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忘却のクロノス・フロスト  作者: 終乃スェーシャ(N号)
一章:銀の花・銀世界
9/28

弱き虫を喰らう

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「……火がつかない」


 外に出てから4日が経過していた。今日も無事眠りから覚めることはできたし、幸運はまだ続いているようで、天気は連日晴れ晴れとしていた。氷雪が太陽光を反射し、白くまばゆいのが煩わしいが、それも森のなかならばそれなりにマシである。それより問題なのはいまだに火が起こせないことだった。


 木の棒と削った粉、土台となる木材を用意して摩擦を起こすのだが、なにぶん力が強すぎるもので擦った瞬間に木の棒が折れる。手加減をすれば力が足りないのか煙のケの字すら立たない。苛立ちが募り、力を込めた途端、また棒が折れてとうとう手に突き刺さった。


 黒の一番はすぐに木の枝を抜き取った。鮮血がボタボタと雪に染み入り、熱が帯びる。身体能力が強化されて傷はすぐに治るにせよ、痛いものは痛いし腹立たしい。このミスだけでも何度目か分からない。


「だあああああああああああああああ! 糞が! 糞!!」


 黒の一番は一人絶叫し、激情のままに用意した火起こしの道具を樹木めがけて投擲した。凍えるような空気を貫き、それは粉々に大破する。数秒して、オマケと言わんばかりに樹木のほうも力なく倒れていった。――――地響き。倒れる轟音。それらを聞いてようやく我に還った。


 ただでさえ寒くて疲弊しているというのに、無駄な体力を使った気がする。急激に脳がさめていき、淡々と血の付いた手を雪と服で拭った。


(ははは、結局8時間ぐらい粘ってたけどギブか? ギブか?)


 ウィルソンが嘲笑った。確かに我ながら滑稽であった。黒の一番は息を荒らげながらふと靴を脱ぎ、ウィルソンに足を見せ付けた。その足は指先が凍傷で赤黒く膿んでいた。しかし再生能力があるがゆえに症状はそれでもマシなほど抑えられている。


「……再生能力が落ちてきている。それにずっと震えが止まらない。空腹だし、喉も渇いた」


(雪でも食べればいいじゃねえか)


「いや、確か食べたら駄目って誰かに言われた気がする……って少し静かに。今何か気配がした」


 黒の一番はウィルソンに注意を促し、周囲を注視した。木が揺れただとか、そういう音ではない。何か生き物が蠢くようなそんな音がしたのだ。――――やがてソレがいる場所を五感と超常的な感覚が把握した。


(モンスターか?)


 ウィルソンが尋ねた。黒の一番は答えることはなく、細心の警戒を払い気配を消して、ソレがいる場所に近づいていく。だが、いざその姿を見ると思いのほか拍子抜けであった。


 それは虫だった。大きさはさすがは異世界ということもあってか手のひら程度の大きさで、黒く細長い体をした昆虫だった。退化した羽根の痕のような部位も見受けられる。その虫はさも当然のようにこの極寒の大地をとぼとぼと歩いていた。強靭な牙や針があるわけではない。それでも一匹で逞しく雪のなかにいたのだ。


 黒の一番は惹かれるようにその虫の元まで歩み寄りしゃがんで覗き込んだ。虫は自身の上に影が差すとピクリと動きを止める。


「レーヴェが貸してくれた生物図鑑にいたな……。ゴッカンカワゲラだかフブキカワゲラだったか。まぁただの虫だな」


(良かったじゃねえか。貴重な蛋白源です。焼いて食っちまおうぜ)


 ウィルソンが陽気にそんなことを口にして、黒の一番は呆れながらにため息をついて、首を横に振った。


「火がないし、毒かもしれない。それに本気か? いくらこの体が人外じみてるからって……心は人間のつもりだが」


(毒無効は付けてもらっただろ? それにイナゴとかハチノコとかはよく食べられるって言うじゃねえか。他の虫だって日本以外なら食ってるところだってある。何をしてお前は人間様のつもりなんだ? 多数派が人間か? なら少数派はなんだ? 答えられるか? とりあえず食べれそうか触ってみればいいじゃねえか)


 ウィルソンはどうしてか軽蔑するような口調だった。黒の一番はそんな彼の態度に気圧され、恐る恐る虫を指で摘み、そのまま手に取った。虫は氷のように冷たかった。固くも柔らかくもない中途半端な触り心地だった。ハッキリ言ってしまえば気持ち悪い。


 カワゲラは一瞬ばかり脚を機敏に動かして必死に抵抗していた。しかし、気付いたときにはピクリとも動かなくなっていた。


(あ? 死んだふりか?)


 黒の一番は押し黙った。彼の言う通りであればどれほど良かったか、けれどもレーヴェによって恐ろしいくらいに敏感になった五感が告げるのだ。


「…………いや、死んだ」


 本当は生きてないだろうかと雪の上に戻したり、ひっくり返したりしたが無意味だった。死因は分からないが、あまりにもこの虫は弱く、脆かったのだ。


 猛威を振るう大自然のなか凍てつくような静寂がこの場を包み込んだ。この虫は氷のように冷たかったが、死んでしまうとものの数分で文字通り凍り付いてしまった。


(…………可哀想だから食ってやれ)


 ウィルソンはからかうような口調でそう命じた。けれどもその表情はどうしてか糞真面目で、黒の一番はまた彼に気圧された。


「墓を……作ってやれじゃなくて?」


(あーそれもいいかもしれねえが、お前次いつ食べれるものが来るか分からねえんだぞ? いいのか?)


 再びの静寂。雪の上を強烈な風が吹いた。刹那、髪は靡くもすぐに凍り付く。同時、カワゲラが飛ばされかけて、黒の一番は咄嗟に虫の死骸を手で掴んだ。


(……どうするんだ? 食べるのか? それとも捨てちまうか?)


 黒の一番は黙ったまま前者に頷いた。そして手元にあるそれをジッと見詰めた後、ごくりと唾を呑んで覚悟を決めた。目を閉じて、仰々しいまでにゆっくりと口に運ぼうとした。


(え、生で食うのか?)


「…………火が起こせないから仕方ないだろ。それに、……空腹だ。雑菌は……こんな寒さだからいないと思いたい。まぁ多分、体は頑丈だし……多分」


 そう言って黒の一番は開き直ったかのように虫を口に入れた。顎を動かすとジョリ……と音がした。しかしそれは虫ではなく表面についた霜の感触だった。僅かに遅れて甲殻を噛み砕く感覚と、酷くぶよぶよとした腹部の食感が口全体を伝う。だが噛み切れたわけではなく、薄い皮が残り、中身が流動して、ハッキリ言って食感は不快であった。


(どうだ? お味のほうは)


 黒の一番は返答するのにしばしの時間を要した。口に含んだカワゲラを無言のまま飲み込み終えると、悟ったような目を向けて、必要最低限の感想を告げた。


「格好つけて食べたけど糞まずいわこれ」


 よくテレビなんかでは虫を食べて海老の味がするだのと海産物にたとえるが、そんな味はしなかった。あえて言葉で表記するならば、なんと言えばいいだろうか。黒の一番は最も適切な言葉を考え、やがて閃いた。


「肉食動物の糞の味がする」


(食ったことあるのか?)


「いや、ないけどさ。でも風味自体なら前にどこかでこれに似たおえええええ…………」


 黒の一番は深いため息を付きながら答えた。こんな状況で密かに美味を期待したのが馬鹿だったのだ。


 フブキカワゲラは襀翅目。オグロカワゲラ科ユキカワゲラ属に分類される虫の一種である。学名:Tempestas nivis Plecoptera。


 分布

 魔王同盟連邦全地域とレグルス神聖王国北部、レグルス同盟国自治領北ヴェスプッチ・ヴィクトリア島、ヴァンクス島、アマテラス諸島カムイ島北部等。


 体格

 一般的なカワゲラが6mm~8mm.15~28mm程度なのに対し、このカワゲラは平均にして30~60mm程度の大きさを持つ珍しい種である。寿命は1年である。


 生態

 繁殖期は12~3月で、凍りついた川の氷に卵を埋める。その後卵は氷雪が溶け出した5~6月頃に雪解け水と共に下流まで流され、そこで羽化する。


 成虫は陸生だが幼虫は水生の虫。幼虫は黒と黄土色の斑点模様が特徴で固い甲殻と尾に鋭く長い2本の棘を持ち、小魚や魚卵などを捕食する。成虫になるのは地上が氷点下を下回る9月頃で、幼虫は地面と雪を掘って地上に出ると、その場で羽化する。


 成虫は黒い甲殻を持ち、尾の棘は短く丸みを帯びる。カワゲラの成虫の多くが羽根を持つが、この虫は羽根が完全に退化しており存在しない。


 また普通の虫は寒さに弱く、冬を過ごす際は冬眠などを行うがこのカワゲラはその逆で、寒くないと生きていけない。この虫の生息可能環境は幼虫の間は10~-10℃で、成虫は0~-70℃である。どちらにしても非常に熱に弱く人肌に触れていただけで絶命してしまった例もある。


 成虫は基本的に夜行性で月明かりを見て方角を理解し、卵が最初にあった川の上流へと向かうべくひたすら雪の上を歩き続ける。たとえ吹雪のなかであろうともろともせずに進み続ける。天候が悪ければ悪いほどこの虫にとっての天敵である小動物や鳥類がまともに活動できないためにチャンスであるのだ。昼の間は樹木の中や氷雪に潜り睡眠をとる。なかには太陽光を浴びて絶命する固体もいる。


 食性は幼虫と変わらず肉食だが、陸に住むがために食べるものは大きく変わり、凍りついた動物の死体などを食べるようになる。そうして無事川の上流までたどり着いた固体は満月の日に異性を探し合い、交尾する。だが、交尾の際にオスの多くが、エネルギーを必要としたメスに捕食される。


 オスは数匹のメスと交尾をした後に寿命で死亡する。メスはその後、上記のとおり時間を掛けて凍った川の氷を掘り進み、産卵すると寿命を迎える。


 フブキカワゲラがあえてこうした生態を選んだ理由は天敵の少なさが一つにあるだろう。成虫の移動の間も勿論のこと、卵の間も捕食されることはほとんどなく、雪解け水と共に移動する際も流れが激しく卵の捕食を望む小魚に食べられてしまうことはきわめて少ないのだ。


 人間とのかかわり

 フブキカワゲラがいる場所の近くには必ず川があり、古来凍った川を探し出すためにこの虫はとても喜ばれた。また、食料の少ない北方の村においてはこの虫の幼虫は大変貴重な蛋白源であり、珍味であった。幼虫は軽く焼いて野イチゴのソースを添えると気品ある甘みとロブスターのような味わいを生み出す。酒に漬けることで癖のある保存食品にもなり、交易の品としても高い価値を持つ。


 成虫は食べてもまずいので食べられない。食性によっては有毒で、誤飲した子供が死亡した例もあるので注意。

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