三年教室・第一話
中吉澄太
真居等塚とよみます
「それでは、第62回理岳中学文化祭について、ミーティングを始めたいと思いますー・・」
学級委員の女子の元気な声に、真樹は、少しだけ息を漏らすと、まだ文字の書かれていない黒板を見つめた。
ここは、横浜市の外れ・戸塚区にある理岳中学という学校で、市立である。そのため、学区内に住む中学生はほぼすべて、真樹ーー神田真樹も、この学校に通っている。5月になって、この学校は文化祭の時期になり、真樹のクラス、3年6組も、その準備を始める事になっていた。
割と古い歴史をもつ理岳中学は、21世紀の今年で62回目の文化祭である。
・・ミーティングが終わると、真樹の親友・小々波由佳が来て、声をかけた。
「すごいじゃない、真樹ちゃん。文化祭の舞台で、一人で歌うなんて」
「ああ・・うん、でも短い曲だよ?」
「でも、すごいよ。すごい・・」
由佳は、うっとりしたというか、わくわくした感じで、笑みを浮かべた。
由佳は真樹よりも少し小柄で、黒髪に三ツ編みの真樹とは異なり、色のぬけた、肩までの短かい髪型をしている。
その髪を震わせて、由佳が尋ねた。
「それに、自分でつくった歌なんでしょ。何て歌なの?」
「うん・・ええとね、『想いは空を越えて』っていう題名なの」
真樹はそう答えると、うれしそうに笑った。
歌や詩を作るという時には、手がける本人の考えている事、感じている事が、無意識のうちに、ありありと表現されてしまうものだ。真樹の作った「想いは空を越えて」も例外ではなく、真樹にとって、思い入れの深い歌であった。
真樹は音楽の部活などに所属しているわけでは無かったが、自己流で時々、歌を作っている。
由佳が、興味深そうに尋ねた。
「どんな歌なの? 歌ってみせてよ」
「だめ。本番の時に歌うから・・その時に聞きに来てよ」
「うん、絶対行くからね!応援してるよー。でも、本当にいいなー。みんなが見てる前で、こうやって、マイク持って歌って・・ ああ、私もやりたーい。でも、出来なーい」
「ちょ、ちょっと、やめてよ・・」
由佳が真樹の左の三ツ編みを持って、歌う真似を始めたので、真樹は苦笑しながら言った。
二人はしばらくの間、談笑していた。
15才の等塚玲二は、ずっと、真樹達の方をみつめていた。
「・・・・・・・」
ぼんやりとした、ただ、うつろな視線である。
はっきりとした意志でもなく、浅はかな眼差しでもない。
弱く、強く・・
「どうしたんだよ。ボーッとして」
「澄太」
「何かみてるのか。・・ああ、あの女子か。どっち見てた?」
玲二の親友、中吉澄太は、しゃべりなれた調子で、同じ場所を見つめた。
「・・三ツ編みのほう」
玲二はものぐさそうにしながら、目線を変えずに答えた。
澄太は興味深そうに驚くと、
「好きにでもなったのか? 気は合いそうだけどな。そう、あの女子、神田真樹っていったっけ?今度の文化祭で、自分でつくった歌うたうんだとよ。すごいよな。俺は、そいつと話してる女子のほうが好みだけどな。愛嬌あるし・・」
「別に・・」
そう言うと、玲二は椅子から立ち上がった。玲二の背は高く、140Cm台の澄太と比べると、約40cmの差がある。その事や、性格的な面を含めて、二人は凸凹コンビと呼ばれていた。ただ、二人はとても仲がいい。
やがて昼食の時間になり、クラスは文化祭の話でもちきりになった。
「ラーラーラー、ラーラーララ、アーアー・・」
放課後の、校内の裏庭で、真樹は、「想いは空を越えて」の旋律を独唱していた。
歌詞は、今のところ家でしか口にした事はないのだが、一度事を始める時、所構わず場所を選ばないで
没頭、というか熱中してしまう面が、真樹にはある。
今日の裏庭での練習も、もう二時間になろうとしている。日は傾き、辺りは少しずつ薄暗くなってきていた。
(もう少ししたら、帰ろうか・・。)
真樹がそう考えた時である。
「誰!?」
明らかな人の気配に気付いて、真樹は声をかけた。
近くの植木の陰から、ゆっくりと、背の高い男子が姿を見せた。
真樹は、突然、ものすごくはずかしくなり、
「・・ずっと聞いてたの?」
と、問いかけた。
男子は、ばつが悪そうに、
「いや、途中からだ・・。きれいな声がしたから・・」
真樹は一瞬顔を赤くさせると、すぐに吹き出した。
「人をからかうんじゃないわよ。・・あなた、名前は?私は・・って、何だ、クラスの子じゃない。えーと、何て言ったっけ・・」
「等塚玲二・・」
「・・ああ、等塚くん。思い出したわ。それにしてもあなた、変わった趣味してるのねぇ。きれいな声だなんて・・私の名前は神田真樹よ。・・あーあ、何か調子狂っちゃたわ。今日はもう終わりにします。じゃあね、もう遅いから、等塚くんも、気をつけて帰ってね・・」
パタパタと荷物を持って、帰っていく真樹をみながら、玲二は、頭をかくと、そのまま帰っていった。
玲二が真樹と、ちゃんとした会話をしたのは、今日が初めての事だった。
「ただいま・・」
真樹は自宅の玄関で靴を脱ぐと、部屋へと戻った。
「あ、おかえり」
部屋には17才の姉・真居がいて、真樹に声をかけた。
真樹の部屋は姉との相部屋で、10畳程の広さだった。中程度の所得を持つ真樹の家はそこそこの大きさで、2人の部屋は2階にあった。そんな中で、この部屋に一人でいると、ぽつんとした感じになる。
真居は心の芯は強いが病弱で、通信制高校に時たま通いながら、普段は部屋で、ベッドの上にいる事が多かった。
真樹の中では姉の存在はとても大きく、昔から、判断基準の中に深くくい込んでいた部分がある。
「姉さん、今日は文化祭の練習、やめとくわ。学校で練習したし・・」
「そう。めずらしいわね」
「いつも悪いね、・・」
真居の声は強く、真樹よりも一、二段、喉から出ている感じだった。
「迷惑だなんて、心配する必要ないのよ。あるべく目標に向かって、真樹は、がんばってるんだから・・そんなにうるさくないし」
「うん。ありがとう・・」
真樹は、後ろを向いたまま、答えた。
家族で夕食を食べた後、真樹は部屋で宿題をしていた。
真樹が部屋の灯りを消して机の電気をつけた頃、真居が笑みを浮かべながら言った。
「真樹。今日何か、いいことあったの?」
「えっ?」
「何となく、そういう顔してる」
突如、放課後の光景が思い出され、真樹はびっくりしたまま答えた。
「えっ・・と、別に、何もないよ」
真居は、そう? と答えると、枕元に顔をうずめてしまった。
真樹は少しの間、宿題をしながら、急に思い出された放課後の出来事が、自分にとってどの位、嬉しい事なのかを
考えていた。
「真樹ちゃん、今度文化祭の出しものでやる『ハックルベリィ・フィンの冒険』って、どんな物語なの・・」
「ああ、知ってるわよ。同じ作者のかいた『トム・ソーヤーの冒険』を上回る作品だと言われててね・・」
翌日、真樹のクラスは、いよいよ文化祭の準備を本格的に、始める事になった。
ハックルベリィ・フィンの冒険とは、クラスの出しものとして選ばれた児童文学で、主人公のハックが冒険をして、色々苦労や経験をして成長をする話である。真樹は昔、その物語を読んだことがあった。
「私、メアリ・ジェーンっていう役をやる事になったの。上手くできるかなあ・・」
「由佳、それほとんどヒロインじゃない。私なんか、主人公に小言ばかり言うワトソン嬢の役よ。やんなっちゃう。まあ、がんばりましょ」
真樹は軽く笑うと、窓際のほうに目をやった。
そこでは、玲二と澄太が、同じように話をしていた。
真樹は歩いていくと、玲二に声をかけた。
「等塚くん。今度の劇、何の役やるの・・」
「お、俺か? 俺は、ハックといかだで旅をする、ジムじいやの役だ」
「へぇ・・結構、合ってるかもね」
多少驚いた様子の玲二に、真樹はすまして答えた。
由佳がやって来た。
「真樹ちゃん~、等塚くんと何かあったの!?」
「うん、ちょっとね・・」
真樹は、軽く目を閉じた。
昨日の放課後の出来事は、場合によっては、名前を知り合うという程度の浅い関係に終わりかねない、
クラスメイトとしての関係を、距離を、一気に縮めたのかも知れないのだった。
4人は、いつの間にか談笑していた。
「俺は、ハックルベリィ・フィンを読んで育ったんだぜ。ハックの役をやることになるとは、思わなかったよ・・、あ、俺、中吉澄太」
「私は小々波由佳っていうの・・じゃあ、すごく楽しみなんじゃない?」
「私は神田真樹よ。・・でも、今回の脚本って、原作をかなりいじって、アレンジするって聞いたけど・・」
「そうなんだよな」
澄太は、小さく肩を落とした。
「原作をそのままやっても面白くない、ってのもわかるし・・でも、どう変えるか、だよな・・大体、ハックルベリィの膨大なストーリーが、芝居時間の数十分の中に、収まるわけないしな」
「そうよね・・」
真樹は澄太をねぎらう様に言うと、玲二に問いかけた。
「等塚くん、それで脚本は、誰がつくるの?」
「学級委員の、長楽行紀だ・・」
「ふーーーん・・」
長楽行紀は、お調子者で有名な、女子であった。
放課後、真樹は裏庭の昨日と同じ場所で、旋律を歌っていた。
(等塚くんが、来るかも知れない・・)
そう、思ったのだ。
玲二に聞かれていたと知った時、恥じらうと共に、言葉では言い表せない、奇妙な安らぎのようなものを感じる自分がいたことに、気づいていた。
(好きになった・・? いや、ちょっと違うな)
まだ恋愛経験のない真樹にも、それが恋とは違うものであることは分かった。
(また、ここで会いたいの・・)
真樹は半ば祈るようにして、旋律をうたいつづけた。
・・そして一時間程した頃、
「等塚くん?」
一番大きな植木に気配を感じ、・・いや、実際は少し前から気づいていたのだが、あえて今まで待って、真樹は声をかけた。
「・・バレたか」
少し身をすくめた玲二に、クスクスと笑いながら、真樹はわざと聞いてみた。
「いつから、聞いてたの?」
「30分程、前からだ・・。」
「そう・・」
真樹は、近づいて玲二の顔をのぞき込んだ。くっきりとした眼差しが、何処となく優しげに真樹を見ている。
「・・な、何だ?」
「・・別に。それより、ずっと立ってると疲れるでしょ。ここへ来て、座りなよ。隠れなくってもいいわよ」
玲二は少し照れくさそうにしてから、真樹の隣に、座り込んだ。
玲二が問いかけた。
「文化祭で歌う歌の、練習なんだろ。歌詞はないのか」
「歌詞は秘密なの。大体、自分で作ったんだからね・・本番まで秘密よ」
「そうか。でも、曲もいいよな。歌手を目指しているのか?」
真樹は、真後ろから意表を突かれたというような顔をした。
「歌手だなんて・・、そんな浮き沈みの激しい、不安定な職業、御免だわよ。私は、まともな仕事をして、まともな恋愛をして、まともな結婚をするのが、望みなの・・歌作りは、自己発現よ」
浅くため息をつく真樹に、玲二は、うれしそうに笑いながら、
「いや、あんまり熱心にやってるもんだから・・でも、そうだよな。どっちかっていうと、俺もそうだよ」
「真面目そうだものね。等塚くん・・」
「神田もな。それに、真面目な芸術っていうのも、大いにありだと思うぜ。・・続けろよ、練習」
「うん・・」
玲二にそう言われると、説得力というか、何となく素直になってしまう自分を、真樹は感じていた。真樹が歌い始めると、玲二は、まどろむような目つきで、それを聞いていた。
透き通った歌声は、裏庭の隅々にまで行き届いた。
玲二に旋律を聞かれる事で、真樹は、文化祭での発表に向けて無意識のうちに抱え込んだ、プレッシャー・・それは同じ状況下であれば、おそらくほとんどの者が感じたものであろうが、それが、薄氷が水に解けるように解消されていたのだ。それは相手になるなら誰でもいいという訳では無く、玲二の持つ雰囲気、人間性のようなものが、真樹との相性の中で、そうさせていたのだった。
真樹の玲二を伴った裏庭での練習は、学校のある日は、毎日続いた。
「・・であるから、学校の文化祭というのは、表現力と協調性を養い、前向きな目標に向かって、力をあわせるという事を学ぶ機会であるわけだな。・・明日は当日だな。今日はこれで終わるから、明日のためにゆっくり休んで、今日までした成果を充分に出せるように・・楽しみなさい」
3年6組の担任・素野が話した後、日直が号令をかけ終わると、クラス中がつねにも増してざわついた。
文化祭への興奮が、辺りを包んでいるかのようだった。
真樹が帰りの仕度をしていると、由佳が話しかけてきた。
「真樹ちゃん、いよいよ明日だね。私も劇とかがんばろ~。それにしてもさ、素野先生って、時々いい事言うよね」
「あら、由佳もそう思う? 私も同感だな。ああいう先生って、貴重よね・・」
そう言って首をもたげた真樹の額に、うっすらと汗がにじんでいたことに由佳は気づいた。
「何だか疲れてるんじゃない、真樹ちゃん・・顔色良くないよ、何だか」
「えっ、そう? そ、そうかな」
真樹はひどく驚いた様子で、自分の顔に手を当てた。
「ずっと練習してたからかな・・そういえば、そんな気もするわ」
「・・真樹ちゃん、今日うちに泊まりに来なよ。遊んだりして、疲れもとった方がいいよ。練習も休んでさ」
「そうね、そうするわ・・」
真樹はそう言うと、窓際で澄太と話している玲二の傍までゆき、小さい声で、
「等塚くん、今日は練習、お休みにするわ」
「そうか。まあ、本番前だし、ゆっくり休めよ」
「うん・・」
そう言って、由佳と一緒に教室を出た。
携帯電話で家に連絡し、由佳の家に行くその途中で、
「真樹ちゃん、ずっと練習してたって、等塚くんとだったの!?」
「ああ、聞こえた? うん、そうなんだけど・・」
真樹がそう言うと、由佳は少しいじけた様子で、
「そうだったんだ・・ねえ、その時のことも後で聞かせてよー。ふーーん・・。」
その様子が、何故だか、真樹は少し気になった。
「入ってていいよ。私、お茶いれてくるから」
「うん。お邪魔します・・」
由佳の家はマンションの3階で、甘い紅茶のような匂いがした。
人の住む家には、そこの人員の匂いによって、固有の香りが宿るものなのだ。真樹は、昔からこの由佳の家の甘い匂いが、好きだった。だが、そういった匂いは、家に入ってから数分と経たぬうちに、忘れてしまう。
「ふう・・」
真樹は、由佳の部屋に入ると、鞄を置いてくつろぎ、ふと、文化祭のことを考えた。
だが、すぐに考えるのをやめてしまった。去年、一昨年の文化祭のことは知っていても、今年はどうなるか、分からない部分が、似た部分もあるだろうが多いのである。真樹が考えたのは、そのどうなるか分からない部分だった。わからない先の事は、考えるよりも実際に、その場で見た方が確かであると、真樹は考えていた。
だが、そう考えつつも、意識はしていたのだ。
「真樹ちゃん、紅茶持ってきたよ。はいどうぞ」
「あ、ありがとう・・」
真樹は、由佳から紅茶の皿を受け取り、カーペットの上に置くと、カップだけを持って、冷まし始めた。
由佳は、にっこり笑うと、
「紅茶はね、お砂糖多めに入ってた方が、疲れをとるのにいいんだよ。おかわりしてもいいからね」
「ありがとう・・。そうなんだ」
真樹が紅茶をすすると、甘さそのものが、体中に流れ込んでくるようだった。
二人は、とりとめのないおしゃべりなどをしながら、夕方まで過ごした。
学校の事、文化祭の事、テレビの事・・。
只、玲二の事だけは、真樹は自分からは話さない方がいい様な気がして、口にしなかった。
夜、由佳の家族と一緒にとった夕食は、洋食だった。
由佳は家族と仲が良く、あたたかな会話が時折、成されていた。
「お母さん、真樹ちゃんが家に泊まりに来たのって、何だか久しぶりだよね」
「そうねえ、少し前まではよく家に泊まりに来てたけど。この前は、いつだったかしら・・」
「二年前だったと思います」
真樹は、由佳と向かい合わせの席で、互いの姿を見ながら、食事をしていた。
今日ここで食べた料理は、真樹には、とてもあたたかく感じられた。
やがて真樹と由佳は、二人でお風呂に入った。
浴槽の外でみるとよく解るのだが、同年代の女子の中では比較的、胸の薄い真樹に比べて、由佳の胸は大きく、豊かである。特に裸になると、その違いがよくわかる。
真樹は、そのことに理由があるとしたら、それは精神性から来るものなのかも知れない、と思っていた。自分の中でも、他人に対してもあどけなく、包容性に富む由佳。真樹は、自分は何においても考えをめぐらせようとする、所があるから、それで胸もあまりふくらまないのかな、と憶測の範囲で思っていた。
二人はお風呂から上がると、部屋へ戻って、寝ることにした。
由佳は、あっと声をあげた。
「・・どうしよう、真樹ちゃんに合うサイズのパジャマ、無いわ・・私のも小さいし、お母さんの古着も、二年前なら、着られたんだろうけど・・」
真樹は首を横に振った。
「いいわよ・・制服さえ脱げば、下着があれば、それで済むし」
「本当に悪いね・・、」
由佳は本当に申し訳なさそうな顔をすると、ベッドに腰をかけた。
そして、尋ねた。
「それで、どう?」
「え、何が?」
「だから。疲れとか、とれた?」
その言葉に、真樹は顔を赤くさせると、
「あ、ああ。・・結構、とれてきたわよ」
「そう? よかった」
由佳は立ち上がり、ゆっくりと、唐突に、真樹を抱きしめた。
「真樹ちゃんがこんなに頑張ってるのに、私は、これぐらいの事しか、出来ないんだ・・」
真樹は、涙が出てきたような気がした。
「由佳・・ありがとう・・。」
そう言って、自分も由佳を抱きしめた。
そのあと、二人は寝床に入った。由佳のベッドは小さくはなく、少女二人が、ゆうに入る事が出来ていた。
真樹は下着姿だったので、それでかえって、布団のぬくもりを、体中に感じる事ができた。
窓から差し込む月の光が、薄く部屋の中を照らしていた。
その中で真樹は、さっきから気になっていた事を、言おうとした。
「由佳。あの・・」
「等塚くんのことでしょ」
真樹が言うよりも早く、由佳は答えた。
真樹は、少しあわてて、
「一緒に練習したっていっても、大した事してないのよ。最初学校の裏庭で、曲を練習した時に聞いてて、それから、練習の度に聞いててくれて・・聞いてたって、それだけ」
少し経ってから、由佳がささやくように言った。
「・・等塚くんは、真樹ちゃんの声が、好きなんだね」
「そ、そうなのかな? そういえば、きれいな声だとか言ってたっけ・・」
真樹はふと、聞いてみた。
「由佳ってさ、等塚くんのこと、好きだったり・・するの?」
「そうだよ」
あまりにも率直に、即答する由佳に、真樹は、のどの辺りに言葉を詰まらせてしまった。
由佳は続けた。
「強くて、優しそうで・・ずっと、かっこいいなって思ってた。声をきくだけで、夢をみたようになるの。でも、伝えられなかった・・だって、等塚くんの事を考えると、わかるの、この人の好きになるような女性は、私じゃないって」
由佳は、明らかにせつなそうに、ある意味悲しげに、また、どことなく嬉しさを秘めた表情をしていた。
恋をしている人の顔だ、と真樹は思った。
「ちょうど、真樹ちゃんみたいな」
「だから、声を好きなだけだって・・」
愛しそうに顔をなででくれる由佳を、押しとどめながら、そんな顔を見せた由佳を、真樹は大人だと思い、少しだけうらやましくなった。
「さっき、聞いた時は、びっくりしちゃったけど・・」
そう言った由佳は、すでに笑っていた。
そして、ハープを奏でるような口調で続けた。
「等塚くんも、応援してくれるよ。明日のお歌、上手くいくといいね・・。」
由佳は、真樹を抱きしめた。
由佳の胸のそのふくらみが、真樹の胸のふくらみと重ねあい、触れ合い、ぬくもりを生じさせた。
この瞬間、真樹は、緊張も疲れもすべて、消えてしまったと感じた。
真樹も由佳を、抱きしめた。
「私・・由佳がいてくれて、本当によかったわ」
「小学二年からの、つき合いだもん」
「そうね・・。」
二人は、抱き合ったまま、夜明けまで眠った。
そして朝になると、早めに仕度を済ませ、学校へ向かった。
「ハックさん、私は、あなたと共に行くことは出来ません」
「わかってるよ、メアリ・ジェーン。ぼくは、自分が正しい人間だという自信がないんだ。君には家族がいる・・」
真樹のクラス、3年6組の劇『ハックルベリィ・フィンの冒険』の、ラストシーンが演じられていた。
すでに出番を終えた真樹は、舞台裏で澄太達を見守っていた。
真樹の歌の独唱は午後の2時からで、午前中の今からは、まだ時間があった。
程なく、拍手の音が響いてきた。劇が終わったのだ。
衣装姿のまま、由佳が真樹に、かけよってきた。
「真樹ちゃん、私、がんばったよ~」
「由佳」
真樹は由佳を抱きとめると、その頭をなでた。
澄太がその様子をみながら、笑って言った。
「無事に終わって良かったぜ。脚本も、なかなかよかったしな」
「・・あれ、等塚くんは?」
真樹が尋ねると、澄太は、
「ああ、そう言えばいないな・・。あいつの事だから、どこか散歩でもしているんじゃないのか。つれない奴だよな・・」
澄太はそんな玲二の性格を、よく知っているようだった。
由佳は、真樹を見上げると、
「真樹ちゃん、午後はいよいよ、歌の発表だね。私、絶対上手くいくように、応援してるからね」
「うん。ありがとう・・」
「お前も、劇に歌にと大変だな。俺も応援してるからな。がんばれよ」
「うん・・」
どちらかというと、澄太よりも玲二に、同じことを言ってもらいたかったのだが、真樹は、同じクラスの人が、一人でも多く自分を応援してくれるというのは、ともかくも心強かった。
そのあと、真樹が由佳と昼食をとっていると、
由佳が、
「真樹ちゃん、等塚くんは絶対、真樹ちゃんの本番には来てくれるとおもうの。でも、探して来て、真樹ちゃんが舞台の上からでも見える位置で、一緒に応援するからね。
絶対そうするからね」
真樹は、来てくれるかは、等塚くんの意志によることなんだから、と言おうとしたが、やめた。
由佳の申し出は、うれしかったのだ。
玲二は、裏庭にいた。
初めて真樹の歌を聞いてから、ずっと、練習に付き合いつづけてきた場所だ。
玲二は、辺りを見回すと、
(神田の声、綺麗だったな・・)
今までずっと自分が腰を下ろし続けてきた場所に、真樹のいた所の隣に、座り込んだ。
そうして、ためいきのようなものをついた。
(神田の出番まで、もう少しか・・)
「等塚くん」
ふいにした、声の方をみると、由佳だった。
「小々波・・」
「ここにいたのね。真樹ちゃんのお歌、もうすぐだよ」
「いや、だから俺は、行くつもりで・・」
「今まで、一緒に練習してきたんでしょ。真樹ちゃんが、舞台の上からでも見える位置で応援しないと、良くないよ。私、一番前の席二つとっておいたの。一緒に応援しよう」
そう言って、玲二の手をとると、立ち上がらせた。そして、手を握ったまま、歩きだした。
(それは、人に言うなとは、言ってないが・・)
由佳は、玲二といるあいだ、ずっとうれしそうにしていた。
そして会場につくと、最前列の席にすわって、始まりの時を待った。
ついに発表の時が来た。
真樹は会場の舞台裏で、待機していた。
「神田さん。出番よ」
係の先生に言われると、真樹は、
階段を小走りにかけ昇り、舞台へ上がった。
すべての人が、真樹をみていた。
真樹は、大きく息を吸い込んだ。
体中を、空気が包みこんでゆくように、感じられた。
手前の席で、由佳が手を振っていた。
その隣で、玲二もみている。
真樹は優しく笑うと、正面を向いた。
放送がかかった。
「3年6組・神田真樹さんの独唱・自作歌・『想いは空を越えて』ですーー・・」
真樹は、もう一度大きく息を吸い込むと、
両手でマイクを握りしめた。
辺り一面の空気が、呼吸をしているようだった。
真樹は歌い始めた。
ずっと 願っているの
苦しく辛い時にも
心の翼はいつでも
自分なりには はばたける
未来が みえないなら
今までに見つけたものを
頼りにしてゆこう
そうすれば きっと迷わない
想いは空を越えて
この広い空を越えて
私の想いはずっと
強くなりたいという願い
想いは空を越えて
焼けつく時間を越えて
弱い私の抱く
悩みを越えていこう
悲しげな、それでいて何処か希望を求めているような、メロディだった。
真樹は歌い終わると、マイクを持ったまま、ゆっくりと頭を下げた。
静かな拍手が、辺りを包みこんでいった。
由佳が涙ぐんでいる。
玲二も拍手をしていた。
全身に、あたたかい熱のようなものが、こみ上げてくるのを感じた。
『想いは空を越えて』に込めた真樹の心の姿は、多くの人々に見届けられたのだ。
その後、真樹は次の人の演奏が始まる前に、舞台裏へと降りた。
舞台裏で、由佳が駆けよってきた。
玲二も来ていた。
「真樹ちゃん、あのお歌すごい、すごかったよ~」
「由佳・・」
真樹は発表を終えた安心からか、とてもうれしそうに笑うと、由佳を抱きしめた。
「昨日はよく、休めたようだな。今までのどの時よりも、いい声だったぜ」
「うん・・」
トク、トク、トクン・・。
あ、あれ? 何だろ・・。
胸の辺りが、音を立てて動いたような、感じがした。
「由佳のおかげなの・・。それと、等塚くんのおかげよ」
真樹は、それを抑えこみながら、答えた。
悪いとは思わなかったが、何だか不思議な感じがしたのだった。
由佳が真顔で尋ねた。
「真樹ちゃん、あのお歌って、どんな気持ちでつくったの・・」
「ああ、それはね・・」
真樹は、それから、尽きるともない歌の裏話を始めた。
そうして、今年の文化祭は終わった。