死毒の怪血
「……大変だっただね。クロノ」
同情? 慰め? いや違う。ただただ優しい言葉が投げかけられて、増え続けていく心の重荷を軽くしてくれていた。ラーナは慈しむように柔らかな笑顔を浮かべた。けどそういった表情は苦手なのか、恥ずかしそうに尻尾を脚に挟んで、それから苦笑した。
そんな姿を見せられて、クロノは緊張の糸を解いた。肩に入った力を抜き、共に苦笑して、どことなく遠くを眺めた。心が緩み、安堵に似た心地を噛み締めた。…………油断していた。
――――ゾクリと、背筋を突き刺すような直感。咄嗟に全神経を、筋肉を動かして振り返る。真っ先に映ったのは刃……否、牙であった。遅れて、ポーラーワームの複眼の輝きが。あれは生きていた。死んだふりでしかなかった。炎では、熱を纏う化け物を仕留め切れなかったのだ。
そして、決定的隙を見せた瞬間に狙い済ました牙の一撃を放っていた。頬を衝撃波が通り過ぎて、切り裂いて、狙いが自分でなくラーナだと理解した。
心臓が握り潰されるような圧迫感。焦燥が全身を駆り立てて、声にならない絶叫をあげながら一撃を止めんと腕を伸ばした。――1秒にも満たない攻撃が、酷くゆっくりに見えた。乾いた空気を貫き刻む一撃を逸らそうと、渾身の力で通り過ぎる牙を殴打した。
頑強な金属を殴った勢いがそのまま拳を走り、骨が軋んだ。それでも軌道は大きく逸れて牙は氷雪を貫き砕いた。雪が舞い上がり、狂風が渦巻くさなか、クロノはすぐさま手をポーラーワームへ向けた。
炎では仕留めきれない。ならば――――雷鳴を。それでも足りないならば全てを凍らせる刃を注ぐ。確実に引導を渡すための魔法を想像し、腹の底から叫び唱えた。
「【氷刃霹靂】!!」
言葉の引き金が魔素を作用させ、ポーラーワームの上空、紫電が迸り巨大な氷の刃がいくつも形成されていく。それらは手を振り下ろした瞬間、全てを貫くように降り注いだ。蒼い甲殻はその一撃にさえも貫かれることはなかったが、着弾した周囲を白い霜が包んで凍りつかせた。
ポーラーワームは急速に身を包んでいく氷に抵抗し、肢を蠢かせ、全てを燃やすほどの熱を発した。しかしそれは自身を傷つけるに他ならず、凍結した部位もろとも破砕していく。
遅れて、避雷針のごとく反り立つ刃に向けて轟雷が落ちた。紫の稲妻は凍結した部位を走り、巡り、帯電していく。悶え苦しむ時間さえも与えないように、次々と刃を生成し、氷雷の雨を降らせた。連続的に続く冷気、落雷。クロノはトドメの一撃にポーラーワームと同等の大きさの氷刃を放った。それは外気さえも凍らせながら、限界を迎えていた甲殻を破砕し、地面さえも抉った。
衝撃が凍えた突風を生み出し、術者であるクロノ自身も凍らせるなか、最後の紫電が落ちた。それは稲妻と呼ぶには大きすぎるもので、魔法で凍った場所を全て呑み込むほど巨大な光線のようだった。圧倒的なまでの雷電。それはエネルギーそのものが消えうせても、しばしの間残響となって聞こえ続けていた。
紫電によって氷も消え、霞が空を漂っていた。ポーラーワームは全身を引き裂かれ、はたまた粉々になっていた。甲殻の大部分が溶けて流れてしまっていたが、それでもまだ生きていた。いや、生きていると言っていいかは分からない。放置すればいつかは死ぬだろう。だが、いまだ肢は蠢き、真紅の複眼は明確な殺意をこちらに向け続けていた。
だからクロノは虫の元まで歩み寄った。もう油断はしない。確実に引導を渡そうと思った。抉れた大地を踏み締めて、握り締めた拳をポーラーワームの頭部へと放つと同時、唱えた。
「【崩撃鎚拳】」
魔素が作用し、一発の殴打に爆発的な破壊力が掛かった。蒼い頭殻へ一撃をぶつけると砲弾のごとき轟音と、視認できるほどの衝撃が全てを揺らし、髪を翻せた。金属が打楽器のような音を響かせながら、亀裂を走らせて、いままでどれだけ殴っても壊れなかった甲殻は粉々になって吹き飛んだ。
その甲殻片は宙に舞って、月明かりを反射し、煌きながら雪へと沈んでいった。頭部のなかは既に崩壊していた。電光に焼かれ、揮発していても毒の影響はやはりあったのか、今も肉の艶かしい音を立てながら、外殻以外の部位は体液を漏らして、溶け始めていた。
頭部以外も同様だった。雪と土に異質な汁を染み込ませ、この場から甲殻以外の全てが消えようとしていた。今度こそ、死に際の抵抗さえできないだろう。……終わったのだ。
どっと、全身に疲労感がした。魔素がどういったものかは知らないが、もう立っていることさえ辛く思えるほどで、脚が酷く震えた。急激な睡魔にしばし意識は呆然とした。しかしラーナのことを考えると、すぐにではないものの意識は明確なものへと変わって、我に還って彼女の名を呼んだ。
「ラーナ! 無事か!?」
「わた、しは――――平気」
掠れた声が耳に入ったのと視界に彼女を映したのは同時だった。少女は蒼い瞳を充血させて、赤い涙を流していた。頬を伝ってぼたぼたと流れ落ちていく。小さな口からも狂ったように血が溢れていた。小さな手が弱弱しくこちらに伸びるも痙攣していて、やがてラーナは前のめりに倒れた。
その華奢な首からフードにかけて、数滴だが血飛沫が付着していた。周囲の皮膚は黒く変色してしまっていた。そこでようやく状況を理解できた。
「――――俺の血が」
ポーラーワームの生み出した風が皮膚を切って、血を撒き散らしていたのだ。それが、すぐ後ろにいた彼女に……付いてしまっていた。
「ラーナ! ラーナ!!」
血の気が引いていく感覚がした。最悪な事態が脳裏に浮かんで、戦慄が電光のごとく閃く。クロノは酷く青ざめて彼女の名前を懸命に呼んだ。しかし返事はなかった。ぴくぴくと全身を震わせて、血が流れ続けていくだけだった。
どうすればいいか分からなかった。……病院なんてない。村に戻るか? いや、無理だ。彼らになにができる。けど何もしなければ絶対にラーナは――――死ぬ。とてもじゃないがまともな状況じゃない。彼女を失うことが怖くて抱きしめたかった。けど体をゆすることもできない。皮肉なものだった。こんな力がついた所為で、誰よりも無力だった。
クロノは行き場を失った焦燥感と憤りをぶちまけるかのように一度、自分の頭を膝にたたきつけた。脳みそが揺さぶられて、視界が明暗した。走り抜ける鈍痛が行為の無意味さを訴えているようだった。しかしおかげで冷静さが少しばかり戻った。
「……っ! そうだ。魔法を」
藁にも縋る思いだった。理屈なんてあるかもしらない奇跡に願った。血が止まって、皮膚の異常が治るイメージを抱いて、唱えた。
「【翡翠癒光】!! 【翡翠癒光】!! 【翡翠癒光】!!」
何度も叫んだ。稲妻を、炎を出したときのようにその光景をイメージして、呪文を言葉にした。翡翠の光が少女の全身を包んでいた。明らかに魔法の効果は出ていた。その細い首に出来ていたドス黒い変色部は確かに元の色に戻っていた。血は止まり、痙攣もゆっくりと治まっていく。だが、治らない。
いくら唱えても彼女は目を覚まさない。前のめりに倒れたままで、白銀の尾も耳もぴくりとも動きはしなかった。言葉にできない絶望が胸の底で悲鳴をあげていた。ぽっかりと大きな喪失感の穴が心臓を穿いていく。
「ラーナ……!! 俺のせいだ……。俺が、俺が…………」
声が、息が震えた。目の前の抗いがたい現実を直視したくなかった。しかし、思いに反して目は見開いていく。強風がまた吹きつけていた。絹のように美しいラーナの髪が靡いて、生命を否定するかのように凍っていく。
「レーヴェだ。あいつなら……あいつなら治せる。パッシヴスキルとやらの理屈はあいつにしか理解できねえ。すぐにあの場所に行くんだ。研究施設に戻れ! それしか手はねえ!!」
これ以上手段はないと、諦めてしまいそうになった瞬間、勝手に口が動いた。ウィルソンの声だった。彼は諦めるなと、別の手段を口にした。けどレーヴェのとこへ行くことはもう考えていた。それが無理だと理解していたつもりだったから、どうすることもできないのだと嘆いた。
「どうやってだ…………。俺は適当に進んだんだ。わかるはずがない。臭いも、音だって無理だ。できるはずがない!!」
「銀の花だ! 咲かない花があればヨグ=ソトホースは招来される!! 俺はそれをずっと繰り返してきた! こうして――――精神が限界になってお前ができるまでな。思い出せ! 花はある! ラーナが言ってたろ! 思い出すんだよ!! それはお前の――――お前の記憶だッ!!」
ウィルソンの……否、『俺』の声が強く脳を揺さぶった。銀の花……今にも萎れてしまいそうだった蕾。この世界にくるときに見た弱弱しい時空の鍵。あの橋の下で受け取った花。それだけは覚えている。
――――『それでね、雪が溶けるか溶けないかってぐらいになると、こっから北にある神竜の丘っていう草原にね、銀色で、綺麗で、だけど咲かない花が咲くの!』
何気ないラーナの話を思い出した。薪のパチパチと燃える音。温かい馬乳酒の味。もともと忘れてなどいない記憶。
(思い出したな。安心しな。銀の花はあの糞女神に気に入られてれば問答無用で咲くぜ。だから走れ!! 服に血が付いてるならそんな服捨てちまえ! ――――行け!!)
言われるがままにぼろぼろで血塗れの防寒具など脱ぎ捨てた。体に付いていた血を雪と服で拭い取って、その辺に投げた。そもそもこの世界を彷徨ったとき防寒具など着ていなかったのだ。無くてもしばらくは死なない。
クロノは半裸になりながらラーナを背負い抱えた。少女の体は柔く、軽かった。熱は失せ始めていて、このままだと雪のように冷たく、そのまま消えてしまいそうだった。だが、まだ息はしていた。衰弱しきって、果てさせながらも吐息が耳を掠めていた。
「ウィルソン! 北はどっちだ!?」
(そのまままっすぐだ! 走れ!)
クロノはすぐに大地を蹴り上げ、見えない目的地へと駆け出した。雪に沈もうとする脚を伸ばして、肌を凍りつかせていく向かい風を突っ切った。
…………まだ間に合う。そうだ、レーヴェに彼女を治してもらって、そのあと全てから逃げてしまおう。もうあの村にもいられないのだ。どうせならいっそ、南に逃げよう。ラーナはきっと……海でも見たら驚いてはしゃいで、そのまま飛び込んでしまうに違いない。
最悪の想像はもう考えなかった。そんなことを考えれば脚の力は瞬時に抜けて、倒れてしまいそうだった。




