1 僕と猿
「つまりですね? あなたの猿の有能性を我々に示してもらいたいわけですね」
「はあ……」
「あなたは猿を飼っているでしょう? その猿の才能というか、能力をですね、実演して紹介して欲しいんですよ」
男は僕の正面に立って大真面目にそう繰り返した。僕は確かに彼の言う通り、猿を一匹飼育していた。その猿がどうして被験対象になったのだろう。
「ともかくですね、数カ月後です。詳しい日程は追って連絡します。青山のここに来てもらいたい」
「猿と一緒に、ですか」
「ええ、もちろん。猿を一頭連れて……」
僕は会場の案内を受け取った。チラシには大学付属の研究所の名前と地図が書かれていた。今日のために作成したのだろう。囲いや吹き出しに、パソコンの基本ツールのような手作り感が見受けられる。僕はためつすがめつしていた。
「有能性の確認というのは、具体的にどういった手順で行われるのでしょうか」
男は斜め上を見上げて笑った。彼が蓄膿症であることを僕は発見した。
「非倫理的なことは行いませんよ。身体的な苦痛を伴うことは無いと断言しましょう」
「断言か」
「おっと、いけませんね? 社会人ならば、ここは断言すべきではないですか。何が起きるかわかりませんものね。ならばここは、恐らく、と言うべきでした。いや、研究職を長くやってますとね、社会の慣例には疎いですね」
僕は時計を見やった。なるべく早く帰ろうと思っていたのだが、ずいぶん引き留められてしまった。
「ところで、バターン死の行進というのを知っていますか?」
思わず「え?」と訊き返してしまった。あまりに脈絡を欠く質問だったので、手違いがあったかもしれないと思ったのだった。しかし、男は相変わらず営業用の笑みを浮かべている。僕はその笑顔から、逆に冷酷さとシニカルさを感じ取った。
「いや、いいんですけどね。デス・マーチを文学的に読むならば、どう言えますかね。この頃私ってば、その悲劇的事件についての本を読みましてね、一寸考えてみたわけです。これは文学的にどういう事件だったのかなと」
僕は早く解放されたい思いからイライラしてきた。知りませんよ、と獣のように叫んでしまいたいと思った。
「あなた、文学科の学生でしょう。ちっとも考えてみたことないですか」
「無い。無いですね」——チックタック。
「へえ。簡単なクイズみたいなものじゃないですか。じゃあ私見ですけどね、こういうのはどうでしょう。死の行進は、老人が朝五時に庭の畑で農作業をしていることと変わりない。こうやって喩えてみたら文学的じゃありませんか」
男は得意そうに鼻を膨らませた。僕は理解できないと思った。どこが文学的なのだ。科学者に文学的の何がわかるか。リュックを背負い直して首を捻った。
「さあ。僕にはわからないですね。死の行進は、畢竟ハンバーガーとポテトである。ではこれも文学的ということになってしまう」
「いや、いいですねそれ。むしろそちらの方がしっくりくる。私は気に入りました。事件の全てを言い表している。君は流石に文学士の資格がありますね。少なくとも横光利一よりは……」
僕は面倒臭くなって「では、そろそろ」と強引に話を切り上げた。男は特に気を悪くする風でもなかった。彼の鼻は大きく膨らんで、縦に萎む。なんたる不敬!
「じゃ、良い猿をお待ちしています。また後日お会いしましょう。ご協力感謝します」
僕は猿のことを考えていた。ブラッシングはした方がいい。人に慣れさせておかないとまずい。猿の警戒心はそれなりに、ある。あれをもっと優秀な存在に見せかけるにはどういう手段が取れる? 僕は大股でスッタスッタと歩いた。家路を急ぐ。
「ねえ、君。ちょっと足を止めて欲しいな」
声を投げ掛けられた。背後を振り返る。後ろで一つに髪を結った若い女性が僕を呼び止めているらしい……? 彼女はピンヒールをコツコツ鳴らして距離を詰めて来る。言われた通りに待っていた僕は、彼女の恰好を眺めた。ブラウスにスキニーなパンツ。そういうフォーマルさとシックさは、東アジア女性特有の香りみたいなものを僕に感じさせた。エロチシズムってやつだ。
「こんにちは。もみじです」
「はい?」
「湯浅紅葉と申します。よろしく」
「あの、何の用でしょうか?」
もみじは初めてニコリと笑顔を見せた。案外大人っぽくない笑い方だった。
「自己紹介を省き過ぎていると思う。良くない意味で。私たちは内面と事情をもっと共有すべきだと思う。パーソナルなこと」
確かに僕と彼女は初対面だ。ただ、彼女も僕と同じ大学生だと予想した。そういうのってわりにわかる。大学生か、大学に通ってないか、既に卒業した人間か。
「なら、用件から教える。私は大学院でジンカブンルイ学を研究しています」
「人化分類学?」
「あ、間違えた」
もみじは豆腐を箸からこぼしたときのように驚いた。そして冷静に訂正した。
「文化人類学。アンスロポロジー」
耳馴染みの無い単語に、少し緊張した。
「私、君が猿に関する実験に加わることを知ったの。私は意外と類人猿についても調査の手を伸ばしている。だから、猿の実験に対して、できることならどんな形であれ協力したい。私は猿の有用性についてかなり深い理解を示している」
とすると、先刻の場面を目撃していたようだ。僕はうんざりした気分になった。猿と住んでいるというだけで煩わしい出来事が舞い込んでくるのだ。
「それと、私はトウシできる」
「……金銭的な融通ということですか?」
もみじは一旦落ち着いて考えた。顎に手を当てて思案するように僕の顔を見つめた。涼やかな目が僕の黒目を捉えて離さない。数学の問題を解いているみたいな表情だ。エレガント・ビューティ……。
「あっ、そういうこと。投資じゃないわ。透かして視るということ。透視能力」
少々面食らった。いきなり人を捕まえて超能力があると告白するなんて。もみじはまともな人間じゃない。文化人類学を学ぶ院生は、しばしばこういう傾向があるのかもしれない。スピリチュアルな研究なのか? もみじは薄ら微笑を浮かべている。
「ごめんね。常識外れなことを言ってしまって。でも例えば、君はリュックの中に中国語の辞書を入れているね。財布にはオートマの免許証がある。そして君の股間は全く立っていない」
腕組みを始めたもみじは、人差し指を色んな方向に動かしていた。
「股間が立っていないというのは?」
「つまり、君のおち——」
「大体わかりました。ええとつまり、あなたは随意に物を透過して見ることができるんですね」
もみじは頷いた。わずかばかりの青さを含んだ瞳は、間違いなく僕以外の場所に向いていない。妙な迫力を含んでいた。
「透視能力があることと、猿の実験に何の関連があるんですか」
「難しい話じゃない。猿に透視能力があると装う。私が協力しさえすれば、それも可能でしょ」
もみじは近付いてきた。僕が心的に不快を感じる距離だ。胸の先が僕のみぞおちに当たるまで、あと五センチ。見上げる顔と僕の鼻先は、残り二十センチ。まさに接近。胸がでかい韓国の観光客の女に道を訊かれたとき、これくらいの距離で詰められた。真夏の鶴舞公園だ。「名古屋城はどこにありますか?」と。
「私は猿を信じている。だから、ズルを犯しても猿が舐められているのを止めたいんだ。大丈夫だよ。君は実験の報酬を受け取るわけじゃない。だったら詐欺を働くことにはならない。ノー・リスク。悪い話ではないと思わないかな。考えてみて」
そもそも僕は実験なんてどうでもいい。クソくらえだ。もみじが何にそこまで執着させられるのかも理解できない。結局考え込んでも答えは出ないだろうと思われた。
「僕は馬鹿です。考えてもよくわからない」
「なら協力して欲しい。厄介なことにしないよう気を付けるから」
もみじに躊躇なく両手を包まれた。つんと冷えた手だった。
「少し立ったでしょう」
僕はもみじの冷えた手を握り返した。小学生の頃、冬に鉄棒を掴んだときの感触を思い出した。手の平が灼けるみたいだ。
「温かいでしょう。もみじさん、動揺した」
もみじは些細に目を見開いた。よりくっきりと青く見える。ジュエリーの原石みたいだ。
「驚いて緊張した……。どうして私の心が見えた?」
「直観です。当てずっぽうかな。――すみません」
僕は謝って手を放した。もみじは無表情のまま僕から離れた。
「連絡先を交換しておきたいの。SNSでいいから教えて。これからよろしく」
もみじは交換を終えると、早速僕に背を向けた。
「用事があるので帰るね。今度、猿を確認したいから、たぶん家にお邪魔します」
どうやら家の掃除までしないといけないみたいだ。猿にしろ研究者にしろ、手間の掛かる連中だ。もみじは何かに気付いたみたいに振り返った。遠くで微笑を作っている。
「君の名前を聞いてない。自己紹介を疎かにするから。本名は?」
「ハマナカレン。浜中蓮です」
「カレンくんね。オーケー覚えた」
もみじの結った髪が左に揺れた。彼女はそれから振り返ることなく往来へ消えて行った。僕は無性に親子丼が食べたくなった。親子丼、食べたい。
うちに帰る。電気を灯す。パチンと明るくなった。黄緑の夕焼けが薄暗く室内に射し込んでいる。買い物袋を持って冷蔵庫に生鮮食品をしまい、夕飯を準備する。冷凍してあった白米とコロッケとミニパスタを解凍し、カット野菜と白菜の漬物とはんぺんを皿に盛り、インスタント味噌汁をお湯で溶いた。桃を切り分けて一切れ咥え、他を平皿に載せた。それを持ってリビングを見渡す。床に置いて「おい」と言った。
「ウキ」
本棚の上から猿が下りて来た。猿は赤い顔をしながら僕を窺う。僕は「食っていいよ」と言った。猿はすみませんねという卑しい笑みを浮かべてから桃を手掴みした。僕は満足してカーテンを閉める。テーブルの席に座って箸を取り上げ「いただきます」と呟く。今日のご飯も美味しい。幸福な家庭……そういう心持ちも起こらないではなかった。
「ウキ」
猿は大事そうに桃を噛んでいた。僕は足を揺らして猿の気を引いてみた。猿は茶色い体毛を掻いた。何もしないくせに飯だけは一丁前に食べる。
「ウキ」
猿が珍しくお利口にしているので特別にスライストマトを分けた。手で差し出すと、猿はすんなり受け取って口に運ぶ。八重歯が白く覗いた。——むしろ、僕はもみじを思い出した。もみじの歯並びは綺麗だった。僕はもみじの顔が好きだ。好みに近い。実験はともかくとして、不思議とそういうところに目が行った。もみじは崇高な学問にしか興味が無いかもしれないけれど……。
僕はかつてしみったれた大学生活の中で、ある女の子と付き合ったことがある。その子は驚くほど、それも本当に自分の指先を疑うほど、胸が膨らんでなかった。顔がいくら良くても台無しだと思って別れてしまった。別れたその日、僕は猿に毛繕いされながら泣いた。
「もみじさんは、胸がきちんとあったな……」
「ウキ」
僕の猿はオスだ。透視しなくたって、男の証は付いている……。