今日はもう寝よう
「泊まるあては? ……無いのか。メシ処もここにはないし、どうするつもりだったんだか。いや、そんな目で見ないでくれ。確かに呼び出したのは俺だが……多少の準備くらいはしてきてもよさそうなもんだけどなぁ。……こんな場所だって想像してなかった? あー、確かに、そういう詳しい説明してなかったからな、それは俺の落ち度だ。ちょっと待ってな、今コーヒー入れるから」
老医師の口は収まるところを知らなかった。久々に会った喜びもあるのかもしれないが、かつてないほど饒舌だ。若い医師には最低限の応答しか喋る隙を与えず、訊くことだけ訊いて奥の部屋へと消えて行ってしまった。喉が渇いていたので、コーヒーはありがたかったが。
女性と少女の親子が帰路につき、常駐していると思っていた初老の医師も自宅に帰っていった。この診療所にいるのは、老医師と若い医師だけとなっている。
陽が沈み、外はすっかり暗闇に包まれていた。ただでさえ寂れた印象のあった集落が、それこそ無人とみまごうばかりに静まりかえっている。もしも野宿することになっていたら、まず間違いなく凍死していただろう。老医師の対応からここで寝食を得られるようなので、ひとまず事なきを得たことになる。
もっと計画性を持たなければと自身を叱責しつつ、今の若い医師は別の事に気を取られていた。
死者の蘇生。
亡くなった男性が元気な姿で彼の前に現れたのは、ほんの数時間前の事だ。
死亡確認に過ちはなかった。実際に生きている姿を見てしまうとそんな記憶のほうを疑いたくなるが、こういう事態にならないように入念に確かめたのだ。しかも、男性は間違えようのないほどあからさまに死亡者の特徴を持っていた。
どちらの意見も譲らず、その結果が『蘇生』というものに落ち着いた。そう考えれば、あの女性の言ったことも、少女が母親に訊ねていたことも、あながち虚構ではなかったのかもしれない。
「ほれ、おまちどお」
「あ……」
目の前にカップが差し出されて反射的に受け取るが、お礼の言葉がなぜか言い出せなかった。
見上げて映るのは、老医師の笑顔。頼もしく、優しそうな雰囲気があるのに、若い医師は直視することさえ少し躊躇ってしまった。
「ん? 俺の顔に何かついてるか?」
じっと見据えられているのが気になったらしく、老医師のほうから訊ねてきた。カップを持ったまま、長椅子に腰掛ける若い医師の横で佇んでいる。座りながら見るとなかなか大柄で、得も言われぬ圧迫感があった。
「そういうわけじゃ、ないですけど……」
訊きたいことは山のようにある。しかし、とっさに言葉がまとまらない。何か言葉を発する前に、若い医師は高温のコーヒーを一気に口に運んだ。
「っ」
舌が火傷しそうなほどに痛む。思わず口を話しそうになるが、構わずカップを傾け続ける。つかんでいる手が大げさに震え、信じられないような激痛が口から全身にまで伝わっていく。
「……っぷは!」
苦味さえもほとんど感じられず、完全に飲み干しても口の感覚が戻ってこなかった。
「おいおい、大丈夫かよ?」
「……大丈夫です」
だがそのおかげで、考えをまとめるわずかな時間が得られた。
回りくどい手を使うのは諦めた。ストレートに、本人に問いただすことにした。
「単刀直入に訊きます」
「……ああ」
「『薬』とは、なんですか?」
分かり切っていたことだが、老医師はしばらく沈黙した。
若い医師には、『薬』の正体についてある程度の予想が立っていた。
それはもちろん、あの男性のように死人を蘇らせることのできる秘薬という結論だ。かつて彼自身が手に入れようとした別の『薬』と、分類は同じものにあたるだろう。
一般人であるはずの老医師がどうしてそんな物の存在を知っているのか……それはどうでもよかった。若い医師にとって見逃せないのは、『薬』が世の中に溢れかけているという事実だ。
いかに危惧すべきか、若い医師は嫌というほど知っている。老医師がどんな経緯でたどり着いたかは分からないが、生半可な覚悟で世の中に送り出してはいけないのは確かなのだ。
「答えないのは無しですからね」
「ああ、分かってる」
老医師は相変わらず笑っている。もっと緊張に包まれそうな場面だけに、より一層不吉な雰囲気が滲み出ている。若い医師はそれに屈せず、老医師の不気味な笑みを睨み続けた。
そのまま、およそ十秒。
「……明日、くわしく話そう」
それだけ言って目をそらし、再び奥の部屋へ向かい始めた。
「逃げるんですか!」
「違う。ここで説明してもいいが、実際に目にしといた方がもっと納得しやすいと思ったんだ。どうせしばらくはここにいるんだろ? だったら焦らなくたっていいじゃないか」
「目に、する……?」
何気なく発せられた言葉に、若い医師は硬直する。
何を見ろと言ったのか。もし『薬』が若い医師の予想通りの物だとしたら、見せるモノというのも当然、そういうモノということになる。
「カップ麺しかないが我慢してくれ。醤油と塩、どっちがいい?」
なんでもない夕食についての質問にも、若い医師は反応することができなかった。
――明日、何を見ることになるのだろう。
待合室の床に簡素な寝床を作り、若い医師はそこに横になっていた。老医師はすでに眠ってしまったらしいが、若い医師はどうしても寝付くことができない。
当然だ。悪夢がすでに現実になったかもしれないのだから。
目の前で人が死ぬなど、医者にとっては珍しいことではない。可能な限り減らそうと、願わくばゼロにしようと尽力するのが仕事だ。それでも力及ばずに助けられなかったという経験も、無いわけではない。
だが、人が『殺される』のを見たことは、今のところない。
死者の蘇生を見せるということは、誰かが死ななければならない。見せるのに都合よく誰かが死んでいるというのも考えにくい話だった。
「畜生……あの人は、俺に何をさせたいんだよ……」
なんにせよ、明日になれば全てが分かるのだろう。横になって考えていても、永遠に結論は出ない。
朝など二度と来なければいいとも思った。もちろん、そんな事は願うだけ無駄であり、気がつかないうちに若い医師はひどく浅い眠りへと堕ちていった。
スタンドの電気をつけ、机の上を照らす。患者のカルテなどはまとめて棚にしまってあるので、机には今は何も乗っていない。
上着のポケットに手を突っ込むと、そこに詰まっている物を鷲掴みにして机の上に広げた。その際、やや大きな音が立ってしまい、若い医師が起きてこないかと焦って後ろを向いた。だが、誰かが身を起こした気配はない。
ホッと息をつき、ポケットの残りをまとめてつかみ取んで、今と同様に机の上に広げた。何もなかった机は、あっという間にそれらで埋め尽くされてしまう。
広がっているのは、何かの実や小さな新芽、キノコなど、山から採ってきた自然の物ばかりだ。
その内から数種類を取り出し、すぐ手前に並べる。それから引き出しを開き、中にある様々な器具を取り出して卓上に置いた。
どれも彼の自作で、いつ壊れてもおかしくないくらいにボロボロになっている。
もしもこれらが壊れてしまったら、それを『きっかけ』にしようと思っている。それならば、自分自身を納得させられるような気がするのだ。
だが今回も、全ての器具が正常に機能するようだ。
まだ許されないのだと悟ると、老医師は諦めたように目の前の実をひとつ拾い、器具のくぼみにセットする。そして器具の尖った部分でそれを固定すると、その反対側を真上に向けた。そちらも実を押さえた方と同じように尖っていて、こちらは赤黒く変色している。
それを見るだけで、老医師は未だに眉をひそめてしまう。覚悟していたこととはいえ、とても慣れるものではないのだ。
辛くはあるが、後悔はしていない。自らこうすることを望み、実行してきたのだから。
そんな自分を嘲るように笑いながら、老医師は右腕をまくり――
器具の先端で、思い切りその腕を刺し貫いた。
暗闇の中、診療所の一室の明かりだけがいつまでも灯り続けていた。