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僕の猿  作者: 日野
5/11

5 僕とニック

 しばらく経って、腰の曲がった猿が、大勢に囲まれて登場した。奇妙な柄の入ったローブを着て、数珠みたいなものを首や手にぶら下げている。シャーマンか。


「こんにちは。私はこの村の長老です。君たちが侵入者ですね?」

 猿のくせに生意気なと思った。客の出迎え方も知らないくせに。もみじは冷静だった。


「私たちは事前に連絡した者です。日本から男女の研究者が来ると伝えられなかったですか? チュニスのシュイード先生って人から……」

 猿たちはざわめき立った。やがて合意を得られたのか、長老がしわがれた唇で話す。


「残念ながら、その連絡は届いていないようです。わざわざ遠いところからお越し下すったのに申し訳ない。ところでジャパンってどこです?」

 僕ともみじは青い溜息を吐いた。


「すみません、こちらの不手際です。直接交渉させてもらっても? 私たちはアジアの東端から来ました。大学に所属しています。猿の文化を研究したいんです。それでフィールドワークの一環でこの村に一週間くらい滞在させて欲しい、だけなんです」


 もみじが頼み込んだ。猿たち首脳部は合議の結果、笑顔を見せた。また北アフリカか。


「快く受け入れましょう。武器なども携帯していないようです。学生がノートとお菓子を持って調査に来てくれるなんて、私たちは幸福な猿です」


 猿が集団で笑うなんて気味が悪い。猿が本なんか持つな。猿がスマホを撫でるな。だけど僕を縛っているこの縄の強度は幾ばくか優れているな。


「良かった、嬉しい、ね。カレンくん?」

「うん、もう僕は猿だ。猿でいいや」という諦観ぶり。なんという甘え。


 しかし猿たちは服を返すのと引き換えに条件を付けた。入村の儀式を行わせろと言う。猿の言う儀式がどういうものかわからなかったが、もみじが了承した。とりあえず持ち物を返却してもらって、着替えて地べたに座る。もみじはカメラとノートを持つ。


「じゃ、座って猿の神にお祈りを。座っていればいいんです」

 長老は「ドー」と大声を上げた。続いて司祭っぽい猿たちも五人で現れる。同じく大声を上げる。「レー」そして村中の老若男女が松明やうるさい楽器を持って登場した。皆が笑い合ってどんちゃん騒ぎを始める。僕らを取り囲んでうず潮のように周った。


「――何がしたいんだ?」

「すごい……! あれが神具。あのすすきみたいな草は水の流れを表しているんだ。あれは男根と子宮のモチーフかしら。まだ地中海文化の名残りがあるんだ。あれはギリシア的ね。そっか。そこで文化混合が発生していたのか」


 もみじは何か考察を得ているらしかった。伝統的な舞踊なのかもしれない。僕はただただつまらないと思ってしまった。日曜の昼間のテレビよりくだらない。ゴルフ、競馬、通販、二流芸能人……。


 スマホで撮影してモンチーに見せてやろうか。モンチーは喜ぶだろうか。踊り……。僕は高校生の頃、アニメのエンディング曲で登場人物たちが踊るのを観た。それに感化されて、僕は完璧にそのダンスを習得してしまった。今でも体が覚えている。通学路を忘れないのと同じだ。だが、僕はダンスを披露する機会が全く無かった。仕方ないので一人で踊っていた。だけれども、元カノにはそのダンスを見せることができた。僕は口ずさみながら彼女の前でも動じることなく踊りきった。彼女は「おー。すごい」と乾燥気味に言って、次の話題に行ってしまった。


 彼女はその昼、ものすごいセックスをした。腰を情熱的に上下に前後左右に緩急をつけて振り回した。僕は彼女のスレンダーな肢体を見ながら、これは一体どうしたことだろうと思って気が遠くなった。ダンスにはそういう効用があるかもしれなかった……。


 猿たちはお腹が空いた頃合いになると、段々座り始めた。メスの猿たちはもみじを伴って住宅の方へ歩いて行ってしまった。一人残された僕は、好奇心旺盛な猿たちと下手な英語で会話した。日本や僕の出自を話した。猿たちは面白がって笑っていた。


 家を割り当てられた。レンガや土壁でできた簡素な家だ。僕は大きな荷物を置くと、外に出て散歩した。猿たちが住む地区は三メートルくらいの低木と足元の雑草で覆われていた。しかし、少し遠くを眺めて見ると、そこは荒涼として禿げた大地が広がっている。どうも北アフリカは鬱蒼とした樹木が育つのに適していないようだった。ふと見上げると、夕焼けを正面に受けて木の上でギターを抱える猿を見つけた。サンディエゴ・パドレスのキャップを被り、Tシャツとジーンズを身に付けたハイカラな猿だ。僕が手を挙げて挨拶すると、スマイルを浮かべて下りてきた。


「やあ、サムライ。俺はニックだ。親しくして損はしない猿だと思う」

「僕はカレンだ。日本から来た大学生だよ」


 ニックは僕と握手した。ごつごつした革手袋みたいな手だった。彼は眺めのいい岩の上に案内した。僕と並んで座ると、影法師は同じ形に見えた。これがアフリカの夕陽……。


「俺はね、モンキリッチ大学に通っていたんだ。いわゆる猿文的教養主義の熱に当てられて、日本も含めて広汎な学問を修めたよ。こう見えて本の虫だった。オーガイもムラサーキ・シキーブ女史も読んだ」


 ニックの歳は二十を少し超えたくらいのようだった。見るからに体格が良くて若々しい。


「カレンは大学生か。よりによって猿の村の研究なんてしみったれたことをして、馬鹿だ。いや否定してない。大学生は馬鹿じゃなきゃやっちゃいけない。真面目に社会に出て役に立ちたいと思うやつは、大学なんか来るべきじゃないんだ。就職斡旋所に行くべきだね」


 ニックのニヒルな笑みはかなり好ましかった。


「僕が来たいって言ったんじゃないよ。もみじが……もう一人の女の子が僕を連れ出したんだ。僕は何のことやらさっぱり」


「あの女か。俺は白い(化粧をしていたからだろうか?)アジア人を犯したいとは思わないね。まったく性愛の対象外だ。お互い様だろ?」

 僕も猿のメスに情欲を感じることは永久になさそうだった。


「いかにも大学生だね。学生は学内でパートナーを作りたくなるものだからさ。俺もモンキリッチで彼女がいたよ。社会勉強さ。俺は逆に結婚なんてまっぴらごめんだと思ったけど」


「僕ともみじは付き合ってないよ。愛し合ってない」

 ニックは膝を叩いて笑った。やっぱり北アフリカだ。僕は苦笑した。


「いや現代人は賢いかもしれない。女なんてのは作るべきじゃないんだ」

「ニックにもいるんじゃないのかい? 女の子が」


 ニックは夕陽を見て、ふうーと細かい溜息を吐いた。額を撫でながら言う。


「勘弁してくれ。ああ、いるよ。同じ集落の女と婚礼の手続きをさ、お節介な親が進めようとしているんだ。でも俺は嫌なんだよ。そうやって、集落の中で決定事項みたいに俺の結婚を進めようとしているのが。相手の猿だって満更でもなくって、俺と鉢合わせるとはにかんで目礼するんだ。とにかく全部嫌になるね。何事も旧弊式に旧弊式に万事、運ぼうとするんだから。不可いけないヨ」


「他に好きな人がいるのかい? 西洋式に愛を育みたいとか」

「いないね。好きな女の子とだって結婚したくない。家に帰ったら妻が待っていて、共に飯を平らげて寝る。くだらない人生だと思わないか。愛する人とそういうおままごとをしたいか。俺は妻よりむしろ家政婦、の男だね。でも女は結婚がゴールだと思っているみたいだ。俺は異性への愛と家庭的な愛の調和が、なんぞ破綻せざるかと思うが……」


 僕はニックが深く傷付いているのではないかと思った。ニックは人生を愛していたはずだった。


「なんていうか、ね」


「俺はアメリカに行きたいよ。アメリカは進歩主義だからさ。チュニジアは残念なから保存主義だ。滅びるよ、間違いない。地球最後の日まで猿のまま猿として生活を営み続ける」


 ニックはギターの弦を触った。音はどこまでも遠くに広がっていくようだった。その音を聴いたどこかの国の誰かは今日も笑顔で帰宅するのだろうか。そして妻と抱き合うのだろうか。退歩主義……?


「俺は詩を書くんだ。大したことのない習作だけど、聴いてくれるかな。仲間に向けて歌えない。恥と思ってしまうんだ。歌も歌えない猿なんてみっともない」


 僕は首を振った。ニックにこそ歌って欲しいと思った。


「……僕の心は敗れて、廃屋の底、枯草の大地で、涙だけが乾かない。この全てが痛いよ、鐘の音、逃げ場がどこにだって無くても、愛さえあれば、フンラララ、ツラが傷付くわけじゃない……」


 僕は拍手を送った。ニックは照れ臭そうに「もうやめだネ」と言った。太陽は西の地平線に飲み込まれんとしている。


「悲しい歌だよ」

「猿は悲しい生き物だからね。人はどういう生き物だろう」


「さあ僕にはわからないな。画数が少ない生き物、あるいは怒れる生き物かもしれない」

「猿の亜種はたいがい阿保だね。人にしろゴリラにしろ……」


「ハハハハハ……」

「ハハハハハ……」


「参っちゃうね」


 僕はニックに村落を紹介してもらった。猿には立派な政治・経済体制が整備されているみたいだった。アフリカの数カ所において、ということだけれども。僕は今の今までその事実を知らなかった(日本人の九割はそうかもしれない)。だが実際にアフリカに足を運んだ日本人は知るのだ。猿たちが高度な文明を備えているということを。


 猿界における自由徹底党・民主共和党・統一全体党の三大政党制や、猿ドルと倫理的三次元金融緩和策など興味深い話をニックから聞いていると、もみじから呼ばれた。夕食会にお呼ばれになったようだ。ニックは騒がしい場所が嫌いみたいで付いて来なかった。相変わらず教養猿らしい虚無主義に徹している。


 食事は悪くないランナップだった。イスラム式とは違って豚肉も馬肉も出た。こういうことだよと言いたくなった。ああ、わかった。正直に認めよう。君たちの飯は美味しい。味付けは少し風変わりだけど許せる。もみじも僕の向かいで満足そうに食していた。しかし、見たことの無い白い豆のようなものが出て来て、彼女の手は止まった。大皿いっぱいにぎっしり載せられている。


「なあに、これ」

「僕が訊いてみようか。あの、これ何でしょう」


 僕は料理を出してくれる中年のメス猿に指差しで尋ねた。彼女は「蜂の子供よ」と言ってウインクした。


「ぎゃ!」

 既にフォークで突き刺していたもみじは、フォークを落とした。よく見ると、からりと揚げられた幼虫のようだった。茶色いゴミみたいなのは頭部だったのだ。僕は幼虫の集合体を見て流石に辟易した。日本的にノーだ。俺が保証する。


「嫌だっ。私は絶対に食べないから。気持ち悪い」


 そうは言うけれど、他の猿たちは遠慮なく手掴みで幼虫をくっちゃくちゃ咀嚼していた。もみじはほとんど涙目で耳を塞いでいる。猿は僕たちにも食べるよう勧めた。

「美味しいよ。香ばしくてちょっと甘い。コーンみたいなものさ」


 僕は好奇心からスプーンで一匹すくってみた。するともみじは赤い顔をしながら必死に僕の手首を押さえた。


「食べたら絶交する。何が何でも食べないで」

「なんでさ。僕も積極的に食べようとは思わないよ。もみじさんにも勧めない」


 もみじはそれでも頑なに首を縦に振らなかった。


「とにかくいけないの! 虫なんか食べる『必要』が無いんだから。そんなもの食べなくても人類はおなかが空くもんですか。豚もある、豆もある、トマトもあるじゃない。無くてもお菓子や雑草だって食べられるわよ。なんで蜂の幼虫なんか選り好んで食べるの。私たちには虫みたいなおぞましいものを食べる文化はありません。そんなものを食べなくても生きていけるように私たちは進化して、学習してきたの。ねえ、あなたすごくみっともないことしてる。嫌い!」


 猿たちは日本語がわからないので、もみじが興奮して僕を誘惑しているとでも勘違いしているみたいだった。僕はひたすら困惑していた。


「一口食べるくらいいいだろ。せっかく厚意で用意してくれたんだから。それにもみじさんだって、異文化交流したいんじゃないのか」


「違う。私が望んだのは猿文化の観察であって、お猿さんになりきって狂乱することじゃないの。カレンくんが猿の真似するなら、チュニジアに置いて帰る」


 好きにしろとそのときは思ってしまって、一思いに食べてやった。予想以上にジューシーで僕が噛むとびゅっと油っ気のある半透明の液体が口の外に漏れた。味は、クリーミーで美味しくはない。食べられなくもない、という感じだ。足が口に残る。


「ひいっ」


 もみじは顔を引きつらせた。そして血色がみるみる悪化して席を外してしまった。僕は反省して彼女を追い掛けた。もみじは側溝に向かって(そこは集落のATMが設置されている付近だった)、ゲロを吐いていた。僕は背後から優しく撫でた。


「ごめんなさい。食べずにいられなかったんです。知的好奇心。貝とかエビだって同じような食べ物ですよ」


「いいの、もうしないって約束してね。私ああいうの耐えられない」

 もみじはゆっくり全部吐き出した。アフリカ猿の飯はドブへと運ばれていく。


「ほんっとに猿! みんな猿! びっくりしちゃう」

「そりゃ猿ですよ。でもなんだか意外ですね。もみじさん、アフリカに来てから感情を表に出すようになった」

 もみじは普段、大人しくて無口でミステリアスで少し抜けたところのある女性だと僕は認識していた。チュニジアに来てからこの方、よく喋るしジェスチャーも多い。


「そう?」


 僕たちは夕食を諦めて、貸し与えられた家に帰った。もみじが部屋の通気性の良さや蜘蛛の巣に対し、どういう反応をしたか一々語るべくもない……。僕らは初めて猿を憎んでいるよ、モンチー。星月夜、恨みこそすれ猿の村。

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