独白(前)
急な斜面に木々が密集して生えていて、歩きにくいことこの上ない。もとより道のない場所を突き進んでいるので、仕方ないと言えば仕方ないのだが。
素人が訪れればまず間違いなく遭難するか、そもそも足を踏み込みそうにないその山中を、老医師は迷うことなく突き進んでいく。ついてきている若い医師の事を気にする様子もなく、ヘタをすれば見失ってしまいそうだ。
雪が積もっていないだけましだろうか、などと思うにはあまりに厳しい環境。心的状況も合わせて、若い医師の足取りはひどく重くなっていた。
「着いたぞ」
老医師が足を止めた。つられて足を止め、若い医師はそこでようやく足元が平地になっていることに気付いた。
木の数が減り、狭かった視界が急に開けた。足元も踏み固められたような土に変わっていて、そこにしばしば人間がやってきていることを示唆している。露骨に木の本数が減っているのは、誰かがわざわざ切り開いたのだろう。
「登山お疲れ。ま、ここが頂上ってわけでもないんだけど」
疲れて肩で息をしている若い医師を老医師がポンポンと叩く。本当にねぎらっているのか怪しい声色だが、なにか反論する元気もなかった。
そのまま手首をつかまれ、平地の奥へと誘導される。だが決して乱暴ではなく、若い医師の体力に合わせて優しくリードしてくれている。ぶっきらぼうに感じられるが、それがこの老医師の人柄でもある。その点は、失踪する以前と変わっていないのだ。
若い医師は、目の前の人間が分からなくなっていた。
竹を割ったような性格で、どうしてか口が悪い。自分の興味に正直で、たまに哲学じみた話を聞かせてくることもあった。
その代わり仕事への矜持は本物で、常に患者を第一に考える姿勢は、医者の仲間からの尊敬の眼差しを一身に集めていた。
現在の彼も、そのころと変わっていないように思える。『薬』を用いてこの集落の人々を蘇らせた事も、老医師にとっては彼らを思っての行動だったのだろう。だからと言って、それで納得ができるわけでもないが。
若い医師が未だに分からずにいるのは、老医師がこの集落だけを特別視している理由だ。
同じ病気の人間は、わざわざ探さなくとも病院に山とやってきている。そちらの治療だけでも人手が足りないくらいなのに、そちらを置き去りにしてまでこんな山奥にやってくる必要などあったのだろうか。
無理に休暇を取った自分のことは棚に上げ、若い医師は前を歩く老医師をじっと見つめた。彼は平地の反対側の、木が完全に姿を消している方向へ向かっているようだ。
そして、足場が再び急斜面になる直前で立ち止まった。
「ほら、ここからだとあの集落がよく見えるぞ」
「……ああ、本当だ」
老医師の指さす先は、山と山の間に苔のように点在する家と畑の姿だった。山の雄大さに比べればあまりに微小な存在で、下手をすれば全く気付かずにいたかもしれない。
もう少し大規模な畑や立派な家の一軒でもあれば、まだそこが一つの集落として確立していたかもしれない。質素な一戸建てとささやかな畑しかないその様は、今にも消えてしまいそうな淡い蜃気楼のように映った。
そして、そこに暮らす人々は誰もが一度『死んでいる』。その事実を知ってしまった今は、ただ寂しいだけではない恐ろしさが垣間見えるような気がした。
「小さな集落ですね」
失礼だと分かっていたが、そう言わずにはいられなかった。というより、他に言うことが思いつかなかった。
彼らに罪がないとしても、気味悪く映るのはどうしようもない。それら全てを当てつける意味でも、老医師にはその感情を隠すことなく曝け出したのだ。
老医師は特に嫌悪感を示すわけでもなく――ただ苦笑して、それに応えた。
「昔っからさ。それでも必要以上に過疎化はしてねえんだから、がんばってる方だと思うぞ?」
若い医師は見ず、ただ集落の方を懐かしむように眺める老医師。
その姿は、真剣にこの集落の事を考えていると無言で語っていた。
「……この集落には思い入れでもあるんですか?」
思わず出た質問。
その質問をされると分かっていたのか、老医師は間髪いれずに答えた。
「ここは、俺の生まれ故郷だからな」
「……」
やはり、若い医師の事は見ていなかった。
彼の心は、完全に集落へと向けられているようだ。かつてここで過ごした頃を思い出しているのかもしれない。
若い医師は何も言えなくなってしまった。自分だって生まれ育った土地には特別な感情を持っているし、その土地を訪れればいろいろな思い出が蘇ってくる。感慨にふけってしまうのは当然の事だろう。
同時に若い医師は、老医師がこの集落にこだわっていた理由を理解する。
「俺のお袋がさ……ここにずっと住んでるんだけど、例の病気になったんだって手紙が来たんだよ。俺の兄貴はここに残って畑仕事を継いだんだが、兄貴と一緒に発病したんだそうだ」
もういちど集落を見下ろす。
それほど広くないのだから、ここから老医師の実家というのも見えるのだろう。彼はそこを見ているのかもしれないし、手紙を読んだ頃の自分を振り返っているのかもしれない。
「すぐにでも駆けつけたかったけど、あの病院でも同じ病気の患者がたくさんいたし、動くことができなかった。今思えば、すぐにここ来たって何かできるわけじゃなかったんだけどな」
「それでも……何か行動せずにはいられなかった」
「ああ。病院にいる間に分かる限りの事を調べた。最初はあちこちの医療論文だったが、だんだん如何わしい類の物にも手を出すようになっていった」
自分でも『如何わしい』と分かっている。そんな迷信じみたものでも、何とか治療法を見つけようと躍起になっていたのだろう。
「万能薬『エリクサー』……あるいは『不老不死』みたいなものを探すようになっていったな」
不老不死という単語に、若い医師の身体が一瞬固まる。
「ま、手詰まりになるのも当然のことだったんだが……そんな中、お袋が亡くなったって知らせが来た。兄貴の方も重症で、いつまでの命か分からないとか書かれてた」
「……」
若い医師は、ひたすら口を噤んだ。
ここで何か発言できるような度胸はなかった。
「その時だったな――俺が明らかに『壊れた』のは」
『壊れた』。その表現が、若い医師にはしっくりこなかった。今の老医師は昔と変わって見えず、とても壊れたなどというイメージはそぐわない。
それでも、自分自身を見つめて『壊れた』部分があったのだろう。
「俺は資料から『薬』の事を知った。それも『不老不死』と似たような種類の物で、服用した人間は一定期間を『薬』の庇護下で生きながらえることができるようになるんだそうだ。それがたとえ生命活動を停止した者でも、『薬』はその人間を蘇らせて生命活動を再開させるらしい」
「……ぞっとする話ですね」
どうしても聞き流すことができず、そこで口を挟んだ。それに対しても老医師は大きな反応をせず、淡々と言葉だけを紡いでいく。
「今みたいな言い方をしたらそう聞こえるわな。『人間を蘇らせる秘薬』なんて銘打ってみろ、とんでもない奇跡としてあがめられること請け合いだ」
その奇跡を発見した当人は、そう語る間もさほど嬉しそうにした様子がない。そうした感動には興味がないのか。
「で、話を戻すが……俺は『薬』を完成させて、ここに返ってきた。そのころは兄貴も死んでて、この集落であと何人生き残ってるかって感じだったな」
ほとんど全員が感染していた様子だったので、その時点でほとんど全滅していたのだろう。生きていた人間もその病気にかかっていたというのは、容易に想像がつく。
ただ、その時の老医師がどんな気持ちで当時の光景を見ていたのか……それは考えるにたえない。
生まれ故郷の人々が、そして自分の兄と母が病に蝕まれ死んでいく。それを食い止める事こそ医者の仕事であるのは間違いないが、やはり人としての心は相当な苦痛に苛まれただろう。
そんな時、自分の手元に『薬』があれば――例え自然の摂理を捻じ曲げてでも、よく知った人々を蘇らせられる奇跡があれば――それに縋ろうと思うことに、何も不思議はない。
「そのあと……うん、まあ、そうなってな」
なんの説明にもならないその言葉が、何より説明している。
彼は実際に、『薬』を投与した。その結果が、今のあの状態なのだ。
「お前を呼んだのは、さ……いや、確かに『薬』の調合法を伝えておこうと思ったのもあるけど……あー、なんつーか」
言葉を濁らせる老医師。思うところはあちこちにあったはずだ。なのに、若い医師は何一つ反応することができなかった。
今はただ、相手の言葉を聴き続けるばかり。
「俺は、例え自分が壊れてでもここを守りたかった……そう知っておいてほしかった、のかもしれない」
「……」
老医師は、未だに眼下を凝視している。
その双眸には、果たして何が映っているのか。
数分だったのだろうが、数時間にも数十時間にも感じられた。
「悪かったな、無理に誘って。もう帰るかい?」
老医師が反転して若い医師に向き直る。その表情はいつも通りの、どこか憎みきれない朗らかな笑顔だ。
若い医師は悩んでいた。
このまま言われたとおりに帰っていいのだろうか? 彼の独白だけを聞き、一方的に終わらせていいのだろうか?
「……その前に、いいですか」
勇気を出し、そう言い放った。
「俺の話も、聞いてもらっていいですか? いえ、よくある御伽話の類なんですけどね……」