群がる人
床が冷たかったこともあるだろうが、若い医師の睡眠はひどく浅いものだった。
何やら外が騒がしくなり始め、その音で目を覚ます。体を起してみると、前日の疲労がほとんど取れていないらしく、体中に軋むような痛みが走った。その痛みで、自分が前日に老医師のもとへやってきていたことが思い出された。
辺りを見回し、拝借した待合室の様子を確認する。
まだ診察時間でないため、誰の姿もないのは当然だろう。老医師も、常駐らしい医師のほうも、診察室にいるのか姿が見えない。
もっと静かになるはずの状況だが、外の喧騒がどんどん巨大に膨れ上がってきているせいでなかなかやかましい。この集落自体が静まりかえっているイメージだったので、若い医師にはそれが不釣り合いに感じられた。
体を叩き起こし、窓の方へ歩み寄る。外の様子を確認しようとしたのだが、無意識のうちにカーテンの陰からこっそりのぞき見る姿勢になっていた。
喧騒に対して警戒していたのか、その理由は彼自身にも分からなかった。ただ、そのざわめきが不気味なものであると認知していたのは確かだ。
体をカーテンに巻きつけるようにして身を隠し、外の様子をうかがう。
「……これは」
診療所の外には、長蛇の列ができていた。
田畑の間を走る細いあぜ道を、数えきれないほどの人間が埋め尽くしているのだ。これまでどこに隠れていたのかと疑うほど、昨日の集落の印象と食い違う人間の数だ。
それはもちろん不自然なのだが、それ以上に、この人数が診療所に集まっているというのはあまりに非現実的に感じられた。
「おーおー、今日も集まったなぁ」
「あ」
いつの間にやってきていたのか、反対側のカーテンに老医師が実を隠していた。外の大行列を見て、なつかしむような笑みを浮かべている。
「あの……これ、何の行列なんですか」
「しばらく忙しくなるから終わってからな。そこは邪魔になるから一緒に診察室にいた方がいいぞ」
「は、はい」
老医師に対する不信感は高まっていたのだが、外の人間を見るとそんなことは後回しになってしまう。とにかくこの場をやり過ごそうと、若い医師は言われるまま老医師について診察室についていくことしにした。
「あれ……その腕」
移動中、若い医師は老医師の腕に大きな傷があることに気付いた。不注意でつけてしまったような物ではなく、何度も同じ場所を傷付け続けたような見た目をしている。
「気にすんなって。あ、この傷の事は他の人には内緒だぞ。怖がらせるからな」
「そう、ですね」
長袖の白衣を着てしまえば、傷はすっかり隠れてしまうだろう。特に追及もせず、若い医師は傷の事を忘れることにした。
「そろそろ診察時間だな」
「もう入っていいのかな」
「辛抱が足りんぞ」
「おふくろ、俺が代わりにもらってくるって言ったのに」
「いやいや、こういうのは直接もらわないとねぇ」
「小林さんはもうもらったんだって? ずるくないか?」
「昨日のうちに倒れたらしいよ」
「あぁ……じゃあ仕方ないか」
「おくすりー」
「は……早く、欲しいですね」
「焦んなって。早死にするぞ?」
「ブラックジョークだな」
外から聞こえてくる声に背中を押され、二人は慌てて診察室へと駆け込む。
九時――診察開始を示すチャイムが鳴ったのは、そのすぐ直後の事だった。
患者の長蛇の列――あまり人口の多くなさそうなこの集落でそれを見ることになったのは、若い医師も驚いていた。住民全員が終結したかのような列は終末が一向に見えてこない。窓から外を確認しても、まるで人数が減っているようには見えないのだ。
そうそう目にする光景ではないのだが、彼はつい最近にも同じような行列を見たことがあった。
最近猛威をふるっている、名もなき流行病。感染力が強く、患者の数は彼の経験したことのない値に昇りつめている。今は病院を休ませてもらっているが、相変わらず新しい患者がおしかけているに違いないのだ。十分な医師の数が確保できていなかったら、こうして休暇をもらうこともできなかっただろう。
老医師が病院に戻ってくれれば、自分もすぐに治療にあたることができる。できることならすぐにでも戻りたいのだが、この忙しそうな様子を見る限り、そうもいかないらしい。
この患者の多さを見ると、この集落でもその病気が流行っているのではないかと思えてくる。設備が不十分である分、若い医師のいた病院よりも治療は難航を極めているだろう。ただでさえはっきりとした治療法が見つかっていないのだから、むしろ自分がここを手伝うべきなのかもしれない。
そこまで考え、若い医師はふと、小さな違和感を感じ取った。
今もまた、青年と女性の親子に二つの小さな容器を手渡した。他は簡単な挨拶程度で、二人ともすぐに退室してしまう。
老医師は、これまでやって来た人すべてに対して同じことを繰り返していた。他に何をするでもなく、ただ薬を渡すだけ。
あの病気の治療と称するにはあまりに簡潔に済まされていて、とても忙しいようには見えなかった。
渡している薬も、大きなプラスチックの容器から老医師が薬さじですくいあげて小さな容器に移している。やたら赤黒い色をしている粉末で、やはり認可の下りた薬には見えない。
例の病気とは別の何かがある。特に若い医師には、かつての『薬』に関連する『何か』を想像させた。
大きな容器には、まだまだ大量の薬が詰まっている。それが血だまりのように毒々しく濁って見え、若い医師の背中を寒気が走っていった。
自分の目の前で繰り返されるやりとりが、まるで異形の物であるかのように思えて。
「いつもすまんねぇ、先生。そちらのお方は、先生のお知り合い?」
一人の老婆が、薬をもらった後に若い医師に視線を移してきた。いままで傍観者に徹していたため、若い医師はすぐに反応できなかった。
「ああ、仕事仲間。いろいろ話しておきたいことがあって呼んだ」
「そうかい。そちらの先生も私たちを診てくれるといいんだけどねぇ」
「それは彼次第でしょ」
明るく会話をする二人に、若い医師は得体の知れない危険を感じ取っていた。
「……おにーちゃん」
「!」
突然かけられた声に全身が硬直する。
だが、その声が子供の声だと分かると、すぐに心を落ち着かせて声の主を確認する。冷静になってみれば、聞き覚えのある声だったように思う。
若い医師の目の前には、一人の少女が立っていた。
「ああ、すみません! この子ったら、また……」
慌てて診察室に入ってきたのは、前日にお世話になった女性だ。隠れていたためにうまく覚えていなかっただけで、目の前の少女も昨日の子と同一人物であるようだ。
「いえ、気にしなくていいですよ」
「ごめんなさい。この子、自分だけみんなと違うって拗ねちゃうんですよ」
「その子も変わってないなあ。そっちの方がずっといいのに」
老医師が会話に加わり、今日は少女が怒ったような顔で老医師の事を睨みつけた。それも一瞬のことで、すぐに彼女の視線は若い医師へと戻る。
「あそんで」
一言だけ、どこかぶっきらぼうに。
「え? 君は、薬はいらないの?」
無言でうなずく少女。言葉での説明が全く無く、彼にはうまく納得することができない。明らかに孤立していて暇そうに見えたのだろうか。
そこに、彼女の母親である女性から補足説明が与えられた。
「その子に限っては、『薬』がなくても平気なんです。だからこの列に並ぶ必要がないんだよって以前に説明したら、急に怒り出してしまって……。それ以来、『薬』をもらう日はご機嫌斜めで」
どうやらそのせいで、この列に対して疎外感を覚えてしまっているらしい。
「じゃあいいですよ。遊び相手くらいなら僕にも勤まるでしょう」
「…………じゃあ、お願いします。私の順番が済んだら、すぐに連れて帰りますので。すみません」
何度も頭を下げる女性。対して少女のほうは、若い医師に遊んでもらえるとわかって上機嫌になっている。前日は若い医師の事を怖がっていたというのに、切り替わりの早さは彼も素直に驚いていた。
この少女だけ『薬』が必要ない。次々にやってくる患者と少女の相手に気を取られ、若い医師がその特異性に気づくことはなかった。
お久しぶりです。読んでくださっている方、ありがとうございます。
『不老不死の夜』の外伝的な話にしようと思っていたら、どう考えてもそれより長くなってしまう気がしてなりません。仕方ないので続編ってことにしようか思案中。単体でも楽しめる話にしたいので、続編という括りは避けたいのですが……。