残された医師の疑念
残されていた手紙に、詳細はほとんど書かれていなかった。ただ『ここからは俺一人の問題だから皆を巻き込みたくない』という意志が、ものすごく遠まわしに表現されていたのは確かだ。
自分宛の手紙を一読し、彼の頭はしばらく空白ばかりだった。失踪する数日前の会話から不審に思っていたのだが、はっきりそうだと確信を持てるのは決まって事の起こった後だ。後悔は先に立たないと、彼はその時に痛いほど実感していた。こんな行動を起こすなど、その当時に予測できる人間の方が珍しい。
彼の勤務態度は真面目で、まさに医師の鑑といえるものだった。患者からの信頼も厚く、また誰よりも患者のことを考えていた。
だから、彼は今でもこの事実が信じられずにいる。悪い冗談ではないかと思い、推測ばかりで年月がいたずらに過ぎ去っていく。欠かせないと感じていたはずの存在は、いざ欠けてみると思いのほか実害を伴うものではなかった。
「人間って薄情なんだって思ったよ」
紺のマフラーを巻きなおしながら、若い医師は寂しそうに呟く。わずかな風も冷気を伴い、身を震わせるには十分な威力を誇っている。
木に寄りかかったまま、それとなく空を見上げた。雲ひとつない快晴だが、それだけに淡白な印象を与えるものだ。少なくとも今の彼は、その空で心が晴れやかになることはない。
「あんまりあっさりしすぎてる。そう思うだろ」
「……それは、そのいなくなった医者のことか?」
若い医師と向かい合っている男が、静かに返答をした。筋肉質の体は威圧感を与えるが、腕組みをして佇んでいる姿に若い医師が怖気づく様子はない。むしろ長い付き合いの友人であるかのように、何の気兼ねもしていない態度をとっている。
「違う。俺のことだ」
「と言うと?」
「あの人がいなくなって……なのに、俺は何も変わらない毎日を過ごしてる。結局は俺も、あの人のことをその程度にしか見てなかったんだな」
自嘲気味に笑うと、同調するように強い風が吹き抜けていった。腕を組む男のほうは薄着なのだが、身震いすることもなくまっすぐ若い医師の事を見据えていた。一見厳しそうな顔だが、その中からは相手をいたわるような優しさがにじみ出ている。首にかけた白いタオルが、気のいい大工のような雰囲気を演出していた。
「結局はお前がどう考えるかだが……俺にはそうは映らないな」
マフラーの中に顔をうずめ、若い医師は男から顔を隠す。彼の言葉に対しての反応はしない。
「どれだけの付き合いだったのか俺は知らない。だが手紙を残したってことは、それくらいの仲だったってのは確かだな。それでそいつの事を心から疑うことができなかった。きっと何か理由があると未だに信じている……」
「……」
「だが葛藤は続く。ひょっとしたら病院から逃げ出したんじゃないか、本人がいないせいでそれを否定しきれない。自分の中にある二つの意志が両立しないせいで、自分ひとりで結論が出せずにいるってわけだ」
「……ああ」
ようやく得られた反応に、男は一度溜息をついた。それが若い医師に対する嘲りなのか、本音を聞けた安堵なのかは分からない。
「そこで気になったわけだ、数日前に聞かされたそいつの話が。今になって思い返してみると、どうも『あれ』な話だったように思えた。だから俺のところに来た。そうだろ?」
「すごいな。俺も半分は無自覚だったのに」
相手の推察力に対し、若い医師は素直に称賛を贈る。
一拍の間が空いた。それを狙ったのか、奥の平屋からたくさんの子供たちが二人のほうへ駆けだしてきた。
背丈や性別もバラバラだが、その誰もが共通して腕組みをしている男に対して絶対の信頼を寄せている。決して柔和とは言えない男に向かい、安心した笑顔を見せていた。男の方もそれを確認すると、わずかに口の端を緩ませた。
「悪いな、お呼びが掛かっちまった」
「いや、こっちこそ急に押しかけてすまなかった」
子供たちのほうへ向かい直る男を見て、若い医師も木から離れた。これ以上ここにいても確実に邪魔になると察したのだ。
「これは俺の言えた義理じゃないが……」
後ろを向いたまま、男が独り言のように言葉を紡ぐ。
「そいつはきっと、医者を捨てたわけじゃないと思うぜ。多くの人命を救おうとした決意の上での行動に思えたぞ。最近は妙な病気が増えているからな」
後ろ姿から表情はうかがえない。子供たちに向けた笑顔か、それとも。
「それでも気になるのなら、そいつに会って話を聞けばいい。それが一番手っ取り早い方法だ」
歩き出しながら男は、首のタオルを頭に巻きつける。
「そうだな……ありがとう」
謝辞を述べると、タオルをバンダナのようにした男は右手だけをあげて返事をした。
風は冷たく、静かに吹いていく。