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忘却のクロノス・フロスト  作者: 終乃スェーシャ(N号)
二章:凍らない水・溶けない氷
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私を家に連れてって

「――――それでね、雪が溶けるか溶けないかってぐらいになると、こっから北にある神竜の丘っていう草原にね、銀色で、綺麗で、だけど咲かない花が咲くの! ……って、ねぇ聞いてるクロノ? ずっと上の空だけど」


 ……考え事をしていた。夕食も食べ終えて、椅子に座ったまま出された馬乳酒をやや音を立てて飲んでいた。そうしていると知らず知らずにぼんやりと、薪がパチパチと燃える音に意識を向けていて、ふと気付けばラーナは僅かに声を強めて怪訝そうにジッとこちらを見詰めていた。


 透き通った氷のように玲瓏たる青い瞳を向けられると、どうにも申し訳なく思う。さきほどまでゆらゆらと動いていた白銀の尻尾もピクリと動きを止めていた。


「ああ! いや! すまんすまん。それでなんだっけ」


 クロノが慌てて平静を取り繕うと、もう、とやや不満げに頬を膨らませつつ彼女は再び会話を始めてくれた。


「だーかーらー! 凄い綺麗な花が――――」


 …………竜姫レイアと黒の騎士アルトゥールの家に侵入し、逃げ帰ってからさらに一ヶ月が経とうとしていた。もしレーヴェのところにちょうど一年いたとすれば今は四月ぐらいだろうか。しかし氷雪はいまだ溶ける気配さえないが、それでも心なしか暖かくなった気もする。


 ――――あの夜以降結局、あそこへは行けずにいた。天候やらラーナのことを言い訳にして、どうしてもあそこに行くのが怖いから行かなかった。


 もう一度だけ立ち寄ろう……そんな脆弱な覚悟はいざ行動に出るとズタズタに傷ついて、寒さとは無関係に脚が震えてしまうのだ。


 クロノは考え込んであの家で感じた違和感を思い出すと、酷く顔を歪めて溜息をついた。同時、頬に痛みが走った。痛覚が一点に意識を集中させて、ラーナがそのあどけない顔を至近距離まで近づけていたことに気付き、クロノはびくりと硬直した。


 少女はどこか怯えた様子で目を伏せてしまっていた。雪のように白い髪を揺らしながら、その華奢な手でこちらの頬をつねって、やや強引に笑顔をさせられると、彼女もまたぎこちなく笑った。どう見ても作り笑いだった。


「…………悩み事なら聞くよ。ねぇ、教えてよ最近のクロノずぅぅっと! 思いつめてて……見てて辛いもん」


 酷く真剣な物言いで、寄り添うような声だった。少女の手は頬を抓るのを止め、小さな指が顔を撫でた。クロノは返答に悩んだ。理由も分からずただ思うがままに行動して、それで勝手に顔色を悪くして彼女を心配させていたのだ。そのことを改めて理解すると心の呵責が渦を巻いた。その所為で本当のことをどうしても言ってしまいたくなって、あの夜自らがした行いが喉元までこみ上げた。


「…………っえっと」


 クロノは咄嗟に濃くなった表情の影をポーカーフェイスで包み隠し、心のなかでウィルソンを呼び起こし尋ねた。……正直に話すべきか? と。だが彼は暗く狭い脳のなか、ヘラヘラと上っ面だけの笑みを浮かべていた。



 ――――ハハハ! ならいますぐハグして、そのあとチューしろチュー。それがいやなら俺に決断を迫るんじゃねえってな。この体はもうお前のものだぜ? 俺はいわば傍観者だ。横からちょろちょろって口を出すくらいしか能がねえ! 脳だけにな。ギャハハハハハ!



 不愉快な笑い声が頭のなかで響いた。やや冗談っけのある言葉遣いであったが、ユーモアの気配はない。彼もまた、いつもの調子とは言えなかった。こうして頭のなかで声が響く間も時間というものは確実に過ぎていて、クロノは奇妙な沈黙を着々と作り上げていた。……まだコップに残っている馬乳酒のチーズ臭さが酷く鼻に障る。


 ラーナはジッと見続けていた。その瞳には複雑に感情が入り惑い、普段の快活さというものを感じさせない。自らの両親がもういないことを告げたときと同じ目をしていた。……どちらが本当の彼女なのかもはや判断はつかなかった。


「…………私は、怒ったりしないよ」


 罪悪感が心臓を突き刺すような痛みを発していた。それでも知らないふりをしようとしたら、吐く息が震えた。少女のか弱げな言葉に共鳴するかのようだった。刻み刻みに訪れる沈黙が薪の音を際立てるなか、とうとう堪えきれなくなって、クロノは椅子を倒すほどの勢いで立ち上がった。ガタン! と滑稽な音が背後で鳴って、その音に驚いて二人は同時に肩を揺らした。


「クク…………」


 つい一瞬前まで緊迫した空気が張り詰めていたというのに、ラーナはその強張った表情を緩めクスクスと笑みを零した。釣られてクロノも失笑してしまうと、肩の力を抜いて、正直に答えることにした。


「……ええと、その、行ったら駄目って言われてた家あったろ。あそこに行ったんだ。……何か思い出すような気がしてそこに行ったんだ」


 だが、最初に会った際に言った記憶喪失に関する嘘は伏せた。あれを今言っても混乱するだろうし、ラーナは怖がることはないだろうと思いつつも、凶暴なドラゴンさえも殺すこの力を披露するのは躊躇わざるを得なかった。


「ふーん…………私に黙ってそんなことしてたんだぁ……」


 ラーナは隠しようもない得意顔を浮べながら尾をわさわさと揺らし立ち上がると、さも弱みを握ってやったぞといわんばかりに芝居がかった口調で言い寄った。一転して綽然とした態度となった彼女に対し、クロノは僅かな安堵を感じつつもたじろぎ、後ろに下がった。数歩して背に壁が当たった。


「本当にすまないと思ってる。……傲慢な奴と思うかもしれんが許してください」


 思わず途中から敬語になって、浮気がバレた夫のごとく平謝りすると、ラーナは悪戯が上手くいった子供のように、嬉しくて堪らない様子で笑った。感情の揺れに呼応して耳が小刻みに揺れていた。


「ふふん! ようやく正直に白状したね。まぁクロノが起きてどこかへ行ったのは知ってるし、見てたんだけどね。ほら、寝言で待って……! どこ行くの…………! って」


「――――起きてたのか? けど寝てるときと変わりないようだったが」


「だって男の人と一緒で怖くないわけ無いじゃん。いままでずっとクロノが寝るまで寝たふりだよ」


 少女はそう言って頬を僅かに赤らめたが、そのことについてあまり気にしていないような、そう思わせる口調だった。が、考えてみれば数秒で寝付けるなどおかしなことであったのだ。それにラーナの言っていることは至極まともだ。むしろどうしてそこまで気が回らなかったのかが分からない。


 クロノは嫌な汗を掻きながら再び口を閉ざした。罪悪感に自分の至らなさに加えて恥ずかしさも混じって、酷く神妙に顔を歪めた。相手がレーヴェのような捻くれて非道な奴ならまだどうにか言えただろうが、ラーナ相手にそれもできなかった。


「まぁ2ヶ月も一緒にいて大丈夫だったしもう普通に寝てるけどね。……もしかして私女として魅力なかった?」


「いや! そんなこと――――」


 尻尾とか耳がモフモフしてて可愛らしいだとか、髪が雪みたいで綺麗だとかそんなことを咄嗟に言おうとしたが、ラーナは満足げにニヤつきながらその言葉を言葉で遮った。


「大丈夫! 温泉のときの反応で少し自信は持ててるもん。そんなことよりクロノ! 一つお願いがあるんだけど……いいかな?」


 断れる権利などもはや持ってはいない。クロノは達観しつつ返事の代わりに頷きを示した。


「私も一緒にレイアとアルトゥールの家に連れてって!」



 ――――記憶の結び目が、酷く絡まった紐の一つが再び解けようとしていた。

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