蘇生薬
「まずひとつ言っておくと、この集落の人たちは別に病気じゃない」
二人きりになった途端、老医師は言葉を紡ぎだしていた。
窓の外では陽が傾き始めている。朝から診察を始めたというのに夕暮れまでかかるというのは、どれだけの人間がここに押しかけたのかを如実に表している。
そしてひと段落ついたと思った矢先、若い医師から問い詰めるより先に、老医師は語りだしていた。
「まあ、ある意味で言えば、病気……なのかも、しれないが」
何やら歯切れを悪そうにしている。彼の中だけでいろいろな物が交錯しているらしいので、若い医師はただ黙って次の説明を待つ。
机の上には、『薬』の入った容器が置きっぱなしになっている。老医師はその蓋を開き、ひとすくいいを自らの掌に載せた。赤黒い粉末がそこで小山を形成する。
「この薬がなければ、彼らは死ぬ。この薬が、彼らを延命させているんだ」
老医師は掌の『薬』を力強い目で見つめている。特別な思い入れでもあるのか、その顔は若い医師が病院で見てきたものとは明らかに別物だった。
「あの人たちを助けたい……それだけなんだよ」
「それはいいんですけど」
熱のこもり始めた老医師を、若い医師の冷徹な言葉が遮る。
これまでに、若い医師の不信感はひどく高められてしまっているのだ。あやふやな回答では、納得どころかさらに疑念をあおることになる。
全ての疑問を、ここで徹底的に解明しなければならない。
「病気でないなら、なぜここの人たちは『薬』を必要としているんですか? 『薬』での延命が必要なら、それは病気なんじゃないでしょうか」
「それは言えてるな」
若い医師の言葉を特に否定もせず、老医師はただうなずいている。釈然としない態度に、若い医師に次第に苛立ちが募っていく。
「それに、あの患者の数。あれだけ多くの人が『薬』を必要としているのも不自然です。あれほどの数、それこそ流行病でもない限りはありえないでしょう」
「……ふむ」
老医師は椅子からゆっくり立ち上がり、奥のポットへと向かっていった。引き出しからインスタントコーヒーを取り出し、二つのカップに振り分けていく。
「流行病ってのも、あながち関係ないわけじゃあない。『薬』をもらいに来てた人たちはみんな、かつてあの病気にかかっていた」
「……」
カップから湯気が立ち上り、コーヒーの完成を示した。そのまま二つのカップを手に、老医師が元の席に戻ってくる。向かいに座っている若い医師もカップを受け取ったが、コーヒーに口をつけようとしない。
若い医師は、言いようのない不安と恐怖に苛まれていた。
「治療、できたんですか?」
規模の大きな病院でも難しい治療を、こんな小さな診療所で完璧に施すことは不可能だ。にもかかわらず、あの数の人間が生命活動を続けている。異様としか言いようがない。
そこまで考えた若い医師は、自分が彼らを『生きている』と称さなかったことに気付いた。
なんとなく、『薬』の正体に感づいたために。
「できるわけないだろ? 彼らはみんな、その病気で一度死んだよ」
「……その人たちに、『薬』を投与した」
「ああ、成功するって確証もあったしな。あとはまあ……分かるな?」
前日の男性の事が、否が応でも思い出された。
明らかな死亡。にもかかわらず、数時間後には元気に診療所を後にしたという事実。そして老医師の「服用が早かった」という言葉。
導かれる結論は、たった一つしかない。
「この『薬』は――死んだ人間を、蘇らせることができる」
死んだ人が生き返る。それは、覆ることのない自然の摂理。
だがそれを、彼は捻じ曲げたのだ。『薬』を用いることで、死んだら生き返らないという不文律を踏み越えてしまった。
その『薬』がどうやって作られたのか、どうして作り方を見つけたのか、そんなことは若い医師にとってどうでもよかった。
彼が見過ごせなかったのは、老医師が自然界の大原則を犯したという一点。
「そんなのおかしいでしょう!」
叫ぶとともに、若い医師は立ちあがっていた。
老医師の方は特別に驚いた様子もなく、立ちあがった若い医師の顔をまじまじと見つめてきている。どこか余裕に満ち溢れているその態度に、若い医師は胸中がかき乱されるような錯覚に苛まれた。
「死んだ人が蘇るなんて、あっていいはずがない!」
「理屈は俺にも分からん。けど実際、『薬』によってあれだけの人間が蘇ってる」
「そういうことじゃ……!」
「俺は言ったよな? 『あの人たちを助けたい』って。俺は医者として、そして一人の人間として、あの人たちを死の世界から呼び戻した。それは、普段俺たち『医者』がしていることと変わらないじゃないか」
「……」
若い医師は言葉に詰まった。放っておけば死んでしまう患者を助けるのは医者として当然のことであり、可能な限り多くの命を救いたいと願うのも当たり前のことと言える。
しかし、それでも釈然としない何かがあった。その正体は自分自身でもはっきりしなかったが、ただ一つ、『これが医者として人を救ったわけではない』ということには確信を持っていた。
「俺は以前言ったはずだ。医療ってのは進歩すると、神に届くのかもしれないってな。この『薬』はきっと、その先駆けなんじゃないだろうか」
確かに、死者の蘇生というのは神にしかできない所業であるともいえる。だが目の前の容器に詰まっている『薬』は、神々しさなど欠片もなく、むしろ禍々しい雰囲気を醸し出しているように思えてならなかった。
「定期的に『服用』する必要があるが……改良を加えればその必要もなくなるかもしれない」
ある意味、医療の極論ともいえるその事実。にも関わらず、老医師の微笑の中には幾ばくかの虚しさが込められているようだった。その表情を見ていると、激昂していた若い医師も怒りが鎮まっていく。
「……だとしても、それは俺たちには届かない未来でしょう」
以前と同じ口調で、同じように、そう告げた。
それには老医師も意外そうな表情をし、
「ああ、そうだな」
と小さく頷いた。
それからすぐに姿勢を整えると、立ちあがっている若い医師に座るよう催促した。言われるまま、元の位置に腰掛ける。
「俺がお前を呼んだのは、『薬』の製法を伝えておこうと思ったからだ」
「!」
全身が硬直する。
自分に『薬』の製法を教える――それはつまり、彼のしてきたことを引き継いでほしいということではないのか。
死者蘇生という、神の領域への侵入を。
凍りついた若い医師の心中を知ってか知らずか、老医師は続けざまに言葉を並べていく。
「難しいことじゃない。手順さえ覚えれば、誰にでもできるようなことだ」
「そういう問題じゃない……です」
唇をかみしめる。今まで無意識に使っていた敬語が、意識しなければ出せなくなっていた。
苛立ちを露わにしていると、老医師もそれに気づいたようだ。真剣な面持ちのまま、しかし軽い口調で若い医師へ椅子を引き寄せる。
「お前だって否定はできないはずだぞ? あれだけ多くの人間の命を助けることができるんだ、医者としてこれほど喜ばしいこともないはずだ」
若い医師の両肩に手を置き、近距離で目を合わせてくる。引力に引き寄せられるように、若い医師の視線も老医師の目から離せなくなってしまう。
以前と変わらないような、だがどこまでも暗く濁ったような瞳。その中に吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥り、頭から思考が薄れていく。
「……!」
咄嗟に立ちあがって逃げていなければ、そのまま気を失っていたかもしれない。
極度の緊張のせいだろうか、気がつくと肩で息をしていた。恐怖で老医師を直視できず、板張りの床に視線を落としている。
はじかれた形のまま固まっていた老医師は、その手をゆっくりと下ろすと、自分を恐れる若い医師に鋭い視線を向けた。
何の感情もこもっておらず、それだけに相手にプレッシャーを与える冷えた視線。
「……まあいいさ。いきなりOKもらえるとも思ってなかったしな」
どこか愉しそうに、笑って見せる。
「どの道、説明はさせてもらう。その上でどうするか、自分で決めるといい」
そう言って椅子から立ち上がり、若い医師を置いて診察室を後にする。
足跡が聞こえなくなっても、若い医師の凍りついた脚は一向に動き出さなかった。