8 僕とアミ
僕はもみじと交わっていた。もみじは僕の上に跨って腰を動かしていた。僕はどうしようもなかった。後部座席のシートに寝そべり、もみじの体液を受けた。そのほとんどは鹹い汗だった。なぜ人は一心に何かに取り組むと、水分を漏らすのだろう。
「もみじさん、僕はもみじさんがよくわからないな」
「私は私で、私がよくわからない。私はお腹の中に私以外の何かを抱えているんだと思う」
もみじは倒れ込んで僕を抱き締めた。僕は脳が考えない方向に向かっているような気がした。反射――僕は小学生の頃、野球の練習のために壁当てをしていた。高学年になる頃には、結構速い球も投げられるようになった。ある日、僕の投げたボールは壁の凹んだへりの部分に当たり、僕自身に向かって一直線に跳ね返ってきた。僕は咄嗟のことで前転した。そして頭上を軟式ボールは通過して行った。僕は確かに覚えている。スローモーションでボールが跳ね返ってくるのを見たのだ。いや、あれはパラパラ漫画という方が近いかもしれない。ボールが徐々に向かってくる。僕は何も考えることなくでんぐり返しをする。見事にボールを避ける。
あれはどんなに練習をしても、二度と再現できないと思う。極度の緊張と集中。思考するということを一切排除した、動物的な唯一感覚のゾーンに侵入していた。……三カ月後、僕はピッチャーライナーを左頬に受け、キャッチボールもできないほどのイップスに陥り、野球を引退する。
僕はもみじの背中と尻を撫でた。もみじは遠慮の無い声を出した。それは深い溜息に紛れた声だった。声を抑えたくても恥ずかしさに勝って声が漏れてしまうようだった。水分と音声、これは人が避けたくても避けられない何かである、ともみじは言うと思う。
「私はね、怖いんだよ。いつか中身の私が皮の私を食い破って交代するの。私は確実にいつかいなくなっちゃうの。でもカレンくんがいてくれれば、私がお腹から破れてぐちゃぐちゃの塊になっても、また継ぎ合わせて元に戻してくれると信じている。きっとそれは近い将来で、私は焦っているんだと思う。もうお腹が膨れている気がする」
僕はもみじの細い体をきつく抱いた。それでももみじは動くのをやめなかった。僕はどうしてか、もみじをこれ以上受け入れてはいけないようだと思っていた。こんなにもみじは僕から何かを吸い取ろうとしているのに? 現在僕を求めているのはたぶん、もみじの内側にいるもみじだった。それはもみじに言わせれば、もみじじゃない。僕ともみじは見ている方向がズレているのだ。
「僕にもみじさんを守る資格があるのか、まだ断言できない。でも女の子を愛するということはこういうことなんだね。女の子は可愛いし、頼りになるし、明るいし、よい朋友の延長に恋人となると僕は思っていた。だけど、そうじゃないんだね。女の子は僕が考える以上に怖いものを抱えていて、考えることができない領域にあるものに怯えて生きている。僕はもみじさんを守るために、もっと大きな闇と共に対峙する覚悟が必要だ。決心も何も無くちゃ、隣にいることはできないんだ。今ならなんとなくそれがわかる」
もみじは泣いた。雪崩が起きるときのように、バラ、バラバラ、バラバラバラバラと泣き崩れた。一方僕は既に限界に近かった。でも、もみじを正視しないわけにいかない。
「もみじさん……」
「うん、いいよ。中に出していいの」
僕は戸惑った。わかっていても困却した。僕はできるのかい? ああ、できる。もみじの髪をほどいた。数時間前にシャワーで濡れていた髪は、今はほとんど乾いているのに厳然と冷たく感じる。ソ連のスパイみたいだ。
「これはね、本来こういう行為なの。今の私は温かいでしょ。ちゃんと感じて」
僕は目を閉じた。目を閉じるべきときは閉じなくてはならない。
「本物のもみじさんは温かい。冷たいのはもみじさんの芯だ。僕を飲み込もうとしている。それはもみじさんの本来性を損ねるものなんだね。アフリカの猿だ。だけどもみじさん、僕を見て欲しい」
もみじは顔を上げた。見つめ合う……。トヨタの寝心地は悪いけど、もみじの肌は最高だ。
「カレンくん」
「もみじさん、僕が全てを受け入れる。僕はもみじさんが好きだ。もみじさんは何物にも代えがたい外側を持っている。僕はなるべくその外側を守る。何度壊れても思い出させるよ。僕も闘うし、負けない。僕はこちらにいるし、いつでもそっちから連れ戻せる。もみじさんの全てが好きだし、もみじさんの苦しみから目を逸らさない。二人と一匹で生きていこう」
「カレンくん、私のお腹いっぱいに注いで欲しい。ごくごくと確かに飲ませて欲しい。これは浄化ということなんだよ」
僕は再び目を閉じた。もみじの肉をその最も薄い部分から押し潰して分け入る。もみじが下腹部に力を入れる。腹筋が前後に脈動している。もみじが堪えきれずに僕にキスを求めた。僕はもみじを受け入れ、全てを放った。僕は目を瞑っても見ている。見極められる。もみじがくれる愛も流す涙も、僕らからあらゆるものを奪おうとする悪も、全て視界の中にある。
車の中で朝を迎えた。夜は冷え込んだのに、結局僕らは力尽きて抱き合ったまま寒さを凌いだのだった。いつ眠ったのかも知らない。でも自然と朝日が僕らの目を覚ました。僕らは手を繋いで見つめ合った。まだ肉体のどこかをくっ付けていないと安心できないのだ。
そしてお互いに服を着せ合い、車を降りた。朝のチュニジアは綺麗だった。地平線の向こうから白光が昇ってきている。日本で聞かないさえずりをする鳥や、日本で見かけない緑色をした若葉が新鮮な空気を循環させている。しばらく車の両脇でうっとり眺めてしまっていた。僕らはやがて猿の数匹が岩の上で立ち小便をしているのを発見した。オス猿の描く黄色いアーチが朝日を反射して七色の輝きを放つ……。
「新しい朝だね。希望の朝だ」
「グッモーニン、世界のみんな」
僕らは一週間ほどその村に滞在した。特に何か明確な目的もない僕は、暢気に釣りをしたり散歩をしたりして時間を潰した。僕ともみじは毎晩車に泊まった。そして毎晩一緒に寝た。どうしてそういう風に物事が運んだのか、いまいちわからない。僕ともみじが帰国する際に立ち寄ったフランスのホテルでは、不思議とそういういった気分にならなかった。アフリカから遠ざかるほどもみじは物静かになったし、僕をたぎらせていた完璧な慈心も霧散した。
僕は自分のアパートに帰って、これまで通りモンチーと過ごした。モンチーは相変わらず「ウキ」としか言わない。でも、ちょっと可愛い。前より賢い。