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第1・回想


(おにいちゃんは、おねえちゃんのことが、好きだったんだ)


真琴の吐く息は闇の中に白く、閑散とした、夜の住宅街の空気を、小さく揺らした。


(真琴は、おにいちゃんもおねえちゃんも、だいすきなのに)


名古屋の冬は寒い。雪が降るなんてことは滅多にないというのに、身を切るような空気の冷たさ。この夜も氷点下をもうすぐ切ろうというほどであった。


真琴はマフラーを口もとまであげ、鼻をすすった。手袋にくるまれた両手で肩を抱きかかえ、ぱたぱたと足踏みをしてなんとか体を温めようとする。


(空が……赤いなあ)


真夜中、本来ならば闇と一体になり、見えなくなるはずの雲は、明るい都市のネオンを反射してしまい、うすらぼんやり赤く漂っているのが常だった。だから真琴は本当の暗闇を知らない。



「……真琴」


自転車を引きながら、足遅に道路を歩いてきたのは彼女の義父、紫苑であった。


「おとうさん、!」

パっと俯いていた顔を上げると、真琴はこの時刻には不釣り合いな子供の高い嬌声をあげ、紫苑に駆け寄ると、その小さな腕で目一杯抱きついた。


「お帰りなさい!」


「ただいま、真琴、お前こんなとこで何してんだ」


紫苑は片腕に真琴を抱きかかえ、自転車のサドルに座らせた。真琴は真琴で、嬉しそうに大人しくしている。


「お母さんが心配するぞ」


 紫苑の吐く息もまた白かった。



「おかあさん、死んだよ」



「は?」


なんの脈絡もない台詞にきょとんと呆けた紫苑に対し、さらにきょとんと小首をかしげる真琴。


彼女は少しはにかみながら、また繰り返した。


「おかあさん、死んだんだって」


紫苑の口からはただ白く雲が流れ出るのみ。


「だからね、ほら、早く帰ろう?」


真琴はまた小さく笑った。


義父が何も言わないで、唖然と真琴を見つめているのも大して気にとめず、ただ彼が自分の言葉に注意深く耳を傾けていてくれることに敢然とした喜びを覚え、そうして真琴はまた言葉を紡いだ。


「おにいちゃんとおねえちゃんはね、今ね、ケンカしてるの」


「真琴お前、こんな時間に何やってたんだ?お母さんをあまり心配させるな」


「真琴はね、お父さんのお迎えにきたの」


また同じ言葉を繰り返す紫苑に軽く不満を抱きながらも、真琴は言葉足らずに経緯を語りだす。


 真琴を乗せた自転車は、ゆっくりと紫苑に引かれ動き出した。


「今日ね、真琴が帰ったらね、おにいちゃんとおねえちゃんがケンカしてて、真琴が『どうしたの?』って聞いたら、『お母さんが死んだんだよ』って」


 紫苑はそれを聞くや、穏やかに笑って言った。


 「真琴、それはお兄ちゃん達の冗談だよ。今の子達はすぐにそういった言葉をつかうんだ。帰ったら叱ってやろう。真琴は絶対マネしちゃだめだよ」


 真琴は大好きな、義父の暖かな笑顔を見てもやはり不審を抱くだけであった。真琴の見た義兄と実姉の喧噪は、明らかにいつもの軽い喧嘩とは雰囲気が違っていたのだ。そしてなによりいつもと異なっていたのは。


 「おにいちゃん、泣いてたよ」


 義兄、桃太はそのとき泣いていた。家の外まで声が聞こえてくるほどの言い争いで、真琴が不審がりながら中に入ると、桃太と姉の真弓が二人とも泣きながら争っていたという有様。互いをののしり、声も瞳も怒らせて喧嘩をする兄姉を見るのは、真琴は初めてだった。


 「おねえちゃんも、泣いてたよ。おにいちゃんもおねえちゃんも、きっとまだ泣いてるよ。真琴が家を出てくるときも、ずっと喧嘩したまんまだったもん」


 言い合う内容は明らかに漢字で、真琴の小学一年生レベルではとても理解できるものでは無い。それでも、その場に居れば分かる。刺さる空気、冷たく、痛々しく。

 しかし幼い今の真琴に、それを言葉で表現する術はなかった。


 「おばちゃんも、おじちゃんも、おばあちゃん達もみんな家にきたの。でも、おにいちゃんもおねえちゃんもケンカばっかしてて。おばあちゃんたちもなんかやってて、おじちゃんたちは泣いてて、だれもかまってくれなくて」

 だから出てきたの、と俯きがちに、小さい声で真琴は付け足した。


 無言のままの紫苑が引いていた自転車が家の前の路地にはいった。紫苑の目に、路傍に寄せられている何台かの車が映る。それが、まるで写真のように、断片的に網膜に焼き付けられ視神経を渡り脳に認識された刹那、紫苑は自転車を止めた。


 「真琴」


 「なあに、おとうさん」


 真琴の声に、今までの張りがなかった。勝手に出てきた負い目を少なからず自覚し出したのか、紫苑に叱られることを覚悟している様子である。


 「お父さんは、どうすればいいんだろうなぁ」


 下を向き、か細くささやかれた声は真琴には聞きづらかったのか、不安そうに紫苑をみあげた。


 「おとうさん?」


 紫苑は、見上げてくる真琴と目を合わせないようにか更に俯き、そうしてまた言葉を絞り出した。


 「俺、なにかしたかなぁ?真音(まのん)さん、俺、なにかしたのかなぁ?」


 黙って不審の目で見上げてくる真琴を気にもせず、紫苑は独白をやめない。


 「俺はどうすればいいんだい?真音さん、真音さん、俺と桃太を拾ってくれたのはあなただった。俺はあなたが大好きだった。大好きなんだ。大好きなんだよ。どうすればいいんだよ」


 紫苑はまたゆっくりと歩き出した。無言で静寂の中を進み、明かりのついたままの家の前でとまった。自転車を止め真琴を降ろし、玄関までの砂利を踏みしめながら、人声の聞こえる扉の前で止まる。


 「おとうさん?どうしたの?おうち入らないの?」


 紫苑が棒のように直立不動の姿勢から動く様子がないので、真琴は少し背伸びをしてチャイムを押す。ひどく余韻の残るチャイムだった。


 途端、中の騒がしさが一瞬止み、一間おくと、先までより一層騒がしくなってドタバタといくつかの足音がこちらへ駆けて来だすのがわかった。


 「真琴っ?!」

 「真琴っ?!」

 「真琴ちゃんっ?!」

 「紫苑さんっ?!」

 「紫苑くんっ?!」


 「た…ただいま…」


 流石の真琴も、家族親族そろっての出迎えには勝手に出て行った手前もあり、気圧されるしかないようである。


 真弓が真っ先に真琴に抱きつくと、ほかの親族諸々もわいわいと真琴のまわりに集まり始めた。 


 「真琴っ!どこいってたの、勝手にでてかないでよ馬鹿!こんな時に限ってお父さんも帰ってこないし」



 「真琴!!こんな時間にでてくやつがあるか、おばあちゃん達もみんな心配してたんだぞ、警察にも連絡したし!」


 「真琴ちゃん、心配したのよー!おじさんが今探しにでてるから、おばさん、ちょっと外いって連れ戻してくるわねぇ」



 「お父さん!!」


 恰幅の良い叔母がそとへでるため、桃太が場所を空けようと立ち位置を退くと、ちょうど紫苑と桃太の視線が合った。驚きと喜びの混じった目を開き、叔母を今度はおしのけて駆け寄ってくる。


 「お父さん、やっと帰ってきたの!どこいってたんだよ!」


 「紫苑さん!!あらぁ、遅かったじゃないの、どこ寄ってたのよ!」


 「お義父さん」


 騒ぎ立てる桃太と親族とはうってかわった、湖畔の水面のように静かな声が、小さく響いた。


 真弓である。真琴を抱きしめたときとは違う、まるで無表情。こちらへ歩みを進める真弓は靴下のまま、しかしその服装が制服であることが、紫苑の呼吸を微かに詰まらせた。


 「会社にもお友達にも電話したけど、お義父さんにはつながらなかった。いつも夕方には帰ってくるじゃんか。どこにいってたの?」


 「会社から…図書館に…」


 紫苑はなにかに許しをこいたかった。声に縋るような含みがあったのはその所為かもしれない。


 「お義父さんなんか…きらい」


 住宅街には、また時刻にふさわしい静寂が訪れた。しかし、その静寂はけして心地のよいものとは限らない。


 「お義父さんがそうやって、のんきに本なんか読んでるときに、お母さんは死んだんだよ」


 真弓は今まで瞳を濡らしていた涙を、とうとう堪えきれずに零した。紫苑は黙ったまま。


 「買い物帰りに、私の、がっこうまで、む、迎えにっ、こようとして、それで、もうやだっ!!もうやだぁ、馬鹿、みんな、みんな嫌いよ!なんで責めないのよ!私を迎えに来ようとして死んだのよ!?車が、ブレーキと踏み間違えて、アクセルで、それでっ、!!!」


 なきじゃくり、つっかえつっかえでも喋ろうとしている真弓に、桃太がゆっくりと近づいていった。


 「だから、やめろよ!何回言えばわかるんだよ!お前の所為じゃもちろんないし、お前は全然悪くない。お義母さんはたまたまスーパーとお前の学校が近かったから迎えにいったんだ。お義母さんが決めたことだ、お前はなにも責めることはないんだよ!!」


 「じゃあなに?!お母さんが悪いって言いたいわけ?!」


 「そうは言ってないだろ!お前もお義母さんも悪くないし、お父さんだって悪くない。知らなかったんだし、仕方ないじゃないか!これは事故だったんだ!」


 「桃太はいいよね、ぬくぬくと図書館に行ってたお父さんは生きてるもんね!私なんかお父さんも、お母さんもッ…!!」


 パシン、乾いた音が響いた。


 「いいかげんにしろ。俺の父さんは生きてるよ。ああ、そうだ、それの何が悪いんだ。俺の父さんはお前の父さんでもあるんだ。今までがどうだった、なんて事は今は関係ない。いつまでガキでいるつもりだ。もっと頭を回せこの馬鹿」


 「っ〜!!!」


 義兄に頬をはたかれた真弓の目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち出した。腕でそれを拭いうけてもなお落ちる。耐え切れなくなり、踵をかえし、周りの親族も押しのける勢いで家の中に戻っていく途中、真弓は一度振り返り、だんまりを決め込んだままでいた紫苑に向かい、吐き捨てるように言葉を叩きつけた。


「お母さん、死ぬ前になんて言ったかわかる?」


「おぃ、真弓っ!!いい加減にしろ、止めろぉぉおッ!!」


桃太が先の真弓に負けず劣らずの勢いで駆けてゆく。しかし真弓にその手がとどくまでの刹那。


「『悠時さん、ごめんなさい』ってさ!!」


ドカッ。真弓を桃太が押し倒した音であった。


「桃太!」


「桃太君!」


「お前なんか……」


桃太の下でむくれている真弓。両手を真弓の頭部の左右に置いた桃太の、俯き髪で隠れている頬から、したたる雫。


親戚衆も動きをとめた、沈黙の嵐。



「死んじゃえ」



「桃太!!」


今の今まで黙りを貫いていた紫苑が動いた。

呆然としている真弓の上から退き、階段に向かい掛けていた桃太に詰め寄る。その両肩を乱暴に鷲掴むと、一度泣きそうな瞳で彼を見つめてから、抱きしめた。

「桃太、俺は気にしてないから。当たり前のことだから。悠時さんの方が、俺より一緒にいた時間だって長いんだ。だから、だからな、もうこれ以上真弓を責めちゃいけない。駄目だ。死ねなんて冗談でも言っちゃ駄目だ。なにより俺の娘を、お前の妹を、真琴の姉妹を死なせないでくれ。お願いだから…」


紫苑の瞳は濡れてはいない。相対して、桃太と真弓は号泣だった。ぐしゃぐしゃに、泣き崩れていく。真弓は体を折り、祈るような形で。桃太は膝を着き、懺悔するような形で。

大声をあげて、生まれ落ちた時のように。

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