虚無僧
私が小さい頃はまだ虚無僧がいた。
それはいつも地下の通りにいた。
人通りが多くて合理的だった。
そこを通るのはいつも休日の土曜、日曜だったから、他の日にも虚無僧がそこにいたのかは知らない。
その頃の私は虚無僧という名前も、どういうものなのかも知らなかった。
何かをしているのも、されているのも見たことがなかったからだ。
尺八を吹くでもない。鈴を鳴らすでもない。
それは、立っていた。
ただ足下に黒い、大きめのデコボコした茶飲みが置いてあったので、茶でも煎れてくれるのだろうと思っていた。
それを見るのはいつも両親に連れられて出掛ける時だった。夕方の帰り道にはいつもいなかった。今でも私は虚無僧と、休日の家族での外出とを切り離すことができない。
地元を離れてからしばらくになる。その間に私は虚無僧のなんたるかを知った。それらが笛を吹いたり、鈴を鳴らしたりすることも知った。
帰省の折に、あの地下通路を訪れた。駅は近代的になっていたが、ここだけは昔のままだった。
土日に訪れても、虚無僧はいない。
平日に訪れてもいない。
何度いってもいない。
きっとどこかへ行ったのだろう、私はそう信じたい。
ここは昔よりも暗くなった気がする。しかし床に座り込んだ若者の弾くギターの音は、今も昔も地下に響いている。
なにか決まりでもあるのか、彼らは皆同じ場所に座る。
虚無僧が立っていた場所に立ってみると、虚無僧のことが少しだけ分かった気がした。