絵本『婚約破棄』
「かあさま、ごほんよんでー」
「あらあら、アリスは本当に絵本が好きね」
四歳になる娘のアリスが、何度も読み込んでボロボロになった絵本を抱えながら、とてとてと歩み寄ってきた。
ふわりとカールした金髪は私に、そしてエメラルドの瞳は夫にそっくりだ。
「じゃあこれを読んだらねんねするのよ?」
「はーい」
「ふふ。よいしょ」
アリスを抱きかかえながら、二人でベッドに横になる。
箔押しで『婚約破棄』とタイトルが印字された絵本の表紙を、指先でそっと撫でる。
「かあさま、はやくはやくー」
「はいはい、今読みますよ」
表紙を捲ると、華やかな衣装に身を包んだ令嬢と、その令嬢に対して怒鳴っている王子様のイラストが現れた。
「――あるところに、アリシアという公爵令嬢がいました」
「アリシア、ただ今をもって、君との婚約を破棄する!」
「そ、そんな!?」
国中の貴族が集まる夜会の最中。
アリシアの婚約者であり、この国の第二王子でもあるグスタフが、高らかにそう宣言しました。
「何故ですかグスタフ様! 理由をご説明ください!」
「ねえねえかあさまー」
「ん? なあに?」
「なんでありしあはこんやくはきされちゃったのー? ふたりはあいしあっていたんじゃないのー?」
「うーん、それはねー」
何度読んでもアリスはここで同じ疑問を口にする。
純粋であるが故に、毎回新鮮な気持ちで物語に向き合えるのかもしれない。
そういえば私も子どもの頃は、同じ絵本を何度読んでもワクワクしたものだ。
「アリスにはまだわからないかもしれないけど、大人の恋愛というのは、愛しているかどうかだけでは割り切れないものなのよ」
「ふーん、そうなんだー」
「さあ、続きを読むわね」
「はーい」
「何故ですかグスタフ様! 理由をご説明ください!」
「フン、自分の胸に手を当てて聞いてみろと言いたいところだが、狡猾な君のことだ、しらばっくれるのは目に見えている。だから言ってやろう、僕の口から! ――君が陰でブリギッタに陰湿な嫌がらせをしているからだよ! この痴れ者めッ!」
「嗚呼、グスタフ様……」
「……!」
男爵令嬢のブリギッタが、悲愴感を滲ませながらグスタフにしなだれかかります。
「お待ちくださいグスタフ様! 私はブリギッタさんに、嫌がらせなどしておりません!」
「フン、嫌がらせをしている人間はみんなそう言うんだよこの痴れ者め! ブリギッタのこの怯えた表情こそが、何よりの動かぬ証拠だ!」
「グスタフ様、私、私……」
「ああ可哀想にブリギッタ! もう何も言わなくていい! この痴れ者の処罰は、全部僕に任せておきたまえ!」
「……はい」
「――!」
その時でした。
アリシアは確かに見たのです。
一瞬だけこちらに顔を向けたブリギッタの口角が、いやらしく吊り上がっているのを――。
「ねえねえかあさまー」
「ん? 今度はなあに?」
「これってぐすたふは、ぶりぎったの『はにーとらっぷ』にひっかかったってことだよねー」
「まあ、随分難しい言葉を知ってるのねアリスは」
私が教えたわけでもないのに、いつの間にか子どもというのはどこからか新しい言葉を覚えてくる。
まったく不思議なものだ。
「ええその通りよ。情けないことにグスタフは、ハニートラップに引っ掛かってしまったの」
「なんでこどものわたしにもわかるのに、おとなのおとこのひとがひっかかっちゃうのー?」
「うーん、何でかしらねえ」
時に子どものこうした素朴な疑問は、大人の心を深く抉る。
「まあ、大人の中にも、子どもは多いということかしらね」
「ふーん、そうなんだねー」
「さあ、次いくわね」
「はーい」
「信じてくださいグスタフ様! 私は神に誓って無実です!」
「フン、口では何とでも言える! いい加減その汚い口を閉じろこの痴れ者めッ!」
この国では権力が全て。
権力が上のグスタフの言うことこそが、この場での絶対的な正義なのです。
人々の蔑むような視線が、容赦なくアリシアに刺さります。
絶体絶命かと思われた、その時でした――。
「そこまでだ」
「「「――!!!」」」
優雅なオーラを纏いながら現れたのは、第一王子であり、王太子殿下でもあるヴィエリスです。
高身長の甘いマスクに宝石のような瞳。女性に対してのエスコートも完璧な上、趣味は絵本制作というギャップ萌え要素もあり。
全令嬢の憧れの的のヴィエリスが、何故この場に?
「わーい、う‶ぃえりすきたー」
「ふふふ、アリスは本当にヴィエリスが好きね」
毎回このヴィエリスが登場するシーンで、アリスは手を叩きながらキャッキャとはしゃぐ。
やはりこんなに幼くても既に女なのだなと、感心するばかりだ。
「さあ、いよいよクライマックスよアリス」
「うん。はやくつづきよんでかあさまー」
「はいはい」
「ど、どうしたというのですか兄上……。まさかこの痴れ者を庇うというのですか?」
「痴れ者はお前のほうだグスタフ」
「なっ!?」
「さっきから確たる証拠もなく一方的にアリシアのことだけを疑って。ブリギッタ嬢がデマを流しているという可能性には思い至らなかったのか?」
「――! ブリギッタが……?」
「ひ、酷い! あんまりですわヴィエリス様! 私は断じて、デマなど流しておりません!」
「ほう、これでもか?」
「「「――!!」」」
そこでヴィエリスが懐から取り出したのは、ブリギッタがデマを流した証拠をまとめた資料の束でした。
それを足元に投げ捨てられた途端、ブリギッタの顔がサアッと青ざめます。
「あ、あの……、これは、その……」
「どういうことだブリギッタッ!!? 君はこの僕を騙していたんだなッ!!? この痴れ者めッ!!」
「だから痴れ者はお前もだと、何度言えばわかるんだグスタフ」
「……え?」
「大して噂の真偽も確かめずブリギッタ嬢の発言を鵜吞みにし、そのうえ王家が決めた婚約を身勝手な理由で破棄するとは――許されざる大罪だ」
「そ、それは……!!」
今度はグスタフの顔がサアッと青ざめました。
ヴィエリスからの正論パンチに、ぐうの音も出ないのです。
「よってお前からは王位継承権を剝奪する」
「そんなッ!!? ど、どうかお慈悲を、兄上ッ!!」
「却下だ。罰としてお前とブリギッタ嬢には向こう二十年間、絵本制作会社で雑用係として無償で働いてもらう」
「に、二十年間無償でッッ!?!?」
「わ、私もですかッッ!?!?」
「一冊の絵本が完成するまでの苦労を、お前たちも身をもって知るがいい。――連れていけ」
「お、お待ちください兄上ッ! 兄上ええええええッ!!!!」
「いやああああああああッ!!!!」
断末魔のような叫びをあげながら、二人は連行されていきました。
「ざまぁきたー。いえーい」
「あらあら、アリスはざまぁも大好きなのね」
やはり悪いことした者が罰せられる快感は、大人も子どもも同じなのかもしれない。
「でもわたし、つぎのしーんがいちばんすきー。かあさまよんでよんでー」
「はいはい、母様も次のシーンが一番好きよ」
私は最後のページをそっと捲る。
そこにはアリシアの前で片膝をついて、右手を差し出しているヴィエリスのイラストが描かれていた。
「アリシア、私の愚弟が本当にすまないことをした。代わってお詫びする」
ヴィエリスはアリシアに深く頭を下げました。
「そんな! ……もう私は気にしておりませんので、どうか顔をお上げくださいヴィエリス様。でも、何故ヴィエリス様は、私なんかのことを庇ってくださったのですか?」
「そ、それは……」
「……?」
顔を上げたヴィエリスは、耳まで真っ赤にしながら口元を右手で押さえます。
「そうだよな。やはり気付いてはいないよな」
「え、えーと、何にでしょうか?」
「……私の君への気持ちにだよ」
「――!」
途端、ヴィエリスはアリシアの前で恭しく片膝をつき、右手を差し出しました。
「今までずっと言えずにきたが、一目逢ったあの日から、私は君が好きだった――」
「――!!」
「どうか今後は私の妻として、共にこの国を支えてほしい」
「……ヴィエリス様」
こんな夢のようなことがあっていいのでしょうか?
実はアリシアも一目逢った日から、今日までずっとヴィエリスに淡い恋心を抱いていました。
――ですが、アリシアの婚約者はあくまでグスタフ。
公爵令嬢としてその想いに身を委ねるわけにもいかず、自分の気持ちを押し殺してきたのです。
でも、どうやらアリシアは、もう自分に正直に生きてもいいようです。
「ありがとうございますヴィエリス様。私もずっと、ヴィエリス様のことをお慕いいたしておりました。――どうか私を、あなた様の妻にしてください」
アリシアはヴィエリスの右手に、自らの左手をそっと重ねました。
「ああ、必ず幸せにしてみせるよ」
「私もヴィエリス様のことを、必ず幸せにしてみせますわ」
こうしてふたりは末永く、仲良く暮らしましたとさ。
めでたしめでたし
「くぴー。くぴー」
「あらあら」
いつの間にかアリスは、可愛い寝息を立てながら夢の世界に旅立っていた。
こうして見ると、本当に天使みたいだ。
――その時だった。
「おやおや、どうやら一足早く、私の天使は夢の世界に旅立ってしまったみたいだね」
「ふふふ、ちょっとだけ遅かったわね」
夫のヴィエリスが、残念そうに眉を下げながら現れた。
「まあいいさ、こうして天使の寝顔が見れたんだからね。――それに、私の天使はここにもいる」
ヴィエリスが右手を私の頬に添える。
「あらあら、相変わらず言い回しがキザね。絵本を作ってる人って、みんなそうなのかしら」
「ハハ、そうかもね。――愛しているよ、アリシア」
「私もよ、ヴィエリス」
私は愛する夫からの甘いキスを、目を閉じて受け入れた。