エピローグ
無邪気に遊ぶ子供たちの声が、遠いもののように響きわたる。友達と走り回っている子もいれば、木陰で読書にいそしむ子もいる。なおかつ、一人きりになっている子供は一人もおらず、必ず数人単位のグループを形成して遊んでいるようだ。浮いている子には、すぐに誰かが声をかけている。
それぞれの個性が色濃く表れている場面だが、一様にある共通点を持っていた。
彼らは、ここでの暮らしになんら不安を感じていない。
活発な子も、おとなしい子も、表情には安らぎが表れている。孤児院での生活など、とても安心できるものではないのに。
「みんな元気だな」
気に寄りかかって腕を組み、若い医師は呟いた。子供の喧騒よりさらに小さい、ほとんど独り言のようだったが、隣に立つ男はそれを的確に拾い取っていた。
「俺は最初に『前向きに生きろ』って教えてんだ。それがここのモットーだからな。ま、学んで覚えるような事でもないが」
バンダナを頭に巻いた男が、小さく息をついた。先ほどまで子供の玩具を修理していたが、その作業も終了したらしい。左手でいくらか弄んだあと、その手を小さく上げた。すると、少年が一人走り寄って来て、その玩具を受け取った。丁寧にお礼を言うのも忘れない。
「年の割に礼儀正しいな。なんというか、その……驚いてる」
「遠回しに失礼なことを言っていると気付け。まあ、無理もないかもしれないが」
両手が暇になり、腕を組み直すバンダナの男。なにかを愉しむように笑っている姿は、若い医師のことを面白がっているかのようだ。いい気分にはならないが、若い医師も大分気持ちが落ち着いてきていたので、ほとんど気にはしなかった。
一瞬だけ、走り回る子供たちに二人の視線が集まる。
「安心しただろ?」
心底嬉しそうに、バンダナの男が若い医師の顔を覗き込んだ。
若い医師の懸念を、全て承知しているかのように。
なので若い医師も、一切取り繕うことなく、
「……ああ、安心した」
そう言い、子供たちの遊ぶ一角へと顔を向けた。
「この子を連れて行ってほしいんです」
女性は、そう言った。
「……え?」
思わず訊き返してしまう。それほどまで、その言葉は信じることができなかった。
頭に手を添えられた少女は、首がゆっくりと上下している。早朝という事もあり、ほとんど夢の中にいるようだ。女性に無理やり連れてこられたのかもしれない。
しばらく考えてから、若い医師は眉をひそめながら女性に尋ねた。
「すみません、おっしゃってる意味がよくわからないんですけど」
「文字通りですよ? この子を連れていってください、それだけです」
あっさりと断言されてしまい、若い医師は言葉を失った。眠そうにしている少女に、今しがたのやり取りは聞こえていないようだ。それを確認してから、落ち着くために息を吐き出す。
「……あの、それは」
「おっしゃらないでください。何が訊きたいのか、分かってますから」
開こうとした口を止められる。
「この子は特別なんです。私……『私たち』とは違うんです。ですから、これ以上ここにいるべきではないんです。ほら、あの時――」
「んむ……」
話している間に、いよいよ少女の意識が薄らいできたようだ。気持ちよさそうに緩い声を洩らし、女性に体重を預けてしまった。それに気付いた女性は、少女の頭を軽く叩いて目を覚まさせてやる。
「ほら、起きなさい。眠いかもしれないけど、頑張って」
「……ん、うん……」
辛そうに目をこする少女を、もの悲しげに見つめる女性。二度目の死に対するものとは別の感情が、そこには確かに存在していた。その感情が、若い医師には胸を締め付ける冷たいもののように感じられていた。
「すみません、話が見えないんですけど」
おそるおそる訊ねかけると、女性が小さくため息をつくのが見えた。
「覚えていらっしゃいませんか? あの時、その子だけが『薬』を飲まなかった事を」
「……はい」
「つまり、その子はこの集落で唯一、あの病気にかかっていないんです。現状を踏まえれば、この集落の最後の一人ってことになるのかもしれませんね」
自虐的に笑う女性に、若い医師は言葉を返すことができなかった。
気づいていなかったと言えば嘘になる。
当時から疑問には感じていたし、その可能性も考えなかったわけではなかった。ただ、忙しいことを理由に深い考察を後回しにしていたのだ。
問題があるわけではない。ただ、もう少し心の準備をする時間ができたかもしれない。
「この集落では、もうこの子は生きていけません。どうか、この子に新しい場所を与えてください。それが『私たち』の最後の願いです」
若い医師に対し、深く頭を下げる女性。奇妙な雰囲気に気付いたのか、少女は目を覚まして母親の姿を凝視している。その行為の理由は把握できなくても、不穏な空気は感じ取れただろう。
女性は、いつまでも頭を上げようとしなかった。
一心に娘の平穏を願い続けている。
若い医師に、それを断る勇気はなかった。
「……分かり、ました」
同意を得られたことを認めると、女性は顔をあげて、もう一度ニッコリと微笑んだ。穏やかだが、それは心から喜んでいるのだとよくわかる笑顔だった。
「……ほら、聞いてた?」
女性が娘の前で屈みこみ、視線の高さを合わせる。若い医師に少女の顔は僅かしか覗いて見えなかったが、怖がっているような顔をしているのははっきりと分かった。
「このお兄さんと一緒に行きなさい。お医者さんのお手伝いが終わったら、お母さんもすぐに行くからね」
「……うん」
「いい子ね」
未だ怯えたような少女を撫で、優しく抱きしめる。少女に見られない形になって初めて、女性は貼り付けていた表情を崩した。
「……おかーさん?」
「……」
腕の中にいる少女が母親の様子を見ようとするが、しっかりと抱擁されているためにうまく動けないようだ。女性がわざとそうしているのだと、離れて見守る若い医師にはよくわかった。
「ごめんね……」
小さな声で、そう呟かれる。
「ごめんね……こんなお母さんで……ごめんね……」
何度も繰り返される言葉が、若い医師の頭でいつまでも木霊していた。
走り回っている男の子に交じって、女性から託された少女が笑いながら駆け抜けていく。人見知りの激しい性格だと思っていた若い医師にとって、その変化は目を見張るものがあった。元気そうに見えるので、同時に安心もできたのだが。
「ここに預けたのは正解だったよ」
「……自分で育てるつもりだったのか?」
「最悪の場合、ね」
転がってきたサッカーボールを、若い医師が足で止める。手を振っている少年の姿を認めると、そちらに向けてパスを返した。
「そりゃ無茶だ。最近はどこの医療施設だって忙しいはずだぜ。特にお前のところはデカイからな、患者数もハンパじゃないはずだぞ。そんな状況で子供一人を育てられるわけないだろ」
「だから安心したんだよ。ここだったら任せられるってな」
すっかり打ち解けた様子の少女を見て、若い医師は溜息をつく。それを見て、バンダナの男は眉をひそめた。
「どうした?」
「ん、いや……」
若い医師は一瞬だけ取り繕おうとしたが、目の前の男の性格を考えてすぐに諦めた。代わりに、いくらか自嘲の混じった笑みをうかげて返答をする。
「これでよかったのか、まだうまく納得できなくてな」
「なんだ、またそれか」
呆れたようなバンダナの男に、「ああ、またそれだ」と苦笑しながら返した。
「医者としての俺、人間としての俺。あの集落の人たちの事を考えると、自分の判断に自信が持てなくなってくるんだよ」
「ほお」
「彼らは確かに生きていたんだ。それがいかに忌むべき力を借りていたとしてもね。その彼らに、まだまだ生きていくことだって可能だった彼らに、俺は死を与えたんだ」
視線が子供たちから外れ、足元へと落ちる。涙の出るような悲しみなどはなく、ただ全身の力が抜けてしまったような感覚に苛まれていた。顔を上げようとする気持ちが湧いてこないのだ。
「あの『薬』を許すべきでないってのも、結局は俺個人の判断だ。ひょっとしたら、なんて一度考えたら、もうずっとそのままだ。生の可能性を断ち切っておいて、俺は医者であり続けるなんて……」
「そんなの、誰だってわからんさ」
自らを責め立てる若い医師の言葉を、快活なバンダナの言葉が遮った。
「お前がその老医師の遺志を継いで『薬』を作った方がよかったのかもしれないし、現代医療で言う安楽死を持ちだしてもよかったかもしれないし、自分も最後までとどまって彼らに付き添ってもよかったかもしれない。どれも間違いとか正解とか、やすやすと決められるものじゃないさ。だがな」
言葉をいったん区切り、バンダナの男は大きく息を吸った。
「一つだけ、断言できる事がある」
「……?」
首をかしげる若い医師。その反応が予想通りだったのか、バンダナの男は満足したように頷いた。
「お前は、あの子を救った」
「……」
二人の視線が奥に向けられる。だが、数多くいる子供たちの中に紛れた少女の姿はどちらも見つけられなかった。
「他の事がどうかは知らん。両親のいない自分の境遇に、あの子が辛い思いをすることもあるだろう。けどな、だからと言ってその集落に置き去りにしていい理由なんかない」
「あ、ああ……」
「元気出せよ。お前は確かに、あの子の命を救ったんだ。これは大きな差だ。誇っていい」
「……そうだな」
言葉に押されるようにして、若い医師もようやく顔を上げた。顔を向けてじっくり探してみると、少女の姿は奥の木の裏の方に見つけることができた。
「それ以外については、慌てて結論出さなくてもいいさ。不謹慎かもしれないが、終わった話なんだ。俺らの時みたいに、時間が限られてるわけじゃない」
「ああ……確かに、その点は気が楽だ」
「自分だけで気負いすぎるなよ。俺でよけりゃ、相談にのってやる」
子供たちを気に掛けながらも断言するバンダナの男。若い医師は、その彼の横顔の中にかつての老医師の姿を見た気がした。
「あ……一応、訊いておきたいんだが……」
その影を見た途端、思わず口が動いていた。
「ん?」
「あー……アンタなら」
一瞬口ごもるが、意を決してはっきりとそれを述べた。
「アンタなら、死んだ人を蘇らせるってのはアリだと思うか?」
若い医師は、この男が普通の人間でない事を知っている。死者の蘇生と同種のモノに身を委ねた人間の意見はどうなのか、若い医師はどうしても聞いておきたかった。
「俺の意見か? 参考になるとは思えんが」
「聞かせてくれ。俺も散々悩んだ疑問なんだ」
かつて老医師から告げられたその話に、最初は正面から向き合う勇気が持てなかった。どうしても向き合わなければならなくなったとき、目の前に現れた『都合のいい解決策』に頼りたい気持ちを抑えられなかった。
誰でもそう考えただろうか。若い医師は、それが何よりも気になっていた。
「そうだな……俺は……」
先刻まで子供のように笑っていた顔が、今は真剣に考えを巡らせて頭をひねっている。この質問に真面目に答えてくれるつもりのようだ。それだけでも、若い医師は十分心が救われる気分になった。
それから、かなりの間が空いた。
「……俺は、あってもいいと思う。俺だったら、この孤児院を残して死んだ時はやっぱり生き返りたいって思うからな」
「……アンタはそれだけなんだな」
予想できた答えだけに、大袈裟に苦笑をして見せる。彼が不死になった理由も同じものだったと、若い医師は記憶していたのだ。
「念のため言っとくが、これが正解ってわけじゃないからな。最終的には許されないって結論になるかもしれんし、そうだとしても場合によってはすすんで取り入れるつもりだしな」
「ホントにそればっかりだな、尊敬するよ」
「今のは挑発と受け取っていいよな?」
「いやいや、褒めてるからさ」
聞きたいことは聞けた。それを暗示するかのように、二人の間には以前のような穏やかな空気が流れていた。
「色々とありがとう。だいぶ楽になったよ」
「よせよ、背中がむずかゆい」
お互いに軽く手を挙げ、別れの挨拶を済ませる。それを見計らっていたかのように、あちこちで遊んでいた子供たちがバンダナのもとへと集まってきた。
「頑張ってな」
「お前こそな」
バンダナの言葉に、若い医師は決意を固める。これから病院に戻り、再びあの病気の治療に追われる毎日となる。本当ならばここによらず、少しでも早く現場に戻らなければならなかったのだ。
事態は何も変わっていない。老医師がいなくなった分、むしろこれまで以上に仕事は増えるだろう。
これから訪れる苦難の数々を想像し、若い医師の心が沈みかける。だがそれも一瞬で、すぐさま力を込めた一歩を踏み出した。
後ろを向いている暇はない。なんとしても、この病気と闘って勝たなければならない。
医者として、多くの命を救うために。
もう二度と、同じ悲劇を起こさないために。
彼の背中で、子供たちの声が高らかに響き渡っていた。
これにて終了となります。更新が遅れたため、予想以上に時間がかかってしまい申し訳ありませんでした。
ここまで付き合って下さった方々、拙作に目を通して頂き、ありがとうございます。