決別
<今日はまず、皆さんに謝らなければならないことがあります>
ほとんど見分けのつかない民家に紛れて、小さな公民館が建っていた。小さなホールがあるくらいの古い建築物だが、この集落の人口全員がなんとか入れるくらいの収容量はあるらしい。昔はピアノのコンサートが開かれたこともあるのだそうだ。
若い医師は、少し離れた場所から公民館を見つめていた。言われてはじめてその存在を知ったのだが、その瞳には憂いが込められている。
今、この中には集落の全ての人間が集まっている。誰一人、例外なく。
何かの演奏会があるわけではない。もっとも、演奏会だとしたら本当に全員が集まったりはしなかっただろうが。
<ご存じのとおり、私はこれまで皆さんに『薬』を渡してきました>
ホールでは、老医師が住民たちに対して演説を行っているはずだ。若い医師も同席してよかったのだが、とてもそんな勇気は持てなかった。
果たしてその演説で、住民たちがどう思うのか。それによってどんなことが起こるか、想像するのも恐ろしかった。
裏切られた、と感じるだろうか。
それとも、やはり彼の事を信じ続けるのだろうか。
結局は、過半数をどちらが占めるか次第だろう。全員が始めから同じ意見であるとは考えにくい。だとしたら、より少数の意見が呑み込まれることになる。いずれにせよ、老医師の胸中に良いものは残らないだろう。
<それにより、皆さんはあの病気に打ち勝つことができたのです。終わったはずの人生を、再び歩み出すことができたのです>
当たり前だが、周囲を見渡しても誰の姿もない。『薬』に関する話という触れ込みだったので、聞きに行かないという選択肢はなかったのだろう。
だが、彼らの期待していた内容と、実際に話される内容は、大きな開きがある。
老医師は、もうじき『薬』が作れなくなる事を――自分の命が長くないという事を、話すつもりでいた。
老医師が決心したきっかけはやはり自分なのだろうと、若い医師は考える。それ以外に理由が見当たらない。
後悔はしていないが、良い事だったのか悪い事だったのか、その判断は未だに付けられずにいる。秤に乗せられた側でもないのに、その判断を勝手につけられるはずがないのだ。
<しかし、……落ち着いて、聞いてください>
病気のカミングアウトをどう捉えるのか、人によって異なるだろう。そして、『薬』がなくなるという事実に憤慨する人間も少なからずいるのは間違いない。
それがそのまま、自分の『死』を意味するから。
それを理解したうえで、老医師はこの演説を開いた。自分の死ぬ直前まで黙っていれば、少なくとも直接文句を言われることはなかったのに。彼はあえて、自らを非難の的としてそこに立たせた。
<私は、もう……『薬』を作ることが、できません>
「こんなところにいましたね」
後ろから声をかけられ、必要以上にどきっとする。他に人がいないと思い込んでいただけに、完全な不意打ちだった。
「お話、聞きに行かないんですか?」
立っていたのは、何度もお世話になったあの女性だった。てっきり演説を聞いていると思っていたのだが、こんなところで何をしているのだろう。
「いや、それは僕のセリフですけど」
「主人が聞いているので大丈夫です。あ、カナもいますよ」
名前を呼ばれ、少女がひょっこり顔を出した。女性の後ろから顔を出しただけだったが、先日の『薬』を配った日に面倒を見たためか、それほど怯えている様子はない。驚く若い医師に、してやったりと言いたげな笑顔さえ見せつけてきた。
「あの、直接聞いた方がいいと僕は……ああ」
言いかけて若い医師は、女性が何を言わんとしているのかを悟った。
彼女はきっと、既に話を聞いていたのだろう。老医師に直接聞いたか、どこかの会話を立ち聞きしたかは分からないが。
若い医師の表情の変化に気付き、女性が悪戯っぽく笑った。あまりに明るいその仕草に、若い医師は逆にどうしていいか分からなくなってしまう。
<私もまた、あなたたちと同じ病気にかかっています。しかも、私の場合は『薬』をもってしても蘇ることはできません>
老医師は、自分がもう永くない事を若い医師に告げた。
彼らと同じ病気にかかり、既に末期でもはや手の施しようがない。いつ死んでもおかしくないような肉体となっているらしい。
容体を診た際にだいたい予想はついていたのだが、改めて伝えられると少なからずショックだった。
「……意地悪な質問ですが、『薬』を使おうとは思わないんですか?」
当然の疑問を口にする。
同じ病気で亡くなった人々は、『薬』で蘇らせることができた。ならば自分自身も同じ手段が通じるのではないかという、安直な考えだった。
決して『薬』を容認するわけではないが、その行動はあまりに不可解だった。これまで平然と『薬』を投与してきた老医師なら、当然自分自身も『薬』で延命して集落を支え続けようとするだろう。やめるよう説得してきたのは若い医師自身だが、やはり腑に落ちない部分がある。
「思わないな。……いや、そもそも不可能なんだが」
老医師がそう答えた時、若い医師は胸が詰まるような感覚に襲われた。
「この『薬』の原料には、人間の血液が必要だ。今まで作って来た『薬』には、俺の血を使ってきた」
言いながら老医師は、白衣の袖をめくり上げた。肘の手前まで腕が露わになる。
「これが、その証拠だ」
「うわ……!」
思わず声が出た。
そこには、壮絶としか言いようのない深い刺し傷の跡があった。何度も同じ場所を繰り返し気づ付けたのか、小さくともくっきりとあざができている。ろくな後処置も施さなかったようで、その傷が一生残るものであることは容易に理解することができた。
「この『薬』は……自分の血を原料にした人間には効果が出ない」
試した事があるのか、とは怖くて訊けなかった。おそらくはあるのだろうが、確定はさせたくなかった。
「そして、『薬』の影響を受けた人間の血でも効果が出ない。つまり、俺の場合に限りこの『薬』は意味がないってことだ」
話しながら老医師は、とても愉しそうに笑う。何が面白いのか、その笑いはいつまでも彼の顔に張り付いている。
不気味ではなかった。むしろ、どこか清々しい印象さえ受ける。これが『壊れた』ということなのかもしれない、と若い医師は思った。
「じゃあ、どのみちこの集落は長くない……ということですか」
「お前が引き継いでくれりゃ、もっと長かったんだけどな」
なおも笑う老医師に、若い医師は眉をひそめて視線をそらした。終わった話とはいえ、聞いていて気持ちのいいものではない。
「……そこまで分かっているなら、僕に何を頼もうって言うんですか?」
苛立ちを忘れるかのように話題を変える。老医師は笑いつつも、その変更をすんなり受け入れてくれた。
「簡単なことだ。薬をつくってほしい。ああ、もちろん断られた『薬』の事じゃないぞ」
「……」
淡々と告げられた言葉を、脳内でゆっくりと咀嚼する。
以前と同じ、『薬』を作れという懇願。文章はほとんど変わらないが、そこに込められた意味には大きな差があるだろう。
「ある意味、お前が最も望んでいて……同時に、最も望んでいなかった効能の薬だ」
含みをこめた言い方には反応せず、そのまま具体的な説明を待つ。
口を紡ぐ若い医師に、老医師は呆れたように一度溜息をついた。若い医師としては、こんな時までふざけることはないだろうと思う。同時に、どこまでも彼らしいと安心もできてしまうので、口に出して文句は言わない。
「つまり……俺の作った『薬』の連鎖を理想的な形で断ち切れる薬。そして同時に、お前が人の踏みこむべきでない領域と考えている薬ってことだよ」
理想的な形で断ち切る。
人の踏みこむべきでない領域。
それがどんな代物か判断するのに、これほど的確な言葉もないだろう。若い医師の頭には、その内容がやすやすと浮かんできた。
「ま、有り体に言うと……人を安楽死させる薬、ってところか」
「あの人の作った『薬』は、効果が切れる際に死に至るまでの苦痛を伴います。せめて二度目の苦しみからは助けてあげたい……そう考えて、僕にあんな相談を持ちかけたんでしょう」
遠い目をして語る若い医師。女性も少女も、口を挟もうとはしなかった。
言いたいことは山ほどあった。効能が違うだけで、『薬』と薬の捉え方にほとんど差はなかったのだ。通常であれば、やはり若い医師は薬の精製も断っていた。
それを受け入れてしまったのは――老医師が長くないという事実と、彼の真っ直ぐな懇願があったからだろう。
「彼はずるいですよ。ここぞという時に、僕が一番断りにくい頼み方をしてくる」
――人としての視点なら、確かに踏み込みたくないかもしれない。しかし、医者としての視点に立った時、この集落の人々が苦しみながら死んで行くのを黙って見過ごせるのか?
お前は、人々を病の苦しみから救いたいから医者になったんじゃないのか?
自分でけじめをつけられないのは悪いと思ってる。けど、もう永くない俺の最後の我儘だと思って、何も言わずに引き受けてくれないだろうか。
言いたいことは山ほどあった。しかし、彼もまた、今は逃げたくて仕方がないであろう場面に一人で立っている。不満をぶつける気もうせてしまうというものだ。
彼ももう長くない。だからこそ、集落の人間を集めて自らの罪の清算を試みたのだろう。そんな彼に、これ以上の反省は求めようとも思わない。
「あなたは……薬を作るんですか?」
不安そうな女性に、若い医師は黙ったまま微笑みかける。ひどく歪んで、おおよそ笑っているように見えない笑顔になった。
「すぐにできると思います。基本的な理屈は蘇らせる『薬』と一緒みたいですし、あの人も手伝ってくれるらしいので」
とはいえ、薬学にそこまで精通しているわけではない。医師になる上での基礎知識は持っているが、そんな前人未到の薬を作れるかどうかと問われれば、是とは言いにくかった。
女性に対して虚勢を張ってしまったのは、医師としてのプライドのせいだろうか。
「僕が先に病気で倒れるかもしれませんけど……その時は、僕も皆さんと一緒に死にます」
励ましにもならない、自分も運命共同体であるという宣言。女性はただ俯き、肯定も否定もしなかった。
次に『薬』が切れるまで、およそ三カ月。それまでに完成させるというのが、老医師の願いだ。
「……頑張って、くださいね」
女性が小さく呟いた言葉に、若い医師は目を丸くして女性を見た。
「……本気ですか? 僕は今、『あなたたちを死なせる薬を作ります』って言ったんですよ?」
言いながら若い医師は、自分がひどく意地の悪い事を訊いていると自覚した。この集落にきてから、性格が悪くなっただろうかと不安になる。
それでも女性は気を悪くした素振りは見せず、明るい声で返答した。
「……それが私たちを救うことになるのなら、私は構いません。それに――」
言葉をいったん区切り、手をつないでいる自分の子供に視線を向ける。
「私には、この子がいますから」
女性が頭をなでてやると、少女は気持ちよさそうに目を細めた。幸せそうな母子の姿に、若い医師の心が揺さぶられる。
このやりとりも、あと数えるほどしか行われないのだ。
「きっと、薬を完成させてくださいね。私たちも応援しています」
「……がんばって、ください」
女性につられて少女も頭を下げた。
彼女がどこまで理解しているのか、挙動からはくみ取れない。自分たちを死なせようとしている若い医師のことを、本当に応援しているのだろうか。
何事もなかったかのように去っていく二人の後ろ姿を、若い医師は黙って見送ることしかできなかった。
<私の我儘で皆さんの生死を捻じ曲げてしまったこと……心からお詫び申し上げます。本当に、申し訳ありませんでした>