4 僕とチュニジア
僕はチュニジアにいた。羽田からフランスを経由して首都チュニスに降り立つ。気温は二十五度前後。空気がいやに乾燥しているので、そこまで暑くない。空港では観光客やビジネスマンなど欧米系の外国人が目立ったが、街まで出てみると市民はイスラーム系のアラブ人がほとんどだ。もみじも周囲に倣って、イスラムのターバンみたいな布を被っている。僕は普通にポロシャツとジーンズとスニーカーだった。たぶん紛れ込んでいる。
ところでチュニジアを知っているだろうか。僕さえろくに調べもしないで来てしまったが、大体人口一千万の小さな国だ。地中海に面したアフリカの北端で、地図で見るとイタリアにも結構近い。街並みや風景なども地中海沿岸のイメージで思い浮かべてくれたらいい。青くて平らかな海が広がっており、統一されたペイントの家々が低い背のまま押し広がっている。ヨーロッパ風味で、足元は石畳。思ったより悪いところじゃない。サバンナみたいな場所だったらどうしようと考えていた。
「もみじさん、これからどこ行くんです?」
「お昼休憩をとったら、先生が紹介してくれた現地の小学校教諭に会いに行きます。シュイードさんって方。その人に猿の集落まで送ってもらう」
話が早い。もみじが綿密に計画を立てて忠実に履行してくれているから、迷子にならなければまず順調に日本へ帰って来られそうだ。帰国は二週間後となっている。
「ところでもみじさん。頭に巻いている飾りが似合ってますよ」
「カレンくん、腰のスマホを通行人に狙われているよ」
何だって? 振り返ると浮浪者みたいな人が僕の背中側でニヤニヤしていた。彼は立ち去って雑踏に紛れて行った。やれやれ、日当たりが良くて清潔そうな街にも平気でああいうやつがいるんだなと感心した。
「目的は猿なんだから、猿に会う前にこっぴどくやられないでよ。アフリカの猿は凶暴なの」
ジョークに聞こえない。
僕ともみじはハンバーガーショップでチキンサンドを食べていた。向かい合って口の端にソースを付けて時折話して、楽しい食事だ。テラス席も悪くないぜ……。
「モンチーには申し訳ないね。二人ぎりで旅行しちゃった」
モンチーは平塚教授の家で預かってもらっている。大人しくしているだろうか。僕の猿。
「たまには猿を忘れる時間も必要でしょう。もみじさんも気を張り過ぎないように……」
突然、けたたましいクラクションが聞こえた。いかにも外国っぽいちゃちで燃費の悪そうなワゴン車が強引に信号待ちの車を抜き去って行った。チュニジアに免許センターがあることを願う。するとどこからともなくファストファッションに身を包んだ(僕よりは砕けた格好をしている)男子が数人で現れ、スマホで音楽を流し始めた。彼らはださいヒップホップを流してダンスパフォーマンスを始めた。ジャン、ダン、ララン。
「大学生だろうね」
もみじは表情を変えずに咀嚼していた。けったいな国だよ。
僕らはタクシーを捕まえて例の小学校教諭の所に向かった。待ち合わせ場所は車で二十分の、小学校の校庭だった。緑で平らで新しい校舎だ。ベンチに座る恰幅のいい白髪交じりの中年男性がシュイードだろうか。浅黒い顔をして笑顔を浮かべている。
「どうも、シュイードだ。君たちが平塚教授の弟子だな。初めまして」
彼は英語で話しかけてきた。僕は面食らったが、もみじは微笑を作って握手を受け取った。
「こんにちは。私たちは平塚の弟子です。こちらも初めまして、シュイード先生」
もみじの英語は綺麗だった。僕も「僕は弟子のカレンだ」と言った。シュイードは相変わらず笑顔だった。校庭にいる薄着の子供たちが奇異な目で僕らを見上げている。
「平塚教授は元気かい? 十年来会ってないけど」
「元気ですよ。彼女はパワフルな女性です。独身ですが……」
もみじはくすっと笑いを誘った。シュイードは北アフリカ的に笑った。僕は内心で独身妖怪くそババアと呟いた。
「ところで君たちも、俺たちの文化習俗とやらに興味があるのかい?」
シュイードは僕らを屋外のベンチに座らせた。紫外線が体を清潔にしてくれるような錯覚がする。それくらい熱い。
「私たちは目下、猿にしか関心がありません。喫緊の課題なんです。ある問題が私たちをチュニジアに出発させたんです」
もみじが説明した。僕も流暢に英語が話せたらいいんだけど、彼らの会話のテンポを崩せないことが、僕が会話に参加するのを邪魔していた。
「ハッハハ。連絡が来たときは変わり者だと思ったよ。猿ならたくさん見て帰るといい。チュニジアには優れた猿がいるさ。アッハハ」
シュイードの腕時計はロレックスだった。傍から見ると馬鹿みたいだ。
「ところで、早速で申し訳ないんですが、車は用意してくれましたか? 私たちは今日中に猿の村に行きたいんです」
もみじがお願いすると、太平楽に指を差した。シュイードの指先にはボロのピックアップトラックが一台停まっていた。シルバーでトヨタ製だ。三人で歩み寄る。小学生が何人か荷台に座っている。
「シュイード先生が乗せて行ってくれますか?」
シュイードは首をシェイクした。唇を山の形に曲げている。意味がわからない。
「俺は今日仕事があるんだ。明日もそう。悪いけどここから先は君たちが運転してくれ。詳しい地理と、カップルに都合のいいホテルなら紹介してあげられる」
また北アフリカの笑い方だ。僕ともみじは呆気に取られた。本当に、外国人ってやつは簡単に約束を反故にしてくれる。義理も人情も思いやりも感じられない。特に地中海の人間は冷徹なエゴイストばかりだ。
「オーケー。ドライバーか地元のガイドを知りませんか? 私たちは学生で外国人なんです。不安です」
もみじはドアに寄り掛かって尋ねる。汚いハトのようなものが頭上の木でキョロキョロしている……?
「やめておいた方が得策だよ。彼らは金を巻き上げるだろう。有料のサービスを仲介なしで選ぶよりはむしろ、自分たちでやるか、ツテを頼るべきだ」
シュイードは腕組みをして教示した。お前が数少ないツテではなかったのか、と指摘すべきだろう。僕はしない。
「猿の村は、本日僕たちが向かうことを知っているんですね?」
やっと英語で話せた。英語だけを耳にするうち、素直に会話に入れた。こういうのって大縄跳びみたいなものだ。
「俺の方から友人を通して話は伝えておいた。物好きな学生が二人、君たちと交流したいってな。彼ら、欣喜雀躍していたよ」
その約束も実際に行われているか怪しい。もみじは渋面のまま頷いて右側の助手席ドアを開けた。
「カレンくん、車の運転はできる? 免許持ってたよね」
「多少なら。ペーパーなので上手くはないです」
チュニジアで運転をするなんて思いもしなかった。もみじが乗り込んだのを見て、僕は運転席に座った。ハンドルを握って足をペダルにかけ、溜息を吐く。
「あー、悪いけど、僕はマニュアル車を運転できない。何だい、この余計なペダルは」
もみじは「あちゃあ」と苦笑いする。僕が英語でシュイードにそう伝えると、北アフリカでも類を見ないくらい笑った。子供たちも笑った。愉快な国だねッ!
「日本人のくせに、ヒヒッ、トヨタを動かせないのかい? トヨタだぜ、少年」
シュイードは二十分で車を取り替えてきた。今度は普通乗用車になった。やっぱり左ハンドルのトヨタだった。
「国際免許証を持ってないですし、右側通行なんて運転したことないんですけど」
僕は不安に駆られながらシートベルトを締める。シュイードは「Non problem」と言い切った。バナナをお土産に手渡して。
「チュニジア的にオーケーだ。俺が保証する。事故さえ起こさなきゃいい。警察に会ったらとりあえず路肩にでも停めるなり、逃げろ。職質だけはされるな」
こんなことで捕まりたくない。だが背に腹は代えられないので、車を出すことにした。バイバイ、能天気ども。針山地獄で会おう。もみじも優しく手を振った。
「少年少女、健全な旅を! 猿たちとも、ちゃんと仲良くするんだぜ。気に入ったら群れに入れてもらえ。アッハッハッハ」
クソくらえだ。アクセル全開。
「あ、逆」
もみじが頬をつねる。早速僕は左側の通行帯に入りそうになって冷や汗をかいた。
「なーんか、まぬけね」
「なら、もみじさんが運転してくれないかな。外国で事故るなんて僕はまっぴらだよ」
僕は舗装が甘い一本道を、速度七十キロで走行していた。他の車はレーシングゲームみたいに百五十キロでビュンビュン追い抜かしていく。僕らが向かっているのが相当辺鄙な地方なので、法治国家とはいえ、法の順守が徹底されていないらしい。速度制限なんてあって無いようなものというわけだ。
「保険に入れてあげたでしょ。海外に行くときは保険が必須」
「いくら保険に入っていても、交通事故にあったら死にます。死亡保険っていうのは本人の為にあるんじゃありません。遺族のためにあるんです。自分の葬式と墓を立派にしても、僕はあまり嬉しくないな……」
「無免許かつスピード超過だものね。保険適用外」
もみじはサングラスをずらしてニコと微笑んだ。僕はせめて葬式にもみじを呼ぼうと思った。もみじのか細い歌が、車内に響き渡る。
「もし一つだけ、願いが叶うとすれば、アアア——ふああ眠い」
五時間後、給油を挟んで夕方には猿の村と思しき場所にたどり着いた。かなり広い森林の入り口だ。少し山を登ったら着いた。アフリカみたいな低木が生い茂っていて、黄色の羽根を持つ鳥が馬鹿みたいな声でお出迎えした。もみじの目はスマホの地図と周囲を往復する。僕は車を停めて降りる。
「まず間違いない。この森に猿がいるはず」
二人で思い切って木々の隙間に分け入る。もみじの慧眼はあまりに人為的な道を導き出した。あれが、猿の道か……。
「従って行きましょう。奥に猿がいる。猿に近付いて行く」
草がはげた一本道を歩く。が、なんだよ見えるじゃないか。木でできた野蛮な門が。
「あれは、猿の作った門なんでしょうか? 猿が城壁を持つ日が来るなんて」
僕は感嘆した。モンチーは門どころか箸も作れない。もみじが僕の肩に掴まった。
「怖い。何が起きるかわからないから、慎重に進もう。文化人類学の宿命なの」
僕は門の傍に寄った。すると門番らしき衛兵の姿を視認した。
「はあ? あれが猿かい。どうも僕が知っている猿の何倍もごつくて文化的だけど」
僕が視界に捉えているのは、チンパンジーみたいな黒くて手足の長い猿だった。ニホンザルのモンチーとは比べ物にならない。あまつさえ槍みたいなものを持っている。
「私も知らなかった。そうみたいだね。凶暴で利口なはずだ」
知らなかったで済む話か。どうするんだよ、引き返すのか。身じろぎしてしまう。
「いや、勇気を出して行こう、カレンくん。約束を台無しにできないよ」
もみじは潤んだ瞳で僕を見上げる。もみじも怖いのだ。僕が逃げて顔が立つか。
「もみじさんの研究と、僕の見識のために。僕が守ります……ね」
僕らは二人で友好的な笑みを作った。お互いに素手で表情を微調整して、茂みから登場する。英語で声を掛けてみる。
「はーい、こんにちは。連絡の通り、日本からやって来た研究者です。どうも」
僕が門番に手を振る。もみじは可愛らしくピース。猿は怒った。槍をぶん投げてくる。
「やっぱり駄目じゃないか! なんてこった」
「もうイヤ! 帰りたい、こんなの猿じゃない」
追いかけ回されてお縄となった。本当だ。本当に縄で大樹に括られた。僕ともみじは下着一丁で泥まみれになりながら、猿たちの前で晒し者になっている。ここは集落の中心部みたいだ。多くの猿が野次馬となって、立ち見している。あのまま串刺しになるくらいなら安いもんだよ。黒い猿、チンパンジー、有能。猿たちは文明を持っているだろう。ここの猿は英語を話しているじゃないか。見たところ、身に付けるものも一匹一匹違う。文字の書かれた看板もある。――社会的ですね。
「こっちの猿なら実験に差し出しても悪くないかもね。その前に私たちの体が実験台にならなきゃいいけれど」
「もみじさんの胸、素敵ですよ。確かに」
「冥途の土産にぴったりの言葉。触らせてあげたかったな。ふにふにって」