3 僕ともみじ
もみじが建物の入り口まで迎えに来た。午後五時。特に疲れた様子も無い。
「待っていてくれて嬉しい。お腹は空いている?」
僕は「たぶん」と答えた。よく自覚できない。
「一緒に食事をするだけでいいんですか?」と訊くと、
「え、どうでしょう。今何時? 五時。——あ」
もみじは家に化粧ポーチを忘れたときのような声を漏らした。
「なら、映画を観たいな。これから寄ります」
僕はくぐもったガラスの扉を開いた。廊下に面するように受付窓口があった。もみじはその前に立って「もしもし」と言った。にわかに五十代くらいの男性が向かいに座った。獄中の面会みたいだと思った。
「『最後にして最初の人類』のチケットを二枚」
モミジは大人料金で僕の分まで払った。付き合ってくれたお礼だと言う。悩んだけれど、直感的にとにかく好意に甘えてみることにした。もみじの裾がずっと僕に触れている。
開演まであと十五分も無かった。映画が流れるのはそこそこ大きなスクリーンのある暗い映写室だった。四十席くらいある。シネコンと比べれば狭い。何より汚い。暗いのに汚いというのも面白いものだ。床に染みが着いている。座席の隙間に、何年前だか計り知れない古びたガムのパッケージが落ちている。それに買いたての冷蔵庫みたいな臭いがする。
座席は自由だと言うので、僕らは一番後ろに座った。僕らの他には老齢の男性が二人、離れて座るばかりだ。
「これ、楽しみだったんですか?」
「そう、好きなの。この監督とアーサー・C・クラークが」
もみじは無表情(僕にはそう見えた)でスクリーンを眺めた。二、三の広告と注意事項の画面が映って、映画が始まった。
「ん」
僕の理解を軽く超えていた。人工で形成されたような岩が映る。バックにはブウーンやラーラララーみたいな雄大な音楽が流れる。場面が切り替わる。別の変な岩が、夕焼けに逆光となって浮かぶ。五分おきに女性が詩のような言葉を話して、字幕が出る。字幕を読んでも上手く頭に入らない。どうも何億年後の未来の人類が、現在の僕らに語りかけているみたいだ。それが延々繰り返される。これがシネマなのか。
「……」
もみじもさぞかしがっかりしているだろうと思って隣を見た。もみじはじっと正面に向き合っている。集中しているのか、飽きているのか判断できない。飽きているならとっとと二人で外に出た方がいい気がする。七十分尺だ。参ったな、意味がわからないよ。
僕の感情の経過を説明しよう。まず、僕は深く広い睡魔に襲われた。うつらうつらしながら、もみじの気分を害さないよう配慮した。睡魔はやがて去った。僕の中心にある洞察力に似たものが急激に運動を始めたことを感知した。僕の頭は音楽とアーティファクトをそのまま内部に受け入れようとしていった。重厚な音楽に心根が揺さぶられた。人生は素晴らしい!
しかし、長続きはしなかった。段々僕は焦ってきた。落ち着かない気分になる。なんで圧倒的な理解できないものを押し付けられないといけないんだ! 歩み寄って来い、腹が立つ! おっかない映画だよまったくやれやれ! イライラした感情が胸にとめどなく溢れてくる。たぶん、精神実験をしているのだと考えた。ソ連のスパイはみんなこの映画を何度も何度もループして観せられるんだ。正常なやつはノイローゼになって気が狂ってしまう。人を殺めることができる異常者は、この映画を観続ける。そういうことだろう。
最終的に僕は目を瞑った。全然眠たくなかった。でも腕組みをしてはっきり眠る姿勢を取った。そうじゃないと精神汚染されてしまう。奇妙な岩は見えなくなった。だけど、音楽は聞こえた。英語も聞こえた。コーラスがオーオーという声を響かせ続けた。もうやめてください。もう終わりにしてください。心の中で泣いた。頼むから許してくれ。発狂する。
やがて音楽はやんだ。会場は明転した。僕は目を開けた。辺りを見回すと、映画は終了していた。前に座る男性二人も眠っていた。隣を見るともみじはにこにこして僕を眺めている。結局この中で映画をまともに観ていたのは、もみじだけだったみたいだ。
「やあ、おはよう。退屈だったよね。ごめん」
「いいえ。僕の頭が足りないだけです。もみじさんは?」
「とっても満足。面白かった」
もみじは素敵な笑顔を作った。この人の感性はよくわからない。ただし、一つだけ確実に言えることがある。僕はチケット代を払わなかったことを一生後悔しないだろう。
——「ねえ、お酒は飲まないの……? ふん」
「ええ。飲まないというか、飲めないですね。気にせず飲んでください」
「この後、君のお猿さんを見たいんだけど」
「好きなだけ飲んで、見てください。大人なんですから、自分で制御できるでしょ」
「酔うって、そういうことじゃないの」
僕はもみじにおしぼりを渡した。もみじは恥ずかしそうに口元を覆った。
「可愛いですね。僕は――あ」——
僕はもみじを玄関に上げた。食後でほろ酔いのもみじは、顔を赤く火照らせながらも着実な足取りでスニーカーを脱いだ。僕が電気を灯すとほのかにアルコールの匂いがした。もみじが床に寝転がる。僕はトトロのイラストが描かれた赤いマグカップに水を注いだ。
「もみじさん、上半身起こしてください」
もみじは無言ですくりと起き上がった。挙げた手が小刻みに振動している。僕はもみじの生ぬるい唇を押さえてコップを運んだ。口が水を受け入れていった。
「んー、介護みたい。ありがとう」
もみじは再び横になった。僕は自分の麦茶を緑のマグカップに注いで飲んだ。テーブルにマグカップが二対。これを見てから風呂を沸かした。風呂場は狭く、静的で掃除が行き届いている。パーフェクト。リビングに戻ると猿がもみじを警戒して、本棚の上から動こうとしないのが見て取れた。「おい、下りて来いよ」と語りかける。猿は素直に僕の肩に飛び乗った。もみじの隣に屈む。
「もみじさん、こいつが僕の猿です。さぞ可愛いでしょう」
「あはは、お猿さん」
もみじは回転する視界そのままに、手を差し伸べた。猿は女の子に敵意を感じていた。僕は仕方ないやつだと思って、代わりにもみじの手を握った。やはり冷えている。
「怖がらなくていい。もみじさんは悪い人じゃない」
「ウキ」
猿は恐る恐るもみじのつるりとした手を検見した。もみじはくすぐったそうに口角を上げた。僕はじんと心が触れた。
「カレンくん、この子の名前は無いんだよね。確か」
「無いですね。特には」
「じゃあモンチーにしましょう。次からそう呼んであげてください」
「グッド・ボーイ。モンチー」
もみじが寝転びながらモンチーを抱き締めた。モンチーは満更でもなさそうに頭を掻く。順番に僕も自分の子供みたいに大事に大事に抱き締めた。モンチーは歯を見せて喜んだ。晩ご飯をあげないとね。今日はキャベツの皮と曲がったきゅうりを渡した。
「モンチーはいい子ね。きっと私の指示も理解できる」
「賢くはないよ。でも実直だ。ホントに。猿にしては」
「大人の事情で、お猿さんは本当は、かあいそうなの」
少しわかる気がした。確かにちょっと可哀想。風呂が沸くと先にもみじを入らせた。もみじは十五分きっかりで出て来た。着替えは僕の部屋着を分けてあげた。下着をどうしたのかは知らない。着けていないかもしれない。ただ、変なことを考えると透視されそうだ。僕は禅の境地を切り開き、もみじの浸かった湯に身を預けた。甘い手触りがする。なあ、モンチー。僕はモンチーの背中を流し、流してもらった。モンチーの洗体は下手くそだ。
風呂の栓を抜いてモンチーと体を拭く。寝巻に着替える。洗面所のドアを開けるとすぐ傍にもみじが立っていた。手にはドライヤーがある。
「一緒に乾かしましょう。身も心も」
僕らは二人きりで髪を乾かした。もみじの頭からは甘いシャンプーの香りがした。モンチーはドライヤーの音が苦手でどこかにいる。それをいいことに、もみじはモンチーの印象を話した。
「可愛いお目々。猫背すぎるけど、いい手足の形。とても猿ね」
僕はたぶん明日の朝食について考えていただろう……。
「そうだ、もみじさん。歯ブラシならそこに新品があります。自由に使ってください」
鏡に映るもみじから、なけなしの表情が落ちてしまった。僕の腕をかいくぐると洗面所から飛び出した。ドライヤーの電源を落として追う。何が起きたのだろう。歯周病が彼女の地雷だったのかもしれない。もみじはベッド上で布団にくるまっていた。壁と睨み合っている。
「もみじさん? 火傷、睡魔、歯周病、それとも——」
「わ、私、帰る」
僕はぐわっしとベッドに腰掛けた。部屋の端に控えるモンチーは、どうぞお話しくださいと寝ている。
「ペアのマグカップがあるでしょ。女の子用のシャンプーが置かれている。予備の歯ブラシも常備している。なのにベッドは一つしかない」
「布団はかさばるから……」
「彼女がいるんだね。知らなかったのごめんなさい。本当にお猿さんと会いたかっただけで」
「わかっています。でも、彼女はいません。去年別れたんです」
寝返りを打ったもみじは僕の腕を引いた。僕は苦笑いで首を横に振った。もみじの手は焼きそばパンになったみたいに動かなかった。
「泊って行ってください。だけど僕はもみじさんと二人では眠れません。もみじさんにも大事な人がいるんじゃないんですか?」
僕の何となくの憶測だった。もみじの涙袋は腫れている。
「カレンくん。横になってくれませんか。お話ししたいんです」
「駄目ですよ」
「モンチー、私たちの間に来てよ。お願い」
モンチーを呼んだ。モンチーは電灯のリモコンを持ってもみじに手渡し、僕らの間に寝転がった。僕は観念して隣に寝そべった。もみじと逃れようのないほどの至近距離で目を合わせる。
「電気を消します」
――パチ。ブラックアウト。何も見えなくなる。胸の辺りのモンチーの呼吸、鼻の先のもみじの呼吸。僕の深く熱い呼吸。何も見えないと全てわかる。
「カレンくんはどうして彼女と別れたの?」
もみじはきっと真剣な顔つきをしているだろう。数学を解いている。
「胸が小さかったんです。こんなの世の中間違っているって当時は思いました。美人だったから惜しかったんですけど、きっぱりと。そうしたら彼女は家に来なくなりました。僕たちはまだお互い好きだったんです。でも胸のせいで喧嘩もせずにプツンと関係が消えてしまった。ずっと猿と二人暮らしです」
僕が今話せる全てを打ち明けた。こんなに恥ずかしいことは無い。でも暗闇で表情が見えないのでチャラだ。
「私は胸が小さいなんてことは無い。それに、そういうカレンくんのこと、嫌いじゃない。むしろ愛せる」
もみじは僕の頭を撫でた。
「グッドボーイ、カレン」
もみじの手はたぶん冷たかった。でも不快ではない。神様に捨てられる我が身を拾ってもらった気分だ。こんな僕にも恩寵を……。僕は猿さえ愛しています。
「私も、三年前彼氏にフラれちゃった。君はたまにひどく無表情だね。怖いんだよ。もっと笑顔でいてくれないか。たまに抜けているところがあるよ。現実の女の子のドジは冷めるね。猿なんか放っておけよ。放っておいても猿は猿だよ。で、別れた。好きだったのに」
僕はもみじのおでこを撫でた。グッドガール、もみじ。
「不満なんか無かったの。彼は駄目な人だけど、愛していたの。なのに捨てられた! どうして? 私は他と何が違ったの?」
僕は泣きやむまで――たぶん一時間くらいもみじを撫でた。猿の体温だけが僕の味方だった。もみじに恩寵あれ。彼女は猿さえ愛することができます。
やがて息を落ち着かせると、もみじは口を開いた。
「私、カレンくんの家のお風呂に入って気持ち良かった。前の彼氏の家のお風呂と同じなの。お湯がね、優しくて滑らかなの。本当だよ」
「掃除は、してるつもりなんですけど」
「そうじゃないの。好きな男の子の家のお湯は温かくて滑らか。それとさ、ぶかぶかの部屋着を貸してもらうと、嬉しいの」
僕はもみじの表情を推察した。たぶん笑っているよな。
「このまま朝を迎えましょう。モンチーと一緒なら、君もいいでしょ」
僕は一言、「光栄です」と答えた。
「私はお酒が入ると案外早く向こうに行けるの。今日はモンチーと仲良くなれて良かった。おやすみ」
「もみじさん、僕が見守ってます」
もみじとモンチー、どことなく響きが似ている。僕が全く性的興奮を覚えていないのも、もみじは見透かしているだろうか。