ぱろぱろ
「ぱろぱろ。」
「何それ。」
「“ぱろぱろ”は“ぱろぱろ”なの。」
「奈津はわかっても俺がわかんないだろ。」
「いつかわかるよ。絶対わかる。」
そんな会話をして、奈津の言葉を理解できたことは一度もない。彼女は生粋の日本人だ。もちろん日本語を喋る。彼女は何か変な言葉を思いつくと、必ず彼にぽつりと呟く。
大学サークルで出会ったのだが、初対面の頃からこれだけは変わらない。何か思いつき嬉しそうにすると、どこかを見つめながら呟く。彼女は変人であるかのように扱われていたのだが、これらの言葉に対して興味を持ってしまった彼もまた変人として扱われていた。彼が彼女の言葉に興味を持ったということに気づいてから、彼女も彼に懐くようになる。そのまま周りにお似合いだと推され、流れで付き合い始め、動物のような彼女の行動に新鮮な毎日を送るまでなった。
いつの間にか彼らは四年の時を共にしていた。結婚をしているわけではないが、同棲をしている。特に喧嘩や争いが起きたことはなく、平和に四年を過ごしてきた。
「でもなんか“ぱ”ってかわいいよね。響きが。」
「半濁音?」
「んー。なんか半濁音って言うとかわいくないなぁ。」
奈津なりに音自体に雰囲気を感じとっているようだった。か行は固い、ま行は柔らかい、ら行は転がっていく…だんだんと意味ががわからなくなり、奈津ワールドが広がっていく。彼もそれに対して共感できたことはない。
これが彼女の言葉遊びであり、趣味なのだ。この彼女独特の言葉遣いが好きで傍にいる。もちろん彼女自身も素敵な女性だ。自慢の女性だ。
「でも、“ぱぴぷぺぽぱぴぷぺぽ”ってくりかえすとかわいいよね。」
「言い辛そ。」
ぱ行はとても言い辛い。早口言葉になってもいいくらいに言い辛い。途中で噛みそうになるというよりは、唇がもたつくような感覚を覚える。
「うん。すっごく言い辛い。」
奈津の困ったような笑顔を見る。ころころと変わっていく彼女の表情は見ていて飽きることがない。老いることを知らない子供のように無邪気な目、豊かな表情、この四年でまだ見ていない表情はたくさんあるのだろう。
「ぱろぱろぱろぱろ。」
彼女が繰り返す。その真面目な表情が愛おしい。
「奈津語録が増えたな。」
「えへへ。」と彼女は笑った。
「ぱろぱろか。」
「うん。ぱろぱろ。なんかかわいい。」
奈津が咄嗟に机の上のテレビのチャンネルを取り、変える。ニュース番組が世界の文化を伝える番組へと変わった。
これは奈津の好みの番組で、世界のさまざまな国の人々の暮らし、文化を伝えるというものだ。電車で国境を越え、世界遺産や風景、市場の様子を映していく。その国の住人の言葉や料理を見ることもできる。“このテレビ番組を見ているだけで世界旅行ができるんだ。”と奈津は言い張っている。
実際に奈津は海外に行ったことがない。海外のことを伝えるテレビ番組を見るのは好きらしいのだが、わざわざ海外に行こうとまでは思わないようだ。周りの女性達は海外への夢や国際結婚への希望を語るが、彼女は違った。ただ日本が居心地よいらしい。
独り言のように奈津が呟いた。
「見てるだけで満足なんだよねぇ。」
「行きたくないの?」
「行きたくないっていうか、めんどくさい。」
奈津の典型的なめんどくさがりが発動している。旅行に行こうと言えば、のってくるがそこら辺を散歩する程度で満足してしまう。人混みやうるさい場所は疲れてしまうそうだ。ただのんびりとしていることが好きのようだった。大きな変化や激しさを求めることはなく、安心感や温かさを彼に求めた。
彼女は真面目に「変わらぬ想いが一つあればいい。」とつきあいたての頃に言った。それが愛情でも友情でも人情でも何でもいいと彼女は呟いていた。その彼女の考え方を聞いて、しばらく思い悩んでしまった時期があったのも確かだ。彼女は自分に何も期待していないのではないかと、彼女の思いに疑いの目を向けてしまったこともある。
だが、長い間、彼女と一緒にいて、そうではないと思えるようになってきた。奈津は何も求めていないのではない。ただ自分を想ってほしいと願っている。
「奈津。」
「どしたの?」
彼女独特の言葉遣いが返ってくる。言葉自体が間延びしなくて、ハキハキと歯切れがよく、心地良い。
「奈津が言った“変わらない想いがあればいい”の意味、教えて?」
奈津がぽかんとした表情で彼を見る。
「そんなこと、言ったね。だいぶ前に。」
「忘れるわけないよ。」
「…覚えててくれたんだ。」
彼女は無邪気な笑顔を彼に見せ、そのまま俯いた。珍しく耳まで赤くなっていた。どうやら照れ隠しらしい。
「そのまんまの意味だよ。普通の日本語だし。…あたしのこと想ってくれる気持ちだけは変わってほしくなかった。あの頃も、今も。離れていっちゃうのが怖かったし。でもあなたはあたしから離れることなかったから、安心できたんだよ。」
バレンタインの日にアップしたかったのですが、気力が持ちませんでした
ちょこっと幸せそうな人を書きたかったのですが、どこか哀愁が漂っている気がする…
気のせいでしょうか