11 僕と僕
僕はその日、パーカーとジーンズというラフな格好だった。手にはモンチーが繋がるリード。街行く人々は何でもないように目の前を通り過ぎていく。たまに猿に目を配る人もいる。でもそれは一瞬のことで、彼らは数時間後に僕の顔も猿のことも忘却してしまうだろう。
朝の青山を歩く人々は、決して注目すべき個性や生活を持っていなかった。ましてや文化人類学に精通してもいなかった。彼らは文学を読まないし、猿にも興味が無い。お金を節約するけれども、本当の意味で解放されたセックスができない。アフリカで文明猿が好き放題やっていることも知らない。日本の狭い町で育ち、都会の狭い電車網の中で死んでいく。システム全体を俯瞰できるほど高い所にもいないし、そもそも自分たちが巨大な何かに覆われていることを知らない。目に見える範囲が全ての人たち。働き者の蟻さんのように、近所にある引っくり返った蝉や干からびたミミズの存在は知っているけれども、自分たちの巣がある庭の主を知らない。
でも、生きる上では問題ない。そうだね?
通りから一人の女性が歩いて来る。生足を露出させ、髪を巻いてウェーブさせ、いつもの雰囲気をがらりと変えたもみじ。今から研究所に行き、僕らは実験に参加する。もみじはスパイだから大学院生だという身分を偽るつもりだ。カリスマギャル・原宿読者モデル・もみじ……。一抹の不安。
「私、やっぱり今日はエリカって名前で通すから。清楚系ギャル・ネオ渋谷系・109アパレル店員エリカ」
「どう考えてもさ、僕のカノジョがそういう女の子だという設定はおかしいよ。僕は文化人類学専攻の院生とかが似合うと思わない? 少なくとも猿の実験にそういう女子は付いて来ないと思うよ」
「だりーじゃんカレン。やばいうける。てかまじ行こ」
僕ともみじは手を繋いだ。モンチーはリードの先でふらふら先導する。研究所の指定された建物に入ると、受付嬢が僕らの招待状を見て中に通してくれた。他の被験者とは別室みたいだった。僕らは狭い会議室のような場所で三十分間待たされた。僕はもみじに透視のテストをし、もみじはモンチーに合図を送る練習をした。準備は万端までできている。
「エリカ、僕らはこれから戦争に行くんだ」
「カレン、私たちはきっと負けない」
僕たちは白衣を着た女性に呼ばれた。三人で研究室の冷たい廊下を歩く。病院みたいな長くて真っすぐな廊下だった。横開きの戸を開く。中には五人のおじさんが椅子を並べて座っていた。真ん中にいるのは僕に最初に声を掛けた男だった。僕は逃げなかったぞ。
「こんにちは! よくぞ来てくださいました。本日はよろしくお願いしますね」
僕はモンチーを連れて真っ直ぐ彼らの正面に座った。大企業の圧迫面接みたいな構図だ。だけど隣にはもみじがいてくれる。大丈夫だと自分に暗示をかける。
「いや、協力してくれてありがたいですね。君は猿を大事にしているようだったから。ところで隣の可愛い女性は、やっぱりそういう関係の子ですか。すみません野暮ですよね」
「僕の恋人です。エリカです。僕は彼女を愛している。大好きだ。可愛いのは当然だ」
もみじは赤く染まった。
「あ、私が可愛いと女性に言うのは、時勢柄あれですね、駄目。セクシュアルハラスメントってやつだ。いやすみません。こういう仕事を長くやっていますとね、社会の流れには疎いですね? この前もある女子学生がピアノを弾くのが上手だって聞いたから、ピアノ弾けるんですってねって訊いたらセクハラだって言われちゃいました。訴訟の一歩手前までいきましたからね。本当に物騒な世の中です」
僕は耳も貸さなかった。僕らは敵同士だ。既に宣戦布告された身として、相手と交えるべき言葉は無い。
「ちょっと雑談程度に訊きますけど、セクハラって文学的に言えば何でしょうね?」
男は鼻を膨らませた。僕は苛立つ自分を落ち着かせた。グッドボーイ、俺。
「知りませんよ。『最後にして最初の人類』とでも言えばいいんじゃないですか。ちなみにエリカ、『最後にして最初の人類』はアーサー・C・クラークじゃなくてオラフ・ステープルドンだよ。そんなことより、実験がしたいならさっさと始めましょうよ」
男は満足そうに頷いた。話が早くて助かるとでも言いたげだ。僕はモンチーを連れて彼らの指示通り、モンチーを操った。モンチーは僕の指示をまともに聞いてくれた。よくやってくれている。科学者たちは、猿が逆立ちして部屋の端から端まで行き来できるか確かめたり、目標の高さまで跳躍できるかなど十三の項目について調べた。科学者たちは僕が提出した申告書を眺める。
「ま、こんなもんでしょうな。ご足労ありがとうございました。何か不明な点は――」
「ちょっと相談があります」
僕は滔々と告げる。もみじは不安そうに僕の背後に立つ。
「実は僕の猿、透視能力があるんですよ。よくいるでしょう。計算できる馬とか、絵を描く象とか。うちの猿は見えないはずの物を透過して見ることができます。冗談じゃありません。どうですか一つ、確かめてみたくありませんか」
科学者たちは五人で話し合いを始めた。僕はモンチーを撫でた。いよいよ本番だ。ここで禍根を絶ち、僕らは帰還する。ザッツ・イット。
「非科学的であり得ない。ですがいいですよ。そこまで君が主張するのには相応の訳があるんでしょう。ではこちらにも用意があります。少し場所を移させてもらいますが良いですか」
予想外の提案だった。しかし受け入れるほかない。僕らは敵地に乗り込んでいる。どんな不利な条件でも確実に勝利を収めて帰るだけだ。
「え、もう一度言ってください。本当にここで実験するんですか」
僕たちは古びた都電の駅に連れて来られた。科学者五人と僕らだけがホームに佇む。一両編成の列車にはモンチー、研究助手の女一人、運転手が乗っている。
「この車両内で猿の透視能力の有無を確認します。簡単なことです。猿にはこの隔離された空間の中で、物体が入った箱を当ててもらいます」
僕はしてやられたと気付いた。
「待ってください。なぜそれを電車でやる必要があるんですか? それに僕かエリカ、飼い主の片方は同乗しても構わないでしょう。モンチーが心配だ」
「いいえ、駄目です。実験結果に影響を及ぼす不確定要素を完全に排除しなくてはならないんですよ。外からの声は、全て電車であれば消すことができますでしょう?」
僕は抗議できないことに歯ぎしりした。こいつらは本当に一刻も早く消し去られなくてはならない。どうしても、どうしても僕たちを否定したいのか。そんなに猿が許せないか。
「では、時間も無いですから始めましょうね」
電車の発車メロディーが流れる。ズンズンズンと僕の心臓に薄気味悪く響く。もみじは絶望したようにドアが閉まるのを眺めた。モンチーは不安そうに僕らを見つめた。バイバイ、モンチー。達者でやってくれ。この作戦は既に失敗だ。僕らはとんだホラ吹きとして科学者たちに未来永劫笑われることだろう。
電車の天井にはカメラが設置されていた。車内の様子がリアルタイムで僕らがいる駅のモニターに投影される。がらんとした車内ではモンチーが座席で退屈そうにあぐらをかいている。
「まず猿に三つの箱を提示してください。中身はバナナで。それじゃあ猿に問題を出してください。この中でずばりバナナが入っているのはどれでしょうってね」
研究助手があらかじめ用意されていた三つの箱を中央に並べる。そしてモンチーに向かって、バナナが入っているのを選べと指図する。そして車両の隅に移動した。モンチーは何が起きたのかわからないままに、ただ顔を擦っている。そうして三十秒が過ぎた。
「ごめん、モンチー」
もみじには正解が見えているのだろう。僕はただ動きの無い画面を見下ろした。こんなことをして何になる。五人で集まり、真剣な顔をしてぶつぶつ言う科学者どもを睨んだ。お前らは昔からずっとこうやって地獄を繰り返してきたんだな。猿を実験して、自分たちの優位性を確保して、猿は面白い生き物ですねって楽しんでいる。いいか、お前ら。耳をかっぽじってよく聞け! 猿も、生きている。猿も命を生きている!
「先ほどから何ですか、君。その目付きをやめてくださいよ」
男は僕を睥睨した。僕は科学者たちの眼鏡を、白髪を、禿げを許しはしない。お前らの頭並びに腹を屠ってやる。
「ふふ、学生はこれだからいけませんね? 私は人が一番言われてはいけない言葉がわかるんですよ。なんとなあくですけどね、理屈抜きで、どうしてかわからないけれど嫌だと思うはずだって言葉がわかるんです。言って差し上げましょうか」
「言ってみろ」
「お前はその腹から生まれて来るべきじゃなかった。醜いガチョウの子供は真っ先に死ぬ」
――脳のセーブがぶち切れた。僕は一目散に男に向かって拳を振り上げる。許さない、何があってもこいつだけは許してはいけない。倒すべきはこの男だ。殺してやるさ、たとえ今後どうなろうとも。そんなこと、知ったこっちゃない。
「やめて、カレン駄目! 殴っても解決しないの。カレンは私のお腹から生まれたカレンなんだから。ねえとにかく、これはそういう次元の問題じゃないの」
次元? 何が次元なんだ。事は単純じゃないのか。この憎き男を抹殺してそうすれば僕らは幸せになれる。猿の皆も幸せになる。だったら暴力でも何でも使ってやらないと。誰かが血を流し、誰かが血を流させないと。たとえそのことで十字架を刻まれたとしても。僕は闘うし、絶対に負けない。負けない自信があるんだ。
「負けないことは自明の理かもしれない。だけど、カレンが勝ってしまったら、カレンの幸せはどうなるの。誰がカレンを幸せにするの。これは複雑な仕組みの上に成り立っている。殴っただけじゃ根本的な解決にはならないし、カレンもろとも破綻してしまう。もっと私たちは完璧な手段でやらなければならない」
「放せ……エリカ! もう終わりなんだよ。こうなったら僕しか」
僕は血の涙を流して男を視界に収めた。僕はお前を見ているぞ。すぐそっちに行けるんだぞ。怖いだろう、僕と共に消え去る気分はどうだい? 夜道みたいで楽しいかい?
「君たちは若すぎますね? いわゆる若気の至り……」
「僕らは絶対、絶対に復讐してやるからな! 僕が駄目でも、第二の僕が、第三の猿がお前らを滅ぼしに来ることだろう! 最後の審判は必ず訪れる。避け難くすべての類人猿に平等に!」
そのときだった。モンチーがモニターの向こうで動き始めた。そのままどうするのかと思いきや、すっと真ん中の箱を持ち上げる。中にはバナナが。
「命拾い」
もみじが呟く。そして第二問が出題される。モンチーは三つの箱の中から髪飾りを発見した。第三問、モンチーは五つの箱の中から金塊を当てた。以降、全十五題をパーフェクトで正解してモンチーは実験を終えた。科学者たちは愕然として二の句を継げない。
「嘘、どうして……なの?」
もみじは驚きのあまり脱力して腰が抜けてしまった。モンチーは手に入れたバナナを暢気に貪っている。僕は安堵と喜びのせいで、胃から笑いがこみ上げてきてしまった。膝が震えて息がしゃくりあがる。
――猿は生まれつき透視する力を持っていたのだ。