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夢の終わり

 透明なプラスチック容器の中には、淡い青色の粉末が詰められている。すぐ隣の容器にはわずかに残った『薬』があり、その深紅と対照的な青色は蠱惑的な魅力を伴って脳裏に焼きつけられる。

「…………」

「…………」

 それを見下ろす二人の男。どちらも口を噤み、何も話そうとしない。

 粉末を見つめる二対の瞳には、喜びと切なさの入り混じった複雑な感情が表れている。人を引き込む輝きにあふれる粉末だが、心を動かされている様子もない。

 長い沈黙が続く。部屋の空気が質量を増し、二人の身体にずっしりとのしかかってきているかのようだ。沈みこんだ室内で、粉末の異質な色合いが静寂の中を漂っている。

 しかし、やがてそれに耐えかねるようにして、老医師のほうが口を開いた。

「お疲れさん」

「……どうも」

 その短いやりとりで、二人の間に僅かな微笑みが生まれた。だが、疲労を滲ませる二人の顔に、達成感と呼べるようなものは浮かんでいない。

「これで全てが終わる……いや、終わらせることができるんだな」

「……」

 もういちど目の前の粉末――完成した『薬』――を見つめ、老医師がふうとため息をついた。 


 協力を申し出てからどれだけの日数が経過したのか、若い医師は正確には把握していない。長期の休暇を病院に申請した一カ月目まではかろうじて覚えているのだが、『薬』の研究で忙しくなってきたころから日付を気にしなくなっていた。それよりも早急に『薬』を完成させなければ、という焦燥感が思考回路を支配していたのだ。

 完成を目の当たりにした今この瞬間まで、そんなことまで分からなくなっていた。何がそこまで自分を突き動かしたのか、若い医師は考えないようにしてもう一度『薬』に目を向けた。

 まるであつらえたかのように、かつて老医師の作っていた『薬』と対照的な色をしている。外見を気にして精製した記憶はないので、自然にこうなってしまうようになっていたのだろう。もっとも、細部は老医師の指示通りにしていただけなので、彼がこうなるようにした可能性もゼロではないが。

「長かったな……最後までよく付き合ってくれたよな、お前」

「見過ごせませんからね。あなたの行動は周りの人間をハラハラさせますから」

「ひでぇ言いようだなオイ」

 困ったように老医師が笑った。それほど怒ったように見えないことが、若い医師の胸に重くのしかかってくる。

「ま、これでお前も晴れて自由の身だ。ここにとどまる理由ももうないだろ?」

「まあ、そうですが……」

「今からここをでれば、昼過ぎには隣町に着く。送ってやれねぇのは勘弁してほしいが」

 それを聞いて、若い医師は返事に窮した。

 ここに来たのは、老医師に呼ばれたから。そして彼は自分に『薬』の精製を継がせようとしていた。それは断ったが、結果的に別種の『薬』の精製を手伝うことになった。

 その『薬』が完成したのだから、もうとどまる理由がないというのはその通りだ。世間では未だにあの病気で大勢の人間が苦しんでいるのだから、一刻も早く戻って治療に専念しなければならない。

 でも、だからといって、まるで使い終わったページを破り取るようにこの集落を後にしていいのだろうか。まるで紙屑を捨てるようにここを離れて後悔はしないのだろうか。

 しないわけがない。しかし、だからといってこれ以上何かができるわけではない。

 彼らが苦しまずに済む『薬』を完成させた。自分の責任は間違いなく果たした。誰も若い医師に対して文句を言ったりはしないだろう。長期の休暇になってしまった件については怒られるかもしれないが。

「あ……」

 せめて、何も心残りを作りたくない。例え偽善でも、この集落の最期を気にかけておきたい。

「ん?」

「あの……一つ、訊きたいんですけど」

 言いだしてから、若い医師は言葉に詰まってしまう。

 老医師に尋ねたいのは、『薬』を作りだす直前に老医師が行った謝罪会での住人の反応だ。

 老医師は、彼らに対し自らの死期が近い事を話すと言っていた。同時にあの『薬』も作らないとも告げるつもりだったらしい。

 突然そんな事を聞かされれば、住人の間に混乱が広がるのは当然だろう。少女を連れた女性は素直に受け入れてくれたが、誰もがそういう態度でいるわけがない。困惑し、激昂する人間も少なからずいるだろう。

 そういった感情の矢面に立たされるのが老医師であるというのも、あり得ない話ではないはずだ。

 老医師がどんな気持ちでそれを受け止めたのか考えれば、この質問はすべきではなかったかもしれない。

「集落の人らがどんな詰め寄り方をしてきたか気になるのか?」

「っ……そ、そんなニュアンスじゃないんですけど……!」

 全てを見透かしたような老医師の発言に、若い医師は見を強張らせる。しかも今の言いようは、間違いなく想像通りの目に遭ったことを示している。

 だが老医師は、それほど気にした様子も見せずに質問に答え始めた。

「……ま、全体的には5:3:2ってトコだったな。半分は結構すんなり受け入れてくれたよ。『どうせ一度終わった命だ、そういうのも仕方がないだろう』なんて言われるのはやっぱり堪えたが」

「……そうですね」

 言った側は老医師に気を遣ったのかもしれないが、罵声や皮肉よりも遥かに突き刺さる言葉だろう。

「で、二割の人が怒りだしてな。なんで生き返らせたとか、また死ぬのは御免だとか、いろいろ言われて殴られた」

 わざとらしく笑いながら、老医師が自身の頬をさする。聞いている若い医師からすれば、とても笑っていはいられないような話だ。

「それで、あとの三割は?」

「ああ……これが一番辛かったな。怒るわけじゃないんだが、泣いて懇願するんだよ。『なんとか薬を作ってください』とかいいながら、俺に縋りついてくるんだ」

「……」

「俺は頭を下げるしかできなかったなぁ。何て言われようと、もうどうしようもないわけだからな」

 訊いてしまった事を、若い医師は心から悔んだ。

 老医師がどんな気持ちでそれに耐えたのか、とても想像の及ぶものではない。何より、それを彼自身に語らせるのは、あまりに酷な行為だ。

「誰だって死ぬのは怖いだろうし、俺は『もう一回死ぬ必要』を与えたわけだからな。覚悟はできてたさ」

「……」

「さて、話は以上だ。後の事は気にすんな。みんないい人ばっかりなんだ、きっと分かってくれただろうさ。ま、いい人たちだけに会ったらもっと辛くなるだろうし、ホントに早く帰った方がいいかもしれないな」

「……そう、ですね」

 彼の言うことに間違いはないだろう。若い医師は、それを全身で感じることができた。


「お世話になりました」

「お互いにな」

 頭を下げる若い医師に、軽く手を挙げる老医師。まるで毎日会っているかのような挨拶だが、今後二人が再び会うことはない。

 若い医師は、驚くほど乾いた自分の心に驚いていた。

 この老医師とは、そこそこ長い付き合いだった。病院で共に昼食をとった事もあり、単なる先輩後輩ではない、友人関係のようなものでいたつもりだった。

 だというのに、最後の別れになっても涙が出てくる気配はない。悲しいとさえ、ほとんど感じられない。

 この集落に来てから変わってしまったのだろうか、と若い医師は悲しくなった。

「……では」

「ああ」

 荷物を背負いこみ、若い医師は診療所を後にした。




 朝日が山の隙間から差し込み、木造の家屋を照らしつけている。春が近いのか、そこはかとなく目に入る新緑の割合が多いように感じられる。常緑の緑でさえ、どこか明るく光っているかのようだ。

「ここからだとよく見えるな」

 道の途中で立ち止まった若い医師は、振り返って集落を見返していた。それから、そこがここに来た日に女性と出会った場所だという事も思い出された。

 旅の終わりのような感傷は全くなかった。そんな綺麗事としておけるような易しい出来事ではなかった。

 結果として、心の中に不安と後悔ばかりが残る結果になってしまったのだ。例え、全てを丸く収める解決法が最初からなかったとしても。かなり完全に近い解決であったことに間違いはないが、それでも納得のしきれない部分があった。

「……行こう」

 早めにここを離れようと、その光景に背中を向ける。

 だが、道の先に立っている二つの影を見つけると、若い医師は再びその足を止めた。

「あ……」

「おはようございます」

 かつてここで出会ったときと同じように、そこに立つ女性はにっこりと笑っていた。


 女性はゆっくりと若い医師に近付いてきて、少し離れたあたりで止まった。笑顔は相変わらずだが、やはりどこか気になる部分があるのだろう。すぐ後ろの少女は、眠そうに目をこすりながら母親の跡をついてきている。

「あの……」

「『薬』の完成、おめでとうございます」

 にこやかに言うその言葉が、若い医師には何より重い。

「完成したから帰ろうとしているのでしょう? こんな朝早くに、隠れるように」

「えと……すみません」

「あ、怒ってるわけじゃないんですけど」

 女性は慌てて否定するが、若い医師には怒っているようにしか聞こえなかった。罪悪感があるからこそ、そう聞こえているのかもしれないが。

「じゃあまさか、見送りに来てくれたんですか?」

「見送り……まあ、そんなところです」

「こんな早くにですか? お子さんも連れて? しかも今日完成するなんてよく――」

 次々湧き上がる奇妙な点を訊ねようとしたところ、女性に手で制された。

「詮索はナシです」

「は、はあ」

 そう言われてしまうと、若い医師としてもそれ以上追及することはできない。まさか毎朝この道で張っていたのかとも考えたが、大した用事でもなければそんな事をする理由などないように思えた。

「えっと、お見送りありがとうございます。僕はこれで失礼しますね」

「あの」

 歩き出そうとする若い医師に、やはり女性の声がかかる。

「最後に一つだけ……お願いしてもいいですか?」

「……お願い?」

 若い医師は首をかしげた。同時に、一抹の不安を感じながら。

 それに対し、女性は微笑みを自虐的なものに変えながら、眠そうにしている少女の頭に手を置いた。

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