深まる疑惑
分かり切っていたことだが、診療所の中は閑散とした有様だった。
コンクリートらしい壁にはいくつかの亀裂が見て取れ、緑色の床には年代物の傷がいくつもつけられている。患者用のスリッパを履いているのだが、右足の親指が顔を出していた。
「あの、それじゃあ、こちらに勤務なさっているお医者さんを呼んできますね」
微妙な表情のまま、女性はそそくさと診療所の奥へと向かって行ってしまった。受付は存在するのだが、人の姿がないので機能していない。
仕方がないので、待合室の長椅子に座って待つことにした。端の方はスプリングが飛び出していて危ないので、見た目が安全そうな中央へ。
「こんなトコにきて何をしようとしてたんだろ、あの人……」
彼らが勤めていた(若い医師は今も務めている)病院は、全国的にも名前の知れた大病院だ。忙しいと言えばそうだが、医師の数も十分で、過酷な職場環境というわけではない。設備は当然のごとく充実していて、医者としてならこれ以上良い場所はないと言っても過言ではないだろう。
ここの人々には悪いが、全てを投げ出してまで来ようと思えるような場所ではなかった。
ここに赴任、というのはあり得ない。彼は勤務先だったその大病院を、ほとんど無断で飛び出してしまっているのだ。ここに赴任を命じるにも、それ相応の手続きを踏まなければならない。消息不明扱いの彼に、どうやって赴任を命じるというのだろう。
「あの、すみません……お医者さんがいらっしゃったので、こちらにどうぞ」
「あ、はい」
女性の呼び出しの合図は、さながら看護師のようだった。他の人間は存在しないのだろうか。
気になることが山積みになっているが、ひとまずここの医者に会ってみないと話は進まない。言われるまま、診察室とプレートの付いた部屋へ入った。
「やあ、はじめまして」
「は……はじめまして」
そこにいたのは、四十代半ばくらいの男性だった。髪はすべて黒く、顔に見られるしわもそれほど高齢を感じさせない。
少なくとも、捜している人間とは別人だった。
「あなたですか、医者を探している方というのは」
一見すると優しそうな笑顔を浮かべていていい印象を受けるが、言葉にはどうも突き放すような感情が含まれている。先ほどの女性の反応といい、あまり歓迎されているムードではなさそうだ。
「そうですね。ここに案内されたので、てっきりここにいるものだと思っていましたが」
「ここにいる医者は私一人です。他に勤務している医師はおりません」
遠回しに、ここから立ち去れと言われているような気分だった。
だが引くわけにはいかない。若い医師も、ここで何があったのか、彼がなぜここへやってきたのか、確かめなければならないことが多い。
第一、手紙をよこしたのは相手のほうなのだ。ここで黙って言うとおりに引き下がる必要はない。
その手紙を懐から取り出し、相手の医師につきつけた。
「これは……?」
相手は差し出された物の意味を測りかねているようだ。
「これは、僕の捜している方からの手紙です。書いてある通り、僕はその人に呼ばれてここに来たんです」
「……」
口をつぐんだ。その手紙が本物なのか吟味しているかのようだ。
やがて本物だと認めたのか、観念したように溜息を一つついた。
「……なるほど、分かりました。確かにそれは彼が書いたもののようですね」
ようやくとがった雰囲気が消え、本当に優しそうな声で若い医師に微笑みかけた。
「失礼しました。彼が、自分の事をよその人間に話してほしくないと言っていたので……」
「そうですか」
相手は安心しているようだが、若い医師のほうは逆に懐疑を抱き始めていた。
自分の存在を隠そうとするなど、まるで指名手配犯のすることではないか。彼が勤めていた病院でなにかミスをしたのかと一瞬は疑ったが、そんなものがあればとっくに知れ渡っているはずだ。
しかし、現に彼は自身の存在を世間から消そうとしているかのようだ。そんなことをする理由など到底見当たらないが、そこは本人に問いただせば済む話だ。
相手の医師は、もう一度件の手紙を見返している。若い医師を呼んだ理由を探しているようだ。
「……なぜ呼ばれたのか、心当たりは?」
「ありません」
即答した。それは彼のほうこそ訊きたいことなのだ。
失踪する数日前に語っていた哲学がかった話と、今回の呼び出し。何かしら関わりがあると見て間違いないだろうが、結論は本人に訊かなければ出ないだろう。
その話にしても、自分の意見をまとめるために聞かせていただけのようだった。語りかける相手を自分にした理由は分からないが、改めて呼び出すほどの何かをその話から感じていたわけではない。
ただ、彼とかわした話の事はあえて伝えないことにした。
明確な理由はないが、失踪前の彼の不審な言動について教えることが躊躇われたのはたしかだ。
相手が自分の事を完全には信用していないのはよくわかっている。同様に若い医師も、彼らの事を信用しきれずにいるのだ。迂闊に彼の話をすると、それこそその後がどうなってしまうのか想像もつかない。
「彼がどういうつもりなのかはわかりませんが……なぜ呼びだしたのか、それを訊くつもりでいます」
「そうですか」
納得したのかしていないのか、相手の医師がそれ以上何か言ってくることはなかった。お世辞にも忙しいとは言えない状況のはずだが、彼は何かを紙に書き続けている。誰かのカルテとは考えにくいが、手紙や日記といったプライベートの類でもないようだ。
同じ医師とはいえ、あまり覗き込むのも失礼なのでそれ以上は気にしないことにした。
「彼は今、薬の材料を集めに外出しています。日が暮れるまでは帰ってこないでしょうから、こちらでお待ちいただければ夕方にお会いできるでしょう」
ひとまず、排他的な態度ではなくなっていた。だが、それでも胡散臭さがぬぐいきれない。何か隠し事をしているような態度なのだ。
それはお互いさまなので、目を瞑っておくべきなのだろう。それよりも別に、気になることがある。
「薬の材料ですか? 彼が自ら集めているんですか?」
医師は本来、薬の調合をしない。それは薬剤師の仕事であり、自分から必要な薬の材料を集める医者はほとんどいないだろう。もちろん、薬を手作りすること自体が珍しいともいえるのだが。
「そうです。他の誰にも調合法を教えようとしないので、彼以外に何が必要なのか知らないんですよ」
「……そう、ですか」
薬と聞き、若い医師の脳裏にある記憶が蘇る。
ここに来る前に立ち寄った孤児院。そこの経営に尽力している、バンダナを愛用する男。
見た目も能力も、一般人と差があるわけではない。やや感情的になりやすくはあるものの、世話をしている子供たちの事を第一に考える優しい人間だ。
だが、彼には他の人間と一線を画した―――不老不死という特徴を持っていた。
彼にその奇跡を与えた薬。自分も一度は受け入れようとして、最終的に自分から手を引いた薬。
今となれば不老不死にならなくてよかったとも思っているが、今でも不安に思うことがある。
不老不死に限らず、そういった類の『非現実』が世間に漏れ出していたりはしないだろうか。自分の知らないところで、誰かが禁忌の領域に足を踏み入れているのではないだろうか……そんな恐怖が時折、頭をもたげてくるのだ。
世の理に逆らうリスクを知っている彼にとって、軽率な行動は許しがたい『罪』に思えたのだ。
「その薬……どういった効能の物かご存知ですか?」
その質問は口をついて出ていた。
「っ……」
一瞬だけ言葉に詰まり、顔が強張る。それに気付いたのか、すぐに無理やり笑顔へと作り替え、
「……私は知りませんね。身体は丈夫ですから」
とだけ言って若い医師に背を向けた。
何か隠しているのは明らかだ。これは看過できるほど気軽な質問ではなかったのだが、相手の反応がつっこんだ質問を許してくれそうにない。よほど特別な材料を使っているのか、後ろめたい他の理由でもあるのだろうか。いずれにせよ、追及は難しそうだ。
気まずい空気に耐えかね、若い医師は黙って診察室を後にした。