算数ドリルと、母の忍耐
午後5時30分。
リビングには、三女が散らかしたブロックの音と、長男が叩く太鼓の音が響いている。
その喧騒の真ん中で、長女・陽葵はダイニングテーブルに座り、算数ドリルを広げたまま……石のように固まっていた。
「陽葵、あと何問?」
キッチンから夕飯の支度をしながら、ママ(33歳)が声をかける。
「……あと、5問」
「さっきも5問って言わなかった? 15分前から進んでないわよ」
ママが背後に立つと、陽葵はサッとドリルの余白を隠した。
「今、考えてるところだもん! 算数の神様が降りてくるのを待ってるの!」
「神様はドリルには降りてこないわ。自分で計算しないと」
ママが覗き込むと、ドリルの端には細かな「女の子のイラスト」がびっしりと描かれていた。
「……陽葵。この算数の神様、すごくオシャレなドレス着てるわね」
「あ、見つかった」
ここからが、ママと9歳児の格闘(第2ラウンド)だ。
「これ、繰り上がり忘れてるよ。もう一回やり直し」
「えー! もう書いちゃったもん。消すのめんどくさい。明日、先生が教えてくれるからいいよ」
「ダメ。今やるの。やり方分かってるでしょ?」
陽葵はわざとらしく大きなため息をつき、消しゴムを「シュッ、シュッ」とやる気なさそうに動かす。
「お母さんはいいよね、宿題なくて。大人ってずるい」
「ママだって、毎日『夕飯の献立』っていう、答えのない宿題と戦ってるの。ほら、ここ!」
その時、2歳の颯太が「あおー(遊ぼう)!」と陽葵の足元に突進し、4歳の結菜が「ママ、折り紙折って!」と割って入る。
「ちょっと、みんな静かにして! お姉ちゃん、今、全集中してるんだから!」
ママが下の子たちをなだめる隙に、陽葵はまた鉛筆を止めて、窓の外を見つめ始めた。
「……陽葵。終わったら、デザートのアイス食べていいよ。パパが昨日買ってきたやつ」
ママのこの一言で、陽葵の瞳に光が宿った。
「……チョコのやつ?」
「そう。一番高いやつ」
「……やる」
そこからの陽葵は速かった。
さっきまでの「神様待ち」が嘘のように、鉛筆が「カリカリカリ!」と音を立てて進む。
「できた! ママ、見て!」
「はいはい……あ、ここまた繰り上がり間違ってる」
「えー!! もう、お母さん厳しいー!」
結局、宿題が終わったのは夕食の直前。
ヘトヘトになったママは、アイスを美味しそうに頬張る陽葵を見ながら、心の中でつぶやく。
(明日は漢字練習か……またあの神様、降臨するんだろうな……)
9歳の「知恵」と33歳の「交渉術」。
この家のダイニングテーブルでは、毎日こんな高度な格闘技が繰り広げられているのです。




