殴られる。僕は部屋を振り返り大きな溜息を吐いた。
「オーケー、穏便にいこう。今開けるさ」
ゴンゴンゴンゴンとドアが殴られる。僕は覚悟を決めてドアを開いた。もみじはスウェット姿の僕を発見した。そして僕の向こう、部屋でモンチーが怯えているのも見つけた。さらに、僕の元カノがモンチーの首輪を握っているのも見えたはずだった。テーブルにはカップラーメンが二杯……味噌、シーフード。芳ばしい香り。
「浮気っ!」
僕は左頬に平手打ちを食らって倒れ込んだ。
もみじは僕を隣に座らせ正座した。僕の対面には元カノとモンチー。異様な光景だった。
「申し訳ございません、湯浅さんでしたっけ? 私は浜中さんとはお別れした後なのです。これっぽっちも未練はありません。ですから彼は浮気をしているわけではありませんよ」
僕は赤く腫れた頬を慰撫した。もみじは表情を作ることなく元カノと向き合う。
「それでも、他人の男の家に上がり込むなんてふしだらじゃありませんか。誤解を招いても仕方の無いことだと思います。あまつさえ一緒にお昼ご飯を食べるなんて。何をしにやって来たんですか」
僕は色々後悔した。もみじには事前に連絡しておくべきだったし、元カノとはきちんとコミュニケーションを図っておくべきだったのだ。いつまでもアフリカ的太平楽ではいけない。非常に気まずいぜ。
「私は猿を連れ戻しに来ました。彼とは、別れた日から十カ月後、満三百日後に猿を返還する契約をしていたのです。一昨日がその召還期日でした。彼からは契約延長の申し入れがなされており、私は昨日の午後十二時にその打診を了解し、ひとまず期間を一週間延長することを決定し、電話上で同意しました。しかし一週間後、本日から六日後に猿をどのように取り扱うかについて、双方で協議をして決定する必要がありますから、こうして猿がいる浜中蓮さんの自宅にて話し合いというかたちで新たな契約の形態を検討・模索していたのであります。
浜中さんに現在恋人がいるということは私に通知されていませんでしたし、今回は私が猿を引き取るか、それ以外の選択肢をお互いで考案するかについての一次協議でして、長居する予定も無かったものですから、こうして細かい都合をつけずお邪魔したわけです。本日、浜中さんに浮気やその他社会的に不都合な、あるいは個人的なお二人の関係に嫌疑と軋轢を生じさせるような結果を招いたことは、こちらとしても大変遺憾であります。
また、私が昨年の数カ月間、浜中さんと男女交際させていただいていたことは紛れもない事実です。その間、本日の記憶にある限りでは三十二回あまりの接吻行為と、九回の性的な戯れ――とでも申しましょうか、性的接触を行い、六回ほど避妊具を用いての性行為をし、避妊具を用いずに一回の交合をしたこともまた、疑いようのない事実でありまして、先ほど述べた項目についてこれを認めます。改めてお詫びを申し上げますが、正直私にはお詫びするほかに処置ができないものですから、お二人の今後について当方は関知せず、責任も負いかねますことをよろしくご了解いただきたく存じます」
もみじは面食らったみたいだった。僕の元カノは久々に会うと役人みたいだった。たぶんモンチーを引き取る際に厄介な法律上のごたごたを生まないよう、趣旨を明確に、法律的に、あるいは永田町的にわかりやすい話し方をしているのだと思う。
「どゆこと?」
「つまりさ、モンチーを引き取りたいらしい。元々モンチーは僕と彼女が共同で飼育していたんだよ。別れた後は僕が預かっていたんだけど、彼女としてはモンチーを自分で育てたいみたいなんだ」
元カノとモンチーの所有権を巡って一悶着起こしている最中ということだ。もみじはつららのようなまつ毛をしばたかせて元カノを直視した。元カノも動じなかった。
「それで、とりあえず私と浜中さんで猿の取り扱いについて話し合いをしたいので、湯浅さんには悪いですが本日はご帰宅願えませんでしょうか。不都合なら、私は浜中さんと近所のカフェにでも行きます。ご意見をお聞かせください」
「いいえ。カレンくんは貸しません。モンチーも渡せません」
もみじはきっぱりと断言した。あくまで爽快に答える。
「それはなぜ? もし私に対する筋違いな逆恨みが原因ならば、即刻切り捨てさせていただきます。私は浜中さんときちんと決着を着けたいだけですので」
「そんな物騒なこと言っても無駄です」
「物騒とは? 仏僧ですか。何がブッソウなのですか。切り捨てると言ったことですか。それは言葉の綾です。私は貴方の発言を考慮しないという意味で当該の言葉を用いました。刃物で切断するという意味ではありませんからご心配には及びません」
もみじは紅葉みたいに赤くなった。僕の左頬と同じく。
「でも、カレンくんとモンチーは渡しません」
「ですから、理由を明確に仰ってください。答えようによってはこちらも考え直します」
もみじは無表情で元カノを凝視していた。AVを観ているのかと思うくらいだ。穴が開くほど見つめられた元カノは困惑していた。何にも無い平らな胸を押さえている。しかし、もみじの手段は誤っていない。敵をきちんと見極めているのだ。シンプルに考えている……。
「私は文化人類学で、人類の文化発展について研究しています。その過程で猿についても興味を抱いて調査も行ったことがあります。モンチーとはそんな中、出会いました。私はモンチーが猿として大好きです。そしてカレンくんも男性として大好きです」
ありがとね。やったな、モンチー。
「私は知っています。カレンくんはモンチーのことを誰より何より大切にしています。彼は変わりました。私は今のカレンくんとモンチーを引き剥がすべきではない。そう感じています。それは二人にとってお互いが精神的に重要な存在だからです。二人を愛している私としても、三人で一緒に過ごす未来しか考えられません。どうしても、モンチーは欠けてはいけないんです。わかってください」
「全く話が理解できなかったのですが……」
元カノは気の毒そうに言った。
「つまり、どういうことですか? 浜中さんは猿の所有権を大事なものと捉えており、猿を手放すならば、貴方との関係を解消すると主張しているのですか? なぜ猿の所有が大事なのですか。なぜ猿がいないと貴方と浜中さんは別れてしまうのですか?」
完全なディスコミュニケーションが成立していた。手に負えないほど深刻に。僕でさえ顎が外れそうになった。
「は、はあ? 私とカレンくんがモンチーに愛着を抱いているから簡単に手放すつもりは無いって言ってんの! 物わかり悪すぎでしょ。何なのアンタ。うっざ」
もみじの北アフリカの面が出て来た。僕は鼻をほじって諦観した。こりゃ駄目だ。
「どうして私が怒りを差し向けられないといけないのですか。愛着を持っているのは私も同じです。元々、あの猿の飼い主の登録は私になっていました。半同棲の期間、飼育に支払う餌代の七十パーセント近くは私が受け持っていました。私にだって懐いているんですよ。ほら、腕を開けば膝の上にも乗るでしょう。これが証拠です。役所の書類や領収書もご査収ください。どうぞ!」
元カノはコミック本くらいの厚さのプリントを突き付けた。もみじは躊躇いも無く背後に投げ飛ばした。ひゅー、やるじゃんもみじちゃん。――誰でもいい、助けて。
「モンチーの未来は、こんな薄っぺらい紙だけでは決まりません。私は一人の命の話をしているの」
「意味がわかりませんね。そもそも弁護士でもない貴方が、所有権を巡る闘争に口を挟む権限はありません。さっきからわかってます? 貴方がいかに愛着を持っていようと、知ったこっちゃないんです。だって部外者ですもの。これは浜中さんと私の問題です」
「カレンくんにだって懐いているじゃありませんか。彼はずっとモンチーの面倒を見てきたんです。二人は無二の親友みたいに過ごしていたんです。私が訪れる前から」
「はあ、嫉妬やら私怨やらを持ち込まれては困りますね。目を覚ましてください。これは私と貴方との間にある問題じゃないんです。これだから文盲と話すのはくたびれる」
「なんですって。よくもそんな口が利けるわ、淫売。どうせモンチーを手掛かりに彼とよりを戻す算段なんでしょう。それか、ふられたことに復讐をしたいんだわ。醜い女」
もみじと元カノは一触即発だった。今にも手が出かねない。僕もモンチーも手をこまねいていた。もう僕らが入り込める余地は、猫のひげほども無い。
「そもそもなんでモンチーを取り返したいのよ。お酒飲んでぱこぱこするだけが仕事の女子大生が、猿なんか。裏がありそう」
「裏ですか? これは裏と表がある問題なのですか。建前としての表向きがあって、核心となる裏面がある。これはそういう仕組みなのですか。私はそのように認識していませんでした。思うに、これは『増える』か『減る』かの単純な構造ではないのですか。どちらかの権利が増え、反対側の権利は減る。私が猿を連れ戻したいのは、当然私に権利が存在するからです。浜中さんが現在猿を保有していると言っても、私と浜中さんで猿の飼育する権利は真っ二つなんです。むしろ私の方が多いくらいなんです。ですから、私が猿の今後を決めるのは勝手でしょう」
「まじで何を話しているのか頭に入って来ない。頭痛がする。やめてその話し方」
「といいますか、浜中さんの意見を伺ってもよろしいですか。先ほどからだんまりを決め込んでいるようですが。そもそも話し合いの責任は貴方の方に帰着しているのです」
「なんでカレンくんは助けてくれないの。モンチー要らないの? 私が嫌いなの? 私は捨てられるんだ……。私は捨てられて絶望して猿が欠けたカレンくんと一緒に冷たい袋田の滝で心中自殺するんだ。そして冷たい警官に発見されて冷たい解剖室で――」
「うん。あのさ、モンチー返せ」
僕は既に覚悟を決めたんだ。当事者として闘うと決めたのだった。逃げていては良くない。目の前には元カノがいる。彼女は敵だ。しかし彼女自体が悪なのではない。彼女に作用しているシステムが悪である。僕は彼女のある一部分から悪を洗い出さなければ、シンプルに敵を殴殺することはできないだろう。彼女そのものを傷付けることになる。
「とにかくモンチーをそっちに渡すことはできない。モンチーはこちら側にいるべきだし、僕は戦ってでもこっちに引き留めるつもりだ。君が何を騒ごうと、それは知ったこっちゃない。君は恐らく僕が猿を所有していることを研究所の科学者にリークしたはずだ。だから僕は猿の実験に参加させられる羽目になった。それは推測でしかないけど、恐らく間違っていないと確信している。
君の目論見はこうだ。僕が猿の実験にモンチーを連れて行く。そこでモンチーの有能性が否定される。すると猿の飼育に関する何らかの法的な規制が厳格になり、僕は今の環境で猿の飼育を継続することが不可能になる。そこで君が再登場し、猿を預かる。このように君はモンチーを入手するつもりだ。僕はその目的をはっきり思い浮かべることはできないけれど、血やお金や権力やら何か黒々とした闇の部分と直結していることはわかる。君はエゴイズムのためにモンチーを利用しようと考えているんだ。よって僕はモンチーを渡すことはできない。これは正義の心とモンチーの幸せに端を発している」
元カノは明らかに動揺していた。かつて僕が調子に乗って先に彼女を性的絶頂に導いてしまった後のように、不機嫌な顔を作った。次の日、彼女はずっと機嫌が悪かった。モンチーに対して僕の悪口を聞かせ、僕に反省を促すのだった。ああ思い出した。
だけど、僕も悪かったんだね。君も一人の女の子だった。乱暴にしたら怖いんだ。自分の中身にいる何かが暴発して彼女の腹を突き破らんばかりに噴火したのだろう。女の子には優しくして優しくし過ぎることは無い。僕は個人的な恨みを捨てる。ただ彼女を蝕む悪とだけ対峙する。