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七夕 前編

作者: 賀茂史女

伊那様主催の和風小説企画の参加作品として書きました。

一部、表現や表記に不備があり、企画後は非公開としていましたが、手直しして再公開いたします。

ご注意頂きたいことは以下の四点です。


登場人物は歴史上の実在人物であり、歴史上の出来事を背景としていますが、この物語はフィクションです。


この小説はUTF-8で書かれていますので、Shift-JISでは表記できない漢字が多く含まれています。文字エンコードはUTF-8でご覧頂くことを推奨します。


携帯電話でご覧いただくと表記できない漢字が空白となることをご了承ください。


InternetExplorer準拠のブラウザでご覧になる方は、ぜひ縦書き横書き切り替えで、縦書きでご覧ください。

聖武帝の御代

天平九年(737年)

この年は、志貴皇子の子、白壁王にとって、慶び多き年となった。

年齢(よわい)(この時29才)からすれば遅い初叙位ではあったが、初春の叙位で従四位下を戴き、長く睦まじくしてきた夫人との間に初めての男児を授かった。

大和国、高市郡を本貫地とする今来才伎(いまきのてひと)の、和史乙継やまとのふひとおとつぐの娘、新笠にいかさを母とするこの孫王は山部王(やまべおう)と名付けられ、和史氏の宗家の邸宅で、姉の能登女王(のとのひめきみ)と共に恵まれた幼少期を過ごした。


天平十六年(744年)

初春

山部王は徒打毬(かちのうちまり)と半弓の好きな活発な少年に育ち、初めて己の鷹を与えられて舞い上がらんばかりに喜んだ。

この頃、大君(おおきみ)蒐狩(しゅうしゅ)のため次々と御座所(おまし)を移しており、官民は恨めしくも訝しく思うことしきりだったが、年端も往かぬ山部が何を思い煩うでも無い。

年が明けて間もなく、山背国恭仁宮(くにのみや)で大君の唯一の男皇子、安積親王が薨去されたが、そのことが己の運命に大きな影響を及ぼすなど、山部には夢思うところでは無かった。

安積親王の姉、井上内親王(いのえのひめみこ)(このとき27才)は大君の一嬢(いちじょう)(長女)であり、長く伊勢の斎王を務められてきたが、この弟皇子の死で斎王を退がられた。

大君は世上を知らず育ったこの内親王を不憫に思われ、誰か良き婿がねをと考え、白壁王(このとき36才)に託された。

井上のために、大君は平城の都の宮に程近い上京(かみぎょう)に住まいを定められた。

位階を二品へと進められた内親王を娶るとあって、白壁王は細々と気遣いして井上を迎えた。

長く白壁王に馴れ親しんできた新笠(にいかさ)は、そんな()の君を慮り、様々に思い悩むところはあったが、思い出深い高市から、母方の山背国大枝の土師氏の邸へと住まいを移した。

八歳(はちとせ)(七才)ばかりの山部には、この顛末は理解できなかった。

だが母が愁い顔で打ち沈んで、時折は隠れて涙を拭う姿など、子が望むはずも無い。

さらに邸の雑徭や、端女、父の資人(すけびと)、姉までもが、王は新たに貴い妃を迎えるから、夫人(おおとじ)が遠ざけられるのだなぞと、囁き交わす声が耳に入り、山部は大層腹を立てた。

なぜ貴い身分の妃に遠慮して、母が遠ざけられるのか、まだ頑是無い山部には腑に落ちなかった。

平城の宮から井上が住まいを移った日、迎える白壁王は嫡子である山部を伴った。

新しい父の妃の、如何にも身分高く、瑞々(きらぎら)しい姿を眼にし、挨拶するよう促された時、山部は教え込まれた挨拶の言葉を全て忘れ、父と井上に直裁に憤りをぶつけた。

「なぜお二人とも吾の母様を邪魔になさるのです。母様は泣いておられました。なぜ遠くに遣っておしまいになったのです」

いきなり立ち上がった山部が、小さな拳を握りしめて訴える姿に、白壁王は仰天し、井上は呆気に取られた。

いかな幼子と言っても、初めてまみえて面と向かってこの剣幕に井上は鼻白み、団扇の影で「気性の(こわ)いお子と見えますね」と呟いた。

白壁王は狼狽えながら、どうにかその場を取り繕い、山部は散々に説教を喰らったあげく、母と姉の居る山背に遠ざけられた。

稚い心には、父さえも母の生まれを疎んじているのだとしか思われず、この時の山部の胸の内には父への敬愛は跡形もなく失せていた。


山背国乙訓の大枝は山崎津の北、北摂の山並みに西を守られ、松尾の山の南に開けた緑豊かな地だった。

南の山崎駅舎(やまざきのうまや)の近在には、父方の親族である湯原王とその子、壱志濃王(いちしのおう)が住み、山部が大枝に住むようになってからは殊に親しく往き来するようになった。

山崎の南に広がる交野は、古くからこの地を封地とする百済王(くだらのこにきし)氏の本貫地であり、丘陵の高台には宗主の百済王敬福の邸宅が構えられていた。

百済王氏は和史(やまとのふひと)氏とも土師氏とも所縁深い氏族ということもあり、外官を歴任する敬福に変わってこの地を預かる理伯から、山部は母と共に度々招かれて饗応を受けた。

敬福の子、理伯は多くの子に恵まれており、中でも山部よりやや年若な俊哲(しゅんてつ)は、山部にたちまち親しみ、山部は再び思い煩うことの無い日々を得て、魚釣りや鷹狩りに興じ、伸びやかに成長していった。

父白壁王も、たまさかには大枝を訪れ、そんな日には、壱志濃王の父湯原王が招かれて、伏見の秦氏の醸す強い酒でささやかな酒宴となった。

壱志濃王の父母、湯原王と海上女王(うなかみのひめきみ)は白壁王の異母兄弟に当たるが、海上女王は既に亡かった。

湯原王自身は父である志貴皇子の歌才を受け継いだものか、若い頃から和歌(やまとうた)をよくものした。

歌を通じて井出左大臣(橘諸兄)とも交流が深く、山背に隠遁してからも、大臣おとどとは折り節に便りを交わしていたが、およそ政とは縁遠く暮らしを営んでいた。


天平十七年(745年)、春に三日三晩も揺れ続いた大地震が起こった後、様子を案じて大枝を訪れた白壁王は、家族と親族の無事に安堵して気が緩んだものか、湯原王と二人、深更まで話し込んだ。

白壁王が「ここだけの話だがな」と語りだした宮の有り様に、湯原王も眉を潜めて聞き入った。

「大君の御座所は定まらず、大君と太上帝(さきのみかど)の間にも溝が生まれているように見受けられる。皇后も何かしらお考えがおありと聞く。大君はどうやらいま一つの宮を起こし、み仏のお姿を写した大きな像をお造りになられたいようだが、さて何処にお造りになられるおつもりか」

湯原王はこの数年間に大君が遷り住まれた宮を指を折って挙げてみた。

平城(なら)、難波、恭仁(くに)紫香楽(しがらき)か。いずれもお気に召さぬようだが、こう都遷りが度重なっては扶持の少ない官人なぞたまったものではあるまいな」

「有り難いことに、この大枝の土師氏は仏像の勧進で潤うだろうがな」

白壁王は更に声を低くした。

平城(なら)も大君のお留守で寂れてきた。井出左大臣もさぞお困りだろう。あれでは聖人君子といえども到底人らしい心では居られまい。どうにか争い事とは関わり合いを持たずに済ませたいものだ」

白壁王の声音はほとほと嫌気がさすと言いたげだった。

「主だった群臣の誰も彼もが皇家と所縁を結ぶ事に窮々としているようだが、皇太子(ひつぎのみこ)内親王(ひめみこ)であらせられれば婚姻とは往かぬ。それで次期皇太子に望みをかけて、誰になるかと腹の探り合いばかりだ。長屋王の前例もあることだ、今思えば先の安積親王も果たして真に病だったのやら」

腕組みをする白壁王に、湯原王は嘆息混じりに「ただ生きて行くだけでも大層難儀なことのようだな。王も気を付けられよ」と言った。

「ああ、もの一つ言うにも憚りの多い世になってしまった。いっそ葛城王様(橘諸兄)がそうされたように、王の名を捨てて臣として生きるが楽であろうかとも思うが、内親王を戴いてはそれも叶わぬ」

白壁王は苦笑いを浮かべて土師器の碗をあおった。

「何より吾には学も才も無い。せめて山部は早い内から書に親しませたいものだ。そうだ、あれに漢籍など手解きしてやってはもらえまいか」

湯原王は酒を注ぎながら「無論できるだけのことはしようぞ。吾ごときではさしたることはできまいが、山部王は賢しそうだ。壱志濃王なぞより余程良き学び手となろう」と笑った。

山部は年上の従兄弟、壱志濃王とともに湯原王から漢詩や記伝(史学)、和歌を学び、殊に漢詩と史書に興味を持った。

自身の和歌の才の不味さは身に染みて感じたが、読むのも聞くのも楽しかった。

山部はじきに湯原王の知識の範疇を超え、湯原王は百済王理伯に、山部の為に蔵書を貸してやってくれと頼んでくれた。

大陸の歴史にも学問にも造詣深い百済王理伯からは儒学を奨められた。

理伯は山部のためにいつでも書庫を開いて、山部が行き詰まると、時間が許す限り読み説いて教示してくれた。

書庫では時おり、俊哲の姉、明信(みょうしん)の姿を見かけた。

薄暗い書庫で、華やかな装束の明信の姿は場違いなものに思われたが、物静かな立ち居振舞いのこの娘が気に障ることはなかった。

理伯は山部の漢籍好きを高く評して「ここでもすぐ物足りなくなられましょう。いずれは侍講を得られて、大学寮を目指されては如何です」と奨めてくれた。

書よりも鷹狩りが好きな壱志濃王は、訪れた年下の従兄弟が文台に向かっていると、様々に揶揄し、どうにか邸内から連れ出そうと試みたが、往々にしてつれなく断られてむくれた。

「山部がそれほど漢籍好きなら、吾は良き方を知っているぞ。蔵書も多く、造詣も深いと聞く」

山部の気を引けない壱志濃王が、ある日思い付いて言い出した言葉に、山部は年上の従兄弟の顔を改めて見た。

「誰だ。どこに居る」

「山部よ誰なぞ言うな。お前は知るまいが、その方は大学頭(だいがくのかみ)も勤められた明教博士(みょうきょうのはかせ)ぞ。儒学の道では礼を重んずるのだ、どなたと言え。ただいまは難波の宮にお出でだろう。東宮学士であるからな。先の遣唐留学生で入唐廻使(にっとうかいし)、名は吉備真備(きびのまきび)

壱志濃王は自慢げに「井出左大臣から聞いた」と締め括った。

宮の事に疎い山部には、壱志濃王の話は半分も理解できなかったが、おいそれと会えるはずも無いとは判った。

「どうやって教えを乞うのだ。会えもしないではないか。王はただ己が知る事を自慢したいだけだろう」

山部が向かっ腹を立てて立ち上がると、すかさず壱志濃王は「今から難波まで行けばよかろう。船で下ればすぐだぞ。ちょうど吾は釣りに行きたいと思っていたところだ」と小賢しげに言った。

山部は壱志濃王に言いくるめられて、船に載せられた。

緑の木陰に包まれた小畑川を山崎津まで下る途中、壱志濃王は膝を打って「おお、そうだ。今思い出したが大君は難波から平城へ戻られたのだった。東宮も共に遷られたろう。難波に行っても無駄足だ」と言い出した。

巧く図られたと気づいた山部は怒って、狭い小舟の中で立ち上がろうとした。

船は大きく揺れ、危うく覆るかと思われるほどで、山部は資人と壱志濃王に宥められて、やむ無く腰を下ろさざるを得なかった。

結局、その日は木漏れ日の下で釣り糸を垂れ、二人は釣れた魚の大きさを競ってまた口争いをしたのだったが、吉備真備の名はその後も長く、山部の記憶に留まった。


平城の都では大君の発願された盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)の建造が日々進んでいたが、やがて健康を損なわれた大君は、皇太子阿倍内親王に御位を譲られた。

御代譲りから一年が過ぎた天平勝宝二年(750年)。

左衛士督(さえじのかみ)となっていた吉備真備が太宰の(そち)となり、遠く太宰府へ下向したと父から聞いて、山部はひどく落胆した。

父が言うには、次期遣唐使の副使として吉備真備の名が挙げられており、おそらくは太宰府からそのまま唐へと向かうのではあるまいかとの事だった。

大陸に渡れば、いつ還れるかなど知れたものではないだろう。

現に吉備真備とともに、遣唐留学生として唐に航った安倍仲麻呂は、科挙で優秀な成績を修めて唐の中央官人に登用され、未だ帰朝していないと聞く。

肩を落とした山部を見て、白壁王は笑いながら慰めた。

この度の渡航は留学生としてではなく、明確な使命と帰還の期限がある。

その任が果たせれば、早々の帰還となるだろう。

山部は遥か大海の彼方の唐の都と未だ見ぬその明教博士を思った。

(さき)の左衛士督は大君の覚えも目出度いと聞く。

下級官吏の子として生まれ、大学寮でその優秀さを認められて遣唐留学生となり、長く唐で学んだという吉備真備の来歴は、山部にとって一つの道標だった。

自身のような末孫王でも、学を修めればいつか大海を航り、唐の都に足を踏み入れ、その有り様をこの眼で見ることを望めるかも知れない。

この年、母、新笠は男児を産み、山部には弟となるこの男児は早良王(さわらおう)と名付けられた。

十四歳(13才)となった山部は少しずつ物の道理をわきまえ初め、人の心の機微なども知り、父の労苦も知れるようになっていた。

人の心には様々な襞があるものだ。

志も野望も謂わば同じ「欲」だ。

ただそれが多勢の利を思うか、己の利のみを考えるかで天と地ほども違ってくる。

そして原動力となる志がいかに高くとも、利が生まれるところには、必ず妬みや嫉みが生まれる。

山部は己の心の動きを深く探れば、同じものが自身の内にもあるのだとよく理解できた。

多くの者にかしずかれる王族や高官でも、白丁(無位無冠)でも、百姓(庶人)であっても、奴婢であっても、そう、例え大君であっても、人であれば同じに決まっている。


壱志濃王はこの頃、盛んに(おみな)の話をした。

近在の豪氏の娘のことなぞ面白おかしく品定めして得々と語ったが、壱志濃王が俊哲の姉、明信を評した時、山部は大層不愉快な心持ちになった。

俊哲は膝を打ち、愉快そうに「姉者は気が(こわ)すぎる。父者は随分望みをかけているようだが、あれではきっと妻問いなぞ端から断って、(おうな)になるまで独りに違いない」と笑いだした。

壱志濃王は、吾は気に入った娘がいれば床に侍らせているなぞと得意気に吹聴していたが、山部はまだそんな気持ちになったことは無かった。

明信のことも壱志濃王はただ「見眼佳い娘だとは思っていたが、この頃胸なぞも豊かになって艶めいてきた」と語っただけだ。

理伯の邸で幾度かは言葉を交わしたこともあったが、山部にとって明信は、これまではただ俊哲の姉というだけの存在だった。

だが壱志濃王の口から語られる明信は己の知る明信とは違うように聞こえた。

誰かの口から知った風に明信の胸のことなど聞かされて面白くなかったものか。

これも妬みの一種だろうと山部は思った。

山部にはまだ、年頃の娘より、書や鷹狩りの方がよほど面白かった。

大学寮に入寮できる年齢は令によって齢十三歳以上、十六歳以下と定められている。

大唐に航ることを思えば、山部の気は大学寮へと逸るばかりだった。

弟が生まれたことも、山部には己の身を軽くしてくれる吉兆のように思われた。

だが山部の望んだ大学寮入寮に父が首を縦に振ることはなかった。

吾子(あこ)が唐に航ることは吝かではないが、何も大学寮でなくとも学ぶことはできようぞ」

それでも父は山部のために侍講を探してくれ、山部は不承不承、儒学の心得深く、唐の言葉に長けたものをと望んだ。

それでも考えようによっては己は恵まれているのだ。

孫王と言えども扶持のある父のもとに生まれ、豊かな家柄の母を持ち、己の事だけ考えていても生きていける。

孔子は人が生きる途を探し求めることに人生を捧げたが、長く貧窮の中にあり、時には志のために命の危険をも伴った。

孔子の生きた時代と情勢を思えば、今のこの国とは大きな開きがあるが、人の心の動きは変わらない。

取るに足りない小さなものであっても、人が生きていれば必ず感情が動き、それが人の営みに影響を及ぼし、遂には国を揺るがす大きなものともなるかもしれない。

これはきっと、時代にも国にも変わり無く、人の歴史が始まった時から普遍的にそうなのだ。

壱志濃王にその話をすると、壱志濃王は感心したように「山部よ、(なれ)に今そう言われるまで、吾は論語をそんな風に読むとは考えてもみなかったぞ。難解で堅苦しい格言ばかりが並び、凡夫に出来もしないことをああせよこうせよと煩く強要する書物だと思っていた」と答えが返ってきて、山部は壱志濃王の言いように大笑いした。


遂に盧舎那仏像はその偉容を顕し、平城の都で華やかに大仏開眼供養会が行われた。

その二年の後、天平勝宝六年(754年)。

十八歳(17才)となった山部は井上内親王が父白壁王の子を出産したと聞かされた。

今の山部には、井上内親王の立場も理解でき、あのときの己の振る舞いが、幼さゆえとはいえ浅ましく心ないものだったと悔やまれた。

大君は敢えて王族の妻を持たない父を選び、内親王の位階を上げて託したのだ。

だが度重なる都遷りや、宮の内の暗然たる政争に恐れをなして、父は井上内親王を重くこそ扱えど、さして馴染んでいないように思われた。

父の話から察するに、井上内親王の妹君、不破内親王は、塩焼王を背の君とされており、この塩焼王はどうも己の皇家の血筋に拘りがあるらしい。

穏健な父は出来る限り障り無いよう、そうした王族を回避しているのだろう。

生まれたのは女児であったと聞いている。

ならば尚、井上内親王は心細い思いをしているのかも知れない。

女児は酒人女王(さかひとのひめきみ)と名付けられたと聞いた。

山部は相変わらず、漢籍に親しみ、唐の言葉を学び、俊哲や壱志濃王と共に鷹狩りに興じる日々だった。

このところ、乙訓の秦氏の邸で育っていた藤原式家(不比等の三男、宇合を祖とする)の傍流の子、種継(たねつぐ)もそこに加わった。

俊哲は種継のことを腹の底が見えぬとあまり好まぬようだったが、山部は種継が王族から常に一歩退いた振る舞いをとることにいたく感心した。

種継の父は、藤原宇合の長子、広嗣の起こした乱に連座して早逝した。

生き永らえた他の兄弟たちは罪を赦され、再び平城の都で官人として大君に仕えていたが、命を落とした種継の父は官位は剥奪されたままで、復位は無かった。

その為か、種継は、自身と同年輩でありながら、余程大人びて見えた。

入唐僧弁正の子、秦朝元を祖父に持つこの若者と、山部は好んで礼記や史記について論じた。

「こうして史記など繙いていると、君子であれ、庶人であれ、人はよくも同じ過ちを繰り返すものだと思わぬか?。思うに天下の人は皆、その性状において等しいのだろう。それが王族や高官であっても、庶人であっても、違うのはただ、生まれた後に得られる知識の違いだけではあるまいか」

山部が言うと、種継は笑いながら「では真に貴いのは知識で、姓を持たぬ庶人でも知識を得れば王族高官になれると言うことになりますね」と言った。

山部は頷いて「ああ、だから王族高官から公民までを一括りに百姓(ひゃくせい)と呼ぶのだろう。戸籍も班田も、本来は搾取の為ではなく、公民(おおみたから)を国政の担い手として、律令を啓蒙していく意味が有ったはずだ」と答えた。

種継が驚いて見張った眼を見返して、山部は「今やすっかり形骸化しているようだがな」と結んだ。

種継は暫し口許に手を当てていたが、やがて「それは(みこ)ご自身のお心から出たお考えですか?」と訊ねてきた。

「ああ、そうだ。どうかしたのか?」

聞き返した山部に種継は「秦氏には上宮太子の口伝とされる言い伝えが残りますが、公民について、今、王が仰ったと同じような事を聞いた覚えが有ります」と答えた。

山部には意外なという程度の事だったが、種継はいたく感銘を受けた様で「王はご自身ではお気づきでないようですが稀有なお考えをお持ちの方です。王とお会いできたことは吾にとって大きな喜びです」と敬意のこもった声で言った。

山部は近頃、よく将来のことを考えた。

無位無冠で良いと豪語する壱志濃王は()を迎えようかと考えているらしい。

俊哲の父、理伯はこの春の叙位で従五位下、摂津亮(つのすけ)となったこともあり、俊哲は数年後には父の穏位で舎人にでもなって出仕が始まるだろうと言った。

文官の家柄に在っても、邸にじっとしているのが性に会わないらしい俊哲は、胸中武官を志しているものか。

孫子を読むのに行き詰まって山部に示唆を求めてきたりもした。

山部はと言えば、この四年間、幾度か遣唐留学生のことなど父に仄めかしてもみたが、父は渋い顔で「今は時宜がな」と曖昧に答えるばかりだった。

種継は宮の内のことをよく心得ていて、白壁王が口を濁す理由を障り少なく、且つ端的に言葉にしてみせた。

「高宗が在りながら武則天が政を行うが如し、とでも申しますか。何事も御簾(みす)の内の意向を伺わねば事が運ばぬそうです。学舎(まなびや)で積んだ学も活かされなければ意味がありますまい。同じ紫を纏う藤でも今はその色の濃さには大変な開きがございます。後はお察し下さい」

山部は「成る程な」とだけ答えた。

皇后と紫微中台の噂は山部も耳にしたことがあった。

紫微令は藤原南家(不比等の長男、武智麻呂を祖とする)の次男坊で、宮の内で暗然たる権力を振るい、政敵に容赦無いと聞いている。

種継には確かに信ずるに値する才覚があると、この時山部は確信した。

科挙制度のないこの国では大学寮で学んだところで、その労苦は報われること少ない。

朝堂を二分するような権力闘争の最中ではましてだろう。

先に唐へと航り、鑑真和上の招請を果たした帰朝の一行に吉備真備も含まれていたというのに、新春の叙位が終わるが早いか、まるで都を追われるように新たな任に着いて太宰府へと赴いたと山部は聞いていた。

隋も唐も、国力が栄えたのは良き官人に恵まれたからで、それは取りも直さず、志し高く優秀な官人を選び出す制度があったからだろう。

だがこの国では、未だ限られた氏族が実権を握って手離すまいと、様々に謀っている。

吉備真備に対する人事は、その象徴のように思われた。

留守がちな理伯に運良く会えた日、理伯は山部に、吉備真備がもたらした報告の中から、唐の皇帝の寵臣について、面白おかしく語って聞かせた。

胡人の軍人上がりの官人が、皇帝の寵妃の養子となる事を望んだ。

わざわざ大きな揺りかごを造らせ、自身を赤子に見立てて中に入り、髭面の巨漢が襁褓(むつき)まで着けて皇帝と寵妃に辞見したそうな。

皇帝と寵妃はその滑稽さに大層歓び、上機嫌でその御史大夫の望みを容れたという。

山部は笑うどころか愕然とした。

この国で言えば大納言に当たる御史大夫に、辺境警備の兵を預かる異国人の武官が就き、皇帝から位階を超えた寵を得て身近に侍るだの、皇帝の寵妃の養子になるなぞ、正気の沙汰とは思われなかった。

茶番を演じて道化を装うその男の本意は別の所にあるに違いない。

それを見抜けぬ皇帝の治める国に、律令など有って無きが如しではないか。

領土を広げすぎた唐は、その土台をすでに傾かせているのではあるまいか。

「剣呑に過ぎるな」と呟いた山部に、理伯は「ほう、王もそのように思われるか。大弐殿(吉備真備)もそれで帰朝を急がせたそうな」と感心した。

それまでは漠然と、遣唐留学生となることを志していた山部だったが、この話を聞いた後、もう今の唐から自身が学ぶべきものはさして無いのではないかという疑いが胸に兆し始めた。

だが大陸に渡れば確かに見聞は広がるだろう。

書物や人の見聞から得た知識と実際に見て体験するのでは大きな違いがある。

科挙制度を是非この目で見、肌で感じてみたい。

となればやはり、まずは大学寮を志すべきなのだ。


無為なまま春が過ぎ、夏が訪れた。

このところ、山部が理伯の邸宅の書庫を訪れると決まって明信と顔を合わせた。

以前は不思議とも思わなかったが、時おり、明信がこちらを見ていることなどあり、そんなとき、山部は妙に落ち着かなくなった。

山部が訪れると、いつも薄絹の領布(ひれ)の掛かった細やかな白い手で静かに巻子を戻して、早々に書庫を出ていく明信に、この日、山部は背後から、何を読んでいるのだと訊ねてみた。

山部よりもやや背の低い明信は切れ長の眼を上げて、鈴を振るような声で「文選(もんぜん)にございます」と答えた。

薄暗い書庫で、色白な明信の面にわずかに血の気が指したように山部には思われた。

そのとき初めて、山部は自身が興味を持ったのはこの娘の読んでいる漢籍ではなく、この娘自身なのだと気づいた。

突然早くなった胸の鼓動を悟られまいと、山部は素っ気なく「文選(もんぜん)か。(おみな)の身で文章博士でも志すか」と言い、明信は今度ははっきりと頬を染めたが俯いたりせず、山部の眼を捉えたまま「古詩十九首に惹かれます」と答えた。

山部は急にこの娘と様々に語りたいという思いに駆られたが、どう切り出したものかと案じているうちに、明信は素早く書庫を出ていってしまった。

引き留めようと伸ばした手は空を掴み、辺りには甘く香ばしい香りだけが残っていた。

その香りと、先に見上げてきた眼差しを思い出して山部の胸は忙しく打ち、下腹部に熱が指してきた。

山部も若い男君であれば、この数年で、以前、壱志濃王が娘たちを盛んに話題にしたがった気持ちが良く解るようになった。

その欲望の衝動に苛まれることが、言わば、成人への第一歩なのだと言われても、身を灼かれるような切実な欲望であることに違いは無い。

乳母や資人がそれとなく図ってくれ、饗応など受けて(おみな)を床に侍らせたことが無いわけではなかった。

大抵は当たり障りのない身分の、おそらくは郡司の娘や妻などだろう。

山部にはその女たちの名も知らされなかったが、明らかに誰かの妻であることが知れる床慣れた風であったり、口も聞けないほど怯えていたりした。

何れにしても、灼けるような性欲は治まってもどこか味気なく、満たされた気がしなかった。

それよりもあの娘と話をしたい。

あの娘は何かしら語るに足るものを秘めているように思われる。

巻子を繰るあの手の細い指に触れてみたい。

よい香りのする艶やかな髪はどんな手触りなのだろう。

色鮮やかな裳を纏う柳腰を抱き寄せたらどんな心地がするだろう。

だが、あの(さか)しそうな娘に、次にどう話しかけたら良いものか、山部には想像もつかなかった。

姉の能登女王を思い返しても、語ることなぞ日常(つね)のことばかりで、どんな話しをしていたか、さして記憶に残っているでもない。

かといって壱志濃王や俊哲に訊ねるなど、死んでも矜持が許さなかった。

気の効いた歌でも詠めれば、詠みかけるのが直栽で分かりやすいのだろうが、生憎そんな才覚は持ち合わせない。

数日思いあぐねて、試してみなければ何も始まらないと山部は(はら)を据えた。

再び理伯の邸を訪れたが、書庫に明信の姿は無く、勇んで出掛けてきた山部は落胆した。

その日から山部は何をしていても、明信の眼差しが脳裏を掠めて、悶々とした。

思えば山部が理伯の邸で饗応を受けて夜を過ごしたのは、まだほんの童子の頃だった。

今なら或いは明信が床に侍ることにでもなるものだろうか。

だが俊哲の話の端々には、理伯が明信には殊更良き婿がねをと望みを高くしているらしいことが窺える。

山部があからさまに明信を望めば、理伯は否とは言うまいか。

だがやんわりと断られぬとも限らない。

親しくはしていても、何しろ山部は王族と言っても末孫で、将来を期待させる後ろ楯も無く、まだ出仕すらしていない身だ。

それに何より、恐らく、そんな形で明信を褥に引き入れたところで、己の望む満足は得られないだろうと山部は確信した。

明信の心が自身に無ければ意味が無い。

突然、山部はこのもどかしい心の動きが腑に落ちた。

吾はあの娘の心が得たいのだ。

だがあの賢しげな眼に己はどう映っているものだろう。


夏越しの祓えも過ぎた七月の初め、あれほど好きな鷹狩りなのに、山部はどこか上の空で、早朝の朝靄の中、勢子と(いぬ)たちが獲物を追い出してきても鷹を放つ頃合いを見切れず、俊哲や壱志濃王に先を越されてばかりいた。

「今日はもう止めよう。心が鷹に向いていないと鷹を失う。早く切り上げて、陽が落ちたら王も歌垣に行こう」

己の鷹を腕に載せたまま所在無げに立っていた山部は、俊哲に肩を叩かれて我に返った。

「歌垣か、そう言えば今日は七夕(しちせき)だな。織物社(はたものやしろ)だろう、吾も行こう。俊哲は誰ぞ目当ての娘が在るのか」

壱志濃王が嬉々として話題に乗ってきた。

俊哲は笑いながら「いや、今年は姉者が御阿礼でな。織り上げた(はた)を社に奉納するので手を貸しに行かねばならない」と答えた。

山部は俊哲を振り向いた。

「御阿礼?誰がだ?」

俊哲は「今言ったろう。姉者だ」と言った後、とって付けたように「明信だ」と言い足した。


未だ暮れない夏の宵空に、朧な上弦の月が昇る頃、交野の織物社では篝火が焚かれ、参道には五色の幡が飾られて多くの人で賑わっていた。

月の出を報せる太鼓の音が鳴り響き、祢宜(ねぎ)が宣明を奉った。

結い上げた髪に榊の冠を戴き、白の大袖衣に白の裳を纏い、やはり純白の領布を掛け、榊の枝を持つ明信が、俊哲に供物の幡を持たせて、祭壇に歩み出た。

祢宜が唱える浄めの祓え詞が「弥栄(いやさか)」で締め括られると、楽の音が辺りに満ちた。

捧げられた幡が手際よく祭壇に掲げられ、明信は俊哲に伴われて社殿を退っていった。

この辺りの公民(おおみたから)の多くは、水に恵まれた土地柄から、それなりに豊かな暮らしを営んでいる。

誰もが小綺麗に身なりを改め、何かしら手にして、辺りを見回しながら参道を社に向かっては、社の前に飾られた祭壇に供物を捧げていた。

山部は俊哲と明信を探してみたが、何処へ姿を消したものか、辺りには見当たらなかった。

壱志濃王はそこここに集まりだした娘たちがそわそわと辺りを見回したり、忍び笑いを漏らしながらこちらを盗み見る様を物色していた。

一目で王族と判る出で立ちの二人の姿は目立つのだろう。

若い男たちもそれぞれ集まって、何やら囁き合っては高笑いしたり、牽制するように矯声を挙げたりしていた。

「暑いな」と所在無く呟いた山部の袖を、壱志濃王が引いた。

無造作に差し出された(ひさご)をあおると中身は酒で、山部は一口で止めた。

酩酊してしまっては、資人も連れずここへ来た意味が無くなる。

「目ぼしい娘を見つける前に詠みかける歌を考えておけよ」と壱志濃王は言ったが、もとより山部は娘たちに目もくれていなかった。

夜が更ければ、いずれ何処かで争い事なども起こりそうだ。

早く明信を見つけたい。

山部が苛立ち紛れに、壱志濃王に瓢を押し付けるように返した時、背後から俊哲の声が「ここに居たのか(みこ)、随分探したぞ」と聞こえた。

振り向くと、明信を連れた俊哲が立っていた。

途端に、辺りの娘たちがざわめき立ったところを見ると、どうやら娘たちの多くは俊哲を待ち受けていたものか。

隅におけない奴だと思いながら、山部は明信を見つけ出したことにやや安堵した。

明信に目を向けると、神事の白装束のままで、薄闇の中、月明かりを凌いで淡く光芒を放っているかのように目立った。

見つけやすいのは有り難いが、この姿ではどこにいても今夜の御阿礼と一目瞭然だ。

己の目論みを考えるに、誰かに見られると、後々明信の障りになるまいか。

山部がそんなことを案じているとは露知らないだろう明信が、自分を見つめる山部をもの問いた気に見上げてきた。

山部はぶっきらぼうに「眩いな。皎皎(こうこう)たる河漢(かかん)(じょ)といったところか」と言ってから、明信が目を丸くしたのを見て、しまったと慌てて目を反らした。

またやってしまった。

どうしてこういうもの言いしかできないものか。

無い歌才を恨めしく思いながら、潜めた声で「後で話がしたい」と言ってみると、明信の頬にみるみる血の気が指した。

答えが無いので恐る恐る「嫌か?」と訊ねると、明信は黙したまま頚を左右に振った。

どうやら脈がありそうだと山部が胸を撫で下ろした時、気の早い声が何処かで歌を詠み始めた。

壱志濃王は声のする方に足を踏み出しながら、山部を振り向いて「行くぞ」と声をかけてきた。

俊哲は「姉者はどうする。帰るなら送らせよう」と明信を振り向いた。

明信は「明本(異母妹)と居りましょう」と答えて、ちらりと山部に目を走らせてきた。

俊哲は目を丸くして「珍しいことだな」と言ったが、別段不思議とも思わぬようで、「王、早く行こう、壱志濃王が行ってしまうぞ」と山部を促した。

「ああ、今行く」

山部は答えながら後ろに回した手で、素早く明信の手を捕え、一度握りしめてから離した。

明信が身じろぎしたことに満足して、山部は壱志濃王と俊哲の後を追った。

辺りは闇に包まれ始めたが、集う女衆たちの中でも一際目立つ白装束の明信の姿を目で追いながら、幾つもの歌が詠みかけられ、返されるのを聞くのは中々に楽しかった。

これまで山部が書庫で眼にする明信は、大人びた物静かな娘という印象だったが、こうして同じ年頃の娘たちの中に居ると表情も豊かで、山部はますます眼が離せなくなった。

歌が廻る度に笑いや歓声があがった。

酒の入った瓢が回され、男衆も女衆も互いの歌の出来を品定めしたり、上手い言葉が見つからず苦吟を嘆いたりしていた。

詠まれる歌には滑稽なものも切実なものもあり、山部が機知に富んだ歌のやり取りに一人感心しているうちに、壱志濃王は気の合う娘を見つけたと見えて何処へか姿を消してしまった。

男衆のなかには酒が回ってきたらしく、やたら大声を張り上げる者もいる。

先ほどから盛んに松尾の神が詠まれているのは、松尾の神が賀茂の未通女に通ったという故事を引いて居るのだろう。

俊哲が山部の脇腹を肘で突いて「王が少しも返さないので娘たちが落胆しているぞ、なにか言ってやれ」と言った。

「吾にだったのか?」と聞き返すと俊哲がやや呆れた顔でこちらを見た。

「王、聞いていなかったのか。何をしにここまで来たのだ」

(なれ)の姉を口説きにとも言えず、山部が答えあぐねていると、男衆の間で喧騒が起こり、たちまち辺りには怒声が満ちた。

山部と俊哲が身を起こしてみると、数人の若い男が銘々胸ぐらを掴んで呂律の回らぬ舌で罵り合う姿が見えた。

俊哲は舌打ちして辺りを見回した。

周囲を人が取り巻きはじめ、指差しながら歓声を挙げたり、野次をとばしたりしている。

山部は「酔いが呼ぶ喧嘩だ、捨て置け。血の気の多い(なれ)が仲裁しても火に油だろう」と引き止めた。

俊哲は聞き入れるどころか、袖を捲り上げながら「仕方の無い連中だ、王はここに居てくれ」と言い残し、そちらに向けて歩き出した。

明信は俊哲を案じるように、遠巻きに身を乗り出して騒ぎを見ていた。

山部の案じた通り、仲裁に入ったはずの俊哲が真っ先に拳を振るい、俊哲の兄弟たちまで乱闘に加わって、辺りは大騒ぎになった。

歓声を挙げながら騒ぎを見守る輪に混じって、山部もしばらく様子を見て居たが、やがて寄って来た明信の腕を捕らえて引いた。

「行こう、皆酩酊しているし素手だ。捨て置けば良い。気が済むまでやらせておけ」

山部の言葉に、明信はやや躊躇いながらも頷いて、二人はそっと輪の中から抜け出した。

社の内も外も寄り添う人影が多く、そこここの藪から睦言が聞こえてきた。

いつか上弦の月は中天高く登り、手を繋いだ二人を明るく照らしていた。

大きな槻の樹の陰に山部は腰を降ろした。

「皆、王が返歌をされないのでがっかりしておりました」

先に口を開いた明信がくすりと笑った。

「吾は少しも気付かなかった。どんな歌だ?」

「近頃、大枝に松尾の神が住まわれて居るようだけれど、あやかりたいものだとか、意中の媛は誰だろうとか。お気づきではなかったのですか?。余りに皆が王を見ているので気が気ではありませんでした」

繋いだ手はそのままに、山部は明信を見つめた。

手足の先が震えそうな己を心の内で叱咤した。

「では(なれ)がその媛だ」

山部の言葉に驚いている明信の手を引いて腕の中に納めると、弾力のある身体が喘いで身を竦めた。

その身じろぎも、伝わる胸の鼓動の早さも、温もりも、鷹に押さえ込まれて抗う小鳥が羽ばたくさまに似ていた。

「逃げないでくれ。手を離したら嫦蛾(じょうが)のように天に帰ってしまいそうだ」

山部が焦燥にかられて言うと明信はあの眼で見上げてきた。

「逃げません。ただ驚いて」

明信は言い澱んで、くすりと笑った。

「逃げたら(ひき)にしてくださいませ」

その言葉と共に身を委ねられて、山部は頭の中に熱く白い何かが弾けたように感じた。

今ここで組敷いてしまいたいほど山部は明信を欲していたが、辛うじて自尊心が勝った。

御阿礼を勤めたのだからこの娘は未通女(おとめ)だ。

歴とした氏族の血筋にあるのだから、明信に否やが無いなら筋を通して妻問いするべきだ。

明信の手を取って弄びながらうなじに顔を埋めると、ようやくこの娘を腕の中に納めたのだと実感できた。

「ずっとこうしたいと思っていた」

山部の言葉に明信は「疎まれているのかと思っていました」と更に身を寄せてきた。

「そうか、そうだったのか。吾も同じだ。吾ながら臆病なことよ」

「王が?。そうは思われません」

きっぱりと言った明信に山部は「何故?」と訊ねた。

「大海を航りたい方に臆病な方は居られますまい」

山部は片方の眉を挙げた。

「唐の言葉を学んでおいでと聞きました。遣唐留学生を志しておいでなのでしょう?」

「ああ、そうだ」

山部は皮肉そうに口許を歪めた。

「笑われそうだが、科挙をこの眼で見てみたい。科挙で本当に、生まれた氏族に関わらず、有能な官人を選抜し、公正な政を行えるのか知りたい」

ひたむきに見上げてくる明信を見つめていると、己の言葉はみるみる現実味を無くしていくように思われた。

「長くそう考えていた。だが、今こうして(なれ)を腕の中に納めてしまうと、」

息が堰上がるように思えて山部は言葉を切った。

「その決意も揺らぎそうだ」

思い余った山部の貪るような口づけに、明信は拙く応え、細やかな両の腕を山部の背に廻してきた。

山部は明信の背を手繰り寄せながら、再び沸き起こってきた渇望を宥めるのに一時息を堪えた。

「吾が妻問いを申し上げたら交野殿(理伯)は聞き入れて下さるだろうか」

明信は切な気に顔を歪めて「父の意は私にも測りかねます。けれど、私は到底他の方を受け入れられるとは思われません」と答え、回した腕に力を込めた。

蒐狩

春秋、礼記に由来する、狩猟の名目で、君主が領地を巡って軍威を見せ、領主を饗応する慣習。春に行われるものが蒐狩。


和史氏

あくまでも私見ですが、和史氏は、船史氏と同様に、漢氏(東漢氏、西漢氏を含む)の傍流氏族と感じているので、そのように扱わせて頂きます。


打毬

騎馬で、あるいは徒歩で打杖を使って毬を門に入れる競技。

源流はポロと同じとされる。

奈良時代に大陸から伝わり、貴族の間で大層持て囃された。

当時から馬に乗らずに行う徒打毬があったかは疑問ですが、ここではあったと考えました。


文選

中国南北朝時代に編纂された詩集。

隋、唐の時代には科挙の受験者に詩文の制作の模範とされた。


古詩十九首

前漢~後漢時代の詩と思われるが、成立は不明。

現存する最古の収載は文選。


胡人

西域人とも。

主に唐の西に住むテュルク、ペルシャ、ソグドなどの民族の総称。


皎皎たる河漢の女

古詩十九首其の十、七夕伝説を読んだ詩「迢迢牽牛星」より


嫦蛾(じょうが)

中国神話の中の仙女

弓の名手の夫を裏切って不死の薬を飲んで、月まで逃げたがヒキガエルにされてしまった。

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