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忘却のクロノス・フロスト  作者: 終乃スェーシャ(N号)
一章:銀の花・銀世界
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異界の者



「起きなさい。黒の一番」


 冷たい声が響いた。黒の一番と呼ばれた男はぼんやりとした意識をじょじょに覚醒させながら辺りを見渡した。見覚えのない部屋だった。その部屋は窓もなく牢屋のように金属製の格子があった。ガチャガチャと弄ってみるも、開かない。しかし部屋自体は快適で、適温適湿。それに柔らかなベッドもあった。


「……あんただれ? いや、そもそもここはどこなんだ?」


 異様な状況に眠気はすっかり覚めて、彼は金属格子の向こう側で、腕を組みながら佇む少女に視線を合わせた。同時、常識が崩れ去っていく。


 いや、少女なのだろうか。身長はそれなりに高かった。医者が着るような白衣を薄紅色のブラウスの上に身につけていた。なぜか胸の下に黒いベルトを巻いていたが、それに意識を向けていると無愛想な面構えでこちらを見下すような金の瞳が一層鋭くなった。……気にしているのかもしれない。


 それだけならまだいいのだが、赤く燃えるような髪を腰辺りまで伸ばして、さらにその髪を分けて頭から小さな二本角が生えているのだ。


 さらには背中から髪と同じ竜のような深紅の翼、お尻の辺り、ロングスカートのなかからは尻尾が出ていて、ピロピロと活発に動いていた。造りもの? 否、あまりにも自然で、しなやかで、偽物とは思えない。


「ワタシの名前ですか。レーヴェ・アルトゥール。……レーヴェだとか、博士だとか適当に呼んでください」


 現実が受け入れられない。コスプレだろうか? しかしそうだとしてもなぜこんな場所に?


「ここはどこなんだ? お前は……誘拐犯か何かか?」


「いえ、あなたが望んだのではありませんか。世界に絶望し、自分を恨んでいた。勇気があれば死すらも許容できるほどに。洞窟と劇場のイドラに捕われて大学を卒業して学士を得ることが人生の目標であった哀れな人。けどあなたは現実を拒絶した。あなたがこの道を選んだ」


 竜の少女は、レーヴェは淡々と言葉を発した。まるでこちらのことをずっと見ていたみたいに好き勝手に語った。聞いているとじんわりと怒りが込み上げた。


「意味が分からない。家に帰し……」


 いや、帰れない。帰る家など消えてしまったのだ。こんな出来損ないを入れる家などあっていいはずがないのだ。


「帰りたいのですか? ワタシはチャンスを与えている。昔の名前を浅はかな人生観と共に捨てて、黒の一番として生きていく選択もできるのですが」


「だからそれが意味不明なんだ? 黒の一番ってなんだ? ここはどこだ?」


「ココハダイサン世界。オマエガイタ世界トハ別ノセカイ。……クロノ・イチバンニツイテハ、我ハ知ラヌ。イナ、理解ノ必要ガナイ」


 聞き覚えのある声がした。下手くそで聞き取りづらい日本語が響くと同時、空間が歪み、何も無いところから少女が突然現れる。


 玉虫色に輝く髪が揺れて、深紅の瞳が輝く。しかしその色はわずかな動きに合わせて波打ち、鮮やかな緑にも変わっていた。忘れようにも忘れることなどできるはずもない浮世離れしたその姿。……橋で花を売ってきた少女だった。


「い、今一体どこから……!?」


「ワレハ、一デアリ全ナルモノ。人共ハ我ヲ時空ノ神デアルトスル。我ガ名ハ、ヨグ=ソトホース。時空ヲ跨グコトナド容易デアル」


 発言の直後、彼女の髪が逆立ち、虹色の輝きを強めたかと思うと、その場から消えていた。そして背後からポンポンと肩を叩かれた感覚がして、ハッとして振り返ると彼女はすぐ背後に瞬間移動していた。少女はどこか自慢げに自身の服の裾を掴み、優雅に一礼をする。金属製の格子を越えて、……手品には見えなかった。


 黒の一番は唖然として、どうしようもなく言葉を失った。そこに付け足すようにリーヴェが口を開いた。


「そこの神様に手伝ってもらいまして、違う世界にいる生きがいを失って没個性化した哀れな男を一人連れて来てもらいました。花を貰ったでしょう?」


「……貰ってはいない。ちゃんと買った」


「揚げ足を取らないでください。とにかく、その花は資格です。そこの花瓶を見なさい」


 言うとおりに、テーブルを飾っていた花瓶に視線を向ける。そこにはヨグ=ソトホースと名乗った少女が寄越したあの雪のような花があった。しかしそれは蕾ではなく、白銀の花弁を開いて神々しく咲いていた。


「咲いているでしょう? 銀の花というのですが、それが咲くのはそこの融通の効かない時空の神に気に入られた証です。そしてあなたは過去を捨て、元いた時間と空間を断絶し、ここに来た。オマケにもう元の名前も思い出せないはずです。なにぶん時空の移動をするとそこの神が記憶を食べるものですからね」


 ……言う通りだった。いくら昔のことを思い出そうとしても、名前が出てこない。頭のなかにあるのは誰かへの罪悪感と虚しさ、何もできなかったという無力感だけだった。


「俺は、それで何をすればいいんだ?」


 途方もない出来事を前に、いままで築いてきた全てがぶち壊された虚無感はあった。けれどもどうしてか、この訳の分からない現実が嬉しくて堪らなかった。


「黒の一番、あなたのいた世界と違い、なにもかもが発展途上です。……あなたにはワタシの願いを叶えるために実験台になってもらいます。そして生物兵器になるのです! ふふふ……素晴らしいでしょう。実験し、有効な活用ができてこそ真理の道は開かれるのですよ。あなたには最強になってもらう。そうでなくては困るのですよ。黒の…………一番」


 リーヴェは薄気味悪い笑い声をあげ、ペラペラとまぁ饒舌にこれから人体実験をしてやると説明してくださった。……白衣の裾が寂しげに揺れていた。どうしてかその様子を見ていると胸が締め付けられる。


 黒の一番は助けを求めるようにヨグ=ソトホースの方を見るも、既に彼女はそこにおらず、得体の知れない危機感を前に、どうすることもできずにベッドに座り込んで、ただただため息をつくのだった。

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