セシル 過去<5>
「お待ちしておりました。あなたが私の師となってくださる方ですか?」
10歳になったある日の夜、寝ようとしていたセシルは物置部屋の空間が歪んだのを見て、ベッドから半身を起こしてそっと声をかけた。
「へぇ、驚かないんだ」
人にすら見えない黒い物体が、ゆっくりと揺らいだ空間から声を発した。その異形の塊がだんだんと人型を取り、目元まで隠れるフード付きの漆黒のローブを羽織っている人間だというのが分かった。
「考えていたのです。『妖精の取替え子』について」
セシルはじっと黒い塊から目を逸らすことなく、言葉を紡いだ。
「確かに『妖精の取替え子』現象は、昔から延々と続いているようです。でも、誰も妖精を見たことがない。ならば、本当に妖精はいるのでしょうか? 現象があるから妖精はいる? それなら、現象があるから、人と人を入れ替える魔法がある、と考える方が自然ではないですか? そう考えたら、私のこの魔力はそれを行える力だと思いました。そして、未だに『妖精の取替え子』現象があるなら、その魔力のある人が常にいる、つまり師が存在するということです。それなら、きっといつか私の前に師が現れてくれると…」
無表情で淡々と話しながら、セシルの目からは静かに涙があふれだした。
ずっと虐げられていたセシル。『妖精の取替え子』と伯爵家の皆に蔑まれて。でも、本当に自分は取替え子なのか。どう考えても、セシルは自分が妖精には思えなかった。魔力は異質というが、通常の生活で他の人間と異なるところは見受けられない。御伽噺にあるような妖精ならば、もっと小さかったり、羽が生えたりしているのではないか? あるいは、息をするように悪戯をするのではないか? そんな姿でもない、悪戯もしようとは思わないセシルは、やはり自分は普通の人間でしかないという結論に達した。
ならば、この異質な魔力は公にできない何かの属性だったりするのではないだろうか。
そう考えたときに、『妖精の取替え子』現象を起こせる力…その力の危険性に気が付いた。
もし王や要人を敵対勢力の前に移動出来たら?
もし自分の持っている力が特殊な属性だとしても、それはきっと危険な属性で、誰彼構わずやり方を教えてはいけない属性なのだ。だから、妖精という概念を出して、この現象が新たな属性であるとわからせないようにしているのだ。
ならば、私は? とセシルは思った。もしこれが人を移動させることが出来る特殊で危険な属性だとして、それなら私は、使い方を教えてもいいと思ってもらえるだろうか?
それからのセシルは、今まで以上にその身を律した。誰かがこっそり自分を見ているかもしれない。人の移動ができるなら、こっそり屋根裏とかに来たりして自分を見るくらい、お手の物かもしれない。10歳になって魔力が安定したころ、自分に教えてもいいと師が来てくれるかは、きっとセシルがいい子かどうかで決まるのだ、と。
自分の状況を常に考えていたセシルは、教師が付くようになって多方向から思考を行うことを学んだ。また、初歩ではあるが属性についても説明を得るようになったセシルは、8歳の頃には上記の考えを持つに至った。それからは、ひたすらに待った。10歳の頃にはきっと師が来てくれる。時に暴力を振るわれ、折れそうなセシルの心がそれでも挫けなかったのは、ひたすらその思いだけであった。
逆に自分が妖精ではないのではないか、つまりは伯爵家の人間と本当に家族なのでは、と考えたときに、家族に対して情は潰えた。幼い子供に対して、暴行を加えることに躊躇ない家族…そんなものは家族ではない。罵詈雑言や暴力を受けても、反論はせず黙って時が過ぎるのを待った。自分が彼ら同様に暴力的な人間だとか、危険思想ありとか思われないように、ただ只管おとなしく師が来る日をただ待ちわびていた。
その、師が、今日ここにいる。
自分の考えが正しかったこと、本当に師が来てくれたこと、それが嬉しくて仕方がないのに、5歳の時から笑顔になることがなかったセシルは、泣いて許しを請うことすらかえって彼らの怒りを助長することを覚えたセシルは、その表情すら動かすことが出来ない。ただその瞳から、静かに涙が伝う。
そっと、男が静かにセシルの前に移動した。その手がゆっくりとセシルの頬に触れ、その涙を優しく拭う。
「今までよく頑張ったね、セシル」
男が近づいたことによって、ベッドに半身しか起こしていないセシルは、フードに隠れていた男の顔を見上げることが出来た。彫りの深いその顔は目つきも鋭く、どちらかというときつめな印象を受けたが、しかしその慈愛に満ちた瞳に、その優しく触れてくれた手のぬくもりに、セシルはこの人に一生ついていくと心に決めた。
自分に優しくしてくれた人など、5歳の誕生日以降初めてだったから。雛が目の前にあるものを親と刷り込まれるのと一緒かもしれない。それでもいい。私は、師が望むなら何でも、どんなことでもしよう。
10歳のセシルは、まだ名も知らない師に対して強く心に誓った。
誤字報告いただきました。ありがとうございます。修正いたしました。