今月の流行タグが「婚約破棄」だったので,王国が滅びかけました
この国では,神託が下りる.
神託といっても,聖堂に光が差すわけではない.
巫女が白目をむいて未来を叫ぶわけでもない.
王都中央広場に立つ巨大な石板に,ただ文字が浮かぶのだ.
そして,石板に浮かんだ文字は,ほぼ同時に王宮記録局,貴族院,各新聞社,主要商会へ置かれた小型の写し石板へ転写される.
つまり神託は,神の言葉でありながら,王都で一番速い速報でもあった.
王都の人々はそれを敬い,恐れ,そしてとても迷惑している.
今月の流行タグ
一位 婚約破棄
二位 ざまぁ
三位 溺愛
四位 もう遅い
五位 実は有能
王宮記録局の机の上で,小型石板が淡く光る.
私は羽ペンを置き,その文字を記録簿に写した.
「今月もひどいですね」
隣の席で後輩のマリーがつぶやいた.
「先月よりはましです」
「先月は何でしたっけ」
「一位が追放,二位が辺境,三位が実は聖女,四位がスローライフ,五位が魔王でした」
「ああ,そのせいで南門から追放志願者が列を作った月ですね」
「しかも辺境が足りなくなりました」
この国では,神託石板に浮かぶ流行タグを再現すると,社交界で話題になる.
話題になれば人気が出る.
人気が出れば縁談が増える.
縁談が増えれば領地が潤う.
その結果,貴族たちは毎月,石板の言葉に振り回されるようになった.
まったく,忙しい国である.
私,クラリス・エインワースは,その流行にまったく興味がなかった.
伯爵令嬢ではあるが,舞踏会より帳簿が好きだった.
恋文より議事録が好きだった.
溺愛されるより,定時で帰る方がずっとよかった.
現在の職場は,王宮記録局.
仕事は,王国で起きた出来事を正確に記録すること.
つまり,この国が毎月どれだけおかしくなっているかを,最前列で書き留める係である.
神託石板は,信仰対象であり,広報媒体であり,貴族社会最大の迷惑通知でもあった.
その日の午前,局長が青い顔で私の机へやって来た.
「クラリス君,大変だ」
「神託石板の誤字ですか」
「違う」
「では,貴族院から『ざまぁ』の正式な綴りについて問い合わせですか」
「それは朝一番で来た」
「では,もう本日の大変は使い切ったのでは」
「今回はもっと悪い」
局長は一枚の申請書を,そっと私の机に置いた.
私はそれを読んだ.
件名,第一王子レオンハルト殿下による公開婚約破棄演出申請.
対象,クラリス・エインワース伯爵令嬢.
目的,流行タグ獲得による王家人気回復.
私は二度読んだ.
三度目で,ようやく自分の名前を見つけた.
「局長」
「何だね」
「私は殿下と婚約していません」
「うむ」
「婚約していない相手から,婚約破棄されることは可能でしょうか」
「前例はない」
「では却下で」
私は申請書に却下印を押そうとした.
しかし局長は,私の手首をそっと押さえた.
「待ちたまえ.王家からの直々の依頼だ.最近,殿下の人気がひどく落ちているのは知っているだろう」
「はい.『溺愛』タグを狙って,国庫の予算会議を欠席し,庭園の噴水に三時間浸かっていた件ですね」
「それだけではない」
「『もう遅い』タグを狙って,建国祭の演説に二時間遅刻した件ですか」
「それもある」
「『実は有能』タグを狙って,最初から無能なふりをしていたら,本当に無能だと認定された件ですか」
「全部ある」
局長は頭を抱えた.
「とにかく,王家は殿下の印象を変えたいらしい.今月の流行タグは婚約破棄だ.君には悪役令嬢役として断罪され,後日,実は有能タグで復活してもらう」
「なぜ私なのですか」
「君が本当に有能だからだ」
「褒め言葉で仕事を増やすのは違法にしてください」
私は深いため息をついた.
しかし,命令は命令である.
王宮記録局の書記官は,王命に逆らえない.
ただし,王命を正確に記録し,必要に応じて注釈をつける権限はある.
そこが大事だった.
三日後,王宮の大広間で夜会が開かれた.
貴族たちは,期待に満ちた顔で集まっていた.
今月の流行タグ一位,婚約破棄.
その主役が第一王子となれば,話題性は十分である.
大広間の壁際には,王宮記録局の写し石板が設置されていた.
中央広場の神託石板と連動し,その夜の出来事に応じて獲得タグ候補を表示するためのものだ.
公式には「神意観測用補助石板」という名だが,職員の間ではただ「余計な石」と呼ばれている.
私は青いドレスで会場の隅に立っていた.
隣には,大量の書類を抱えたマリーがいる.
「先輩,本当に大丈夫ですか」
「大丈夫です.婚約していないので,理論上は破棄されません」
「理論上は」
「人生で最も信用できない言葉ですね」
楽団の音が止まった.
大広間の中央に,レオンハルト殿下が進み出る.
完璧な笑顔だった.
その笑顔だけなら,確かに国が三つくらい救えそうだった.
殿下は私を指さし,高らかに宣言した.
「クラリス・エインワース! 君との婚約を破棄する!」
会場が沸いた.
来た.
始まった.
今月一番の婚約破棄だ.
貴族たちの視線が,私に突き刺さる.
哀れみ,期待,好奇心.
人は誰かが転ぶ瞬間を,なぜこんなにも見たがるのだろう.
私は一礼した.
「恐れながら殿下,まず事実確認をさせていただきます」
「事実確認?」
「はい.私と殿下の婚約関係を証明する書類番号をお示しください」
殿下は固まった.
「書類番号?」
「婚約には,王家儀礼法第十二条により,家門間契約書,婚姻予定届,財産移転仮登録書,ならびに本人同意署名が必要です.どちらにございますか」
殿下は側近を見た.
側近は別の側近を見た.
別の側近は天井を見た.
天井は何も答えなかった.
「そ,そのような細かいことはよい!」
「細かくありません.婚約の有無は,婚約破棄において中心的な要件です」
マリーが横でうなずきながら記録している.
殿下は声を張り上げた.
「大切なのは,君が私を欺いたということだ!」
「欺いた内容を記録いたします.どうぞ」
「君は冷たい!」
「感想ですね.事実ではありません」
「君は私に優しくない!」
「勤務時間外の相談は受け付けておりません」
「君は私の手紙に返事をしなかった!」
「殿下の手紙はすべて,宛名が『記録局の眼鏡の令嬢へ』でした.局内に眼鏡の令嬢は八名おります」
「だが,君だと分かるだろう!」
「公文書では,分かるだろうは禁止されています」
会場のどこかで,誰かが吹き出した.
殿下の顔が赤くなる.
「とにかく! 君は悪役令嬢なのだ!」
「恐れながら,その役職は王国官職一覧にございません」
「ならば今作る!」
「新設には財務局の承認が必要です」
「君は本当に面倒だな!」
「よく言われます」
その時,大広間の壁際にある写し石板が白く光った.
今夜の獲得タグ候補
婚約破棄
ざまぁ
実は有能
官僚無双
書類で殴る
貴族たちがざわめいた.
「官僚無双……?」
「書類で殴るとは何だ……?」
私は石板を見て,少し眉をひそめた.
最後のタグは,物理的な意味ではないと信じたい.
殿下は慌てた.
「違う! 私が主役だ! 私が婚約破棄する側だ!」
写し石板の文字が揺れ,新しい一文が浮かんだ.
読者評価が下がっています.
主人公適性を再判定します.
会場が凍った.
この国の誰もが知っている.
神託石板の判定は絶対である.
流行に乗れば栄えるが,外せば容赦なく忘れられる.
そして王族にとって,忘れられることは死に近い.
殿下は青ざめた.
「なぜだ……私は流行通りに婚約破棄をしているのに……」
「殿下」
私は静かに言った.
「婚約破棄ものにおいて重要なのは,破棄すること自体ではありません」
「何だと」
「破棄される側に,読者が味方したくなる理由があることです」
殿下はぽかんとした.
「さらに言えば,ざまぁとは,単に相手を罰することではありません.積み上げてきた不誠実さが,自然に本人へ戻る構造のことです」
貴族たちが,妙に真剣な顔でうなずき始めた.
「殿下には,積み上げが足りません」
「積み上げ?」
「はい.仕事の積み上げも,信頼の積み上げも,伏線の積み上げも足りません」
写し石板が,ぴかりと光った.
新規タグ
説教
ただし正論
殿下は泣きそうな顔になった.
「では,私はどうすればよいのだ」
その声は,思いがけず小さかった.
会場の期待も,嘲笑も,全部剥がれ落ちた後に残った,ひとりの若い男性の声だった.
私は初めて,殿下を少しかわいそうだと思った.
彼は愚かだ.
けれど,愚かに育てられた人でもある.
何かを壊せば注目されると教えられ,誰かを泣かせれば物語になると思い込まされてきた人だった.
「まず,申請を取り下げてください」
私は言った.
「次に,国庫の予算会議に出席してください.溺愛タグのために水に浸かるのも禁止です」
「溺愛とは,溺れるほど愛するという意味ではないのか」
「違います」
「では,噴水に三時間浸かった私は……」
「ただ濡れた王子です」
会場の端から,耐えきれない笑い声が漏れた.
殿下は耳まで赤くなった.
「では,もう遅いタグは?」
「遅刻ではありません」
「建国祭の演説に二時間遅れた私は……」
「ただ遅れた王子です」
今度は会場のあちこちで笑いが起きた.
しかし,先ほどまでの期待に満ちた笑いとは違った.
誰かを突き落とす笑いではなく,ずれた歯車がようやく外れたような笑いだった.
殿下はうつむいた.
「私は,また間違えたのか」
「はい」
「はっきり言うな」
「記録局ですので」
殿下はしばらく黙っていた.
それから,深く息を吸い,私に向かって頭を下げた.
「クラリス・エインワース嬢.婚約していないのに婚約破棄しようとして,すまなかった」
大広間がどよめいた.
王子が頭を下げた.
それだけで,今月最大の事件だった.
私はマリーに言った.
「記録してください.第一王子殿下,未成立婚約破棄未遂について謝罪」
「はい,先輩」
写し石板の文字がまた変わった.
今夜の確定タグ
婚約破棄未遂
ざまぁ未遂
実は有能
王子再教育
お仕事恋愛,ただし恋愛はまだ早い
最後の一行で,会場がざわめいた.
「お仕事恋愛?」
私は顔をしかめた.
「誰と誰がですか」
すると,なぜか殿下がこちらを見た.
私は即座に言った.
「却下です」
「まだ何も言っていない」
「目が申請していました」
「目の申請まで却下されるのか」
「書式不備です」
会場に,今夜いちばん大きな笑いが起きた.
その夜を境に,王国の流行は少し変わった.
婚約破棄は減った.
追放も減った.
ざまぁも,やや慎重に行われるようになった.
代わりに,王宮では「謝罪」「再教育」「領地改革」「仕事ができる人にちゃんと給料を払う」が流行した.
翌月,中央広場の石板には,こう表示された.
今月の流行タグ
一位 有能な事務方
二位 反省する王子
三位 地味に改革
四位 ゆっくり信頼
五位 定時退勤
王都は大混乱した.
特に五位の定時退勤は,あまりにも革新的すぎて,財務局が三日寝込んだ.
私はといえば,特に何も変わらなかった.
朝は出勤し,書類を読み,誤字を直し,殿下の再教育日誌に赤を入れた.
ただ,ひとつだけ変わったことがある.
毎週金曜日の夕方になると,殿下が記録局にやって来るようになったのだ.
手には必ず,花ではなく,きちんと記入済みの報告書を持っている.
「クラリス嬢,今週の予算会議の議事録だ」
「拝見します」
「今回は誤字を三つ以下に抑えた」
「殿下」
「何だ」
「誤字は,本来ゼロを目指すものです」
「厳しい」
「現実です」
殿下は少し笑った.
以前のような,誰かに見せるための笑みではなかった.
叱られても逃げずにいる人の,少し照れた笑みだった.
私は報告書を受け取る.
最後のページに,小さな文字があった.
追記
いつか,正式な書式で食事に誘ってもよいだろうか.
私は赤ペンを取った.
そして,その横に書いた.
要再提出.
ただし,趣旨は受理します.
殿下はその一文を見て,しばらく固まった.
それから,今までで一番まじめな顔で言った.
「書式を学んでくる」
「期待しています」
窓の外では,中央広場の神託石板が夕日に照らされていた.
同時に,記録局の写し石板にも新しい文字が浮かぶ.
新規タグ候補
恋愛未満
じれじれ
書類から始まる関係
私は思わず顔を覆った.
この国の神託は,本当に余計なことばかりする.
けれど,まあ.
婚約破棄から始まらない物語が,ひとつくらいあってもいいのかもしれない.
それがたとえ,受理印と赤ペンと,少しだけ書式の整った恋であっても.




