廊下サスケと垂直の天使たち 壁登り狂想曲
家の廊下が「SASUKE」のステージに変わるのも、もはや時間の問題だった
【第一章:壁に咲いた一輪の徒花】
事の始まりは、次女の澪(7歳)でした。
澪は元々、身体能力が無駄に高く、一度思いついたら最後、猪突猛進するタイプ。その日の彼女のターゲットは、家の「廊下」でした。
日本の住宅の廊下というものは、子供の両手足の幅に絶妙にフィットする構造をしています。澪は、廊下の両壁に手足を突っ張ると、まるでスパイダーマン、あるいは忍者、はたまた獲物を狙うクモのように、垂直に、そして前方へと移動を始めました。
「フンッ、ハッ……! 頂点が見えてきたわ……」
両手両足を限界まで広げ、壁を蹴り、摩擦力だけで自重を支える。
廊下の天井付近、もはや人間の生活圏ではない高度にまで到達した澪。その姿は、佐藤家の廊下に突如出現した「第1回サスケ大会・ファイナルステージ」のようでした。
「澪! 何やってんのよ! 壁が汚れるし危ないでしょ、降りなさい!!」
キッチンの掃除をしていたママ(33歳)の怒声が響きます。しかし、ゾーンに入った澪にママの声は届きません。というか、聞こえているはずなのに「フルシカト」です。
彼女の目は、さらに先の照明器具付近を見つめていました。
「ダメだ……。今の私は、風……。壁と一体化しているのよ……」
「風じゃないわよ! 降りなさいって言ってるのが聞こえないの!?」
ママのボルテージが最大出力に達しました。
ママは廊下へ突進すると、空中に浮いている澪の足を力ずくで掴み、地上へと引きずり下ろしました。
「あぁっ! 私のサスケが……!」
「サスケじゃないわよ! リビングに来なさい! 説教よ!!」
ママの怒りの咆哮と共に、澪はリビングへと連行されていきました。
【第二章:三女、届かぬ四肢と「橋」の着想】
リビングからは、ママによる「安全管理に関する集中講義」が轟いています。
「だいたいあんたは、いつもそう! 屋根の上だの壁の上だの、重力を舐めてるのよ!」
その喧騒を、廊下でじっと見つめている影がありました。
三女の結菜(4歳)です。
彼女のくるくる天然パーマが、好奇心でさらに躍動しています。
(お姉ちゃん、すごかった……。ゆいなも、壁とお友達になりたい!)
4歳児の無謀なチャレンジ。結菜は澪の真似をして、両手足を広げ、壁を掴もうとジャンプしました。
しかし。
「えいっ! ……あれ?」
悲しいかな、4歳児の四肢の長さは、廊下の幅に対して圧倒的に足りていませんでした。
右手をつけば左手が届かず、左足を突っ張れば右足が宙を舞う。
結菜は廊下の中央で、「大の字」になってぴょんぴょんと跳ねるだけ。壁に留まろうとして虚しく床に落下するその姿は、まるで陸に上がったカエルのようでした。
「届かない……。お姉ちゃん、腕長いんだなぁ……」
しかし、結菜は諦めませんでした。ここで彼女の知性が輝きます。
(正面がダメなら、横を向けばいいんだ!)
結菜は壁に対して横向きになり、背中を片方の壁に、足をもう片方の壁に突っ張る姿勢を取りました。
これなら届く! 結菜の小さな体は、廊下の幅を繋ぐ「人間ブリッジ」となりました。
「……できた。ゆいな、橋になったよ」
そこからの執念は凄まじいものでした。
背中で壁をずりずりと押し上げ、足で反対側の壁を蹴り上げる。
亀のような、しかし確実な歩みで、結菜は一歩一歩、高度を上げていきました。
そしてついに、結菜は天井に手が届くほどの「最高地点」に到達したのです。
「パパ! 見て! ゆいな、お空にいるよ!」
声を出してパパを呼ぼうとした結菜でしたが、リビングからはママの「そもそも人間は二足歩行の生き物でしょ!」という熱烈な説教が続いており、4歳児の小さな声は完全にかき消されていました。
【第三章:空中での絶望と、長女の「賢者モード」】
最高地点に到達した達成感。それは一瞬でした。
結菜は気づいてしまったのです。
「……降りられない」
背中と足で突っ張るこの姿勢。一度力を抜けば、自由落下の刑が待っています。かといって、このまま耐え続けるには4歳児の体力には限界があります。
結菜の目から、ボタボタと大粒の涙が溢れ出しました。
「パパ……ママ……たすけて……」
その時、トイレに行こうとリビングを出てきた長女の陽葵(9歳)が、その異様な光景を発見しました。
見上げれば、廊下の天井付近に、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら張り付いている妹。
「……はっ!?」
陽葵は一瞬フリーズしましたが、事の重大さを察知しました。
「ママ! 大変! 結菜が天井で死んじゃう!!」
説教中だったママが、その尋常じゃない叫びに反応して廊下へ飛び出してきました。
「何言ってるのよ、死ぬわけ……って、ヒエェェェ!!」
そこには、シュールを通り越してホラーに近い光景が広がっていました。
重力に逆らい、天井に張り付いて号泣する三女。
ママは慌てて手を伸ばしましたが、結菜がいるのはママの手も届かない高所。
「結菜! 離しちゃダメよ! パパ! パパァ!! 早く来て!!」
仕事中のパパ(38歳)が、部屋から飛び出してきました。
「なんだ!? システムダウンか!? 鯉が逃げたか!?」
「いいから、上を見て!」
見上げたパパの目に飛び込んできたのは、自慢の娘が天井のシミのように張り付いている姿でした。
パパは10キロ痩せた身軽な体で跳躍し、結菜の腰をがっしりとホールド。
「回収成功! 無事か、結菜!」
パパの腕の中に降ろされた結菜は、安心感から「ふえぇぇぇん!」と大泣き。
パパは「よしよし、凄いな結菜、あんな高いところまで」と、つい感心して頭を撫でてしまいました。
【第四章:連鎖する説教と、真犯人の微笑み】
無事に回収された結菜。しかし、悲劇はここからでした。
助かった安堵も束の間、ママのターゲットは次女の澪から、三女の結菜へとシフトしました。
「結菜!! あんたまで何やってんのよ! 死ぬ気!? 落ちて怪我したらどうするの!」
リビングに強制連行される結菜。そこには、先ほどからずっと正座させられていた澪がいました。
「あーあ、結菜も捕まっちゃった」
「澪! あんたがやってるから結菜が真似したんでしょ! 罪が重いわよ!」
次女への説教はさらなる延長戦へ。
三女は助かった直後に怒られるという理不尽に、くるくる天パを震わせてべそをかいています。
一方、和室では。
長女の陽葵が、2歳の長男・颯太を優しく抱っこして遊んでいました。
「颯太くん、よしよし。お姉ちゃんたちがうるさくてごめんね」
その姿は、まさに聖母。ママも「陽葵はしっかりしてるわねぇ、下の子たちの面倒を見てくれて……」と、その横顔をチラリと見て感心していました。
……しかし、パパは知っていました。
実は、数日前に一番最初に廊下で壁登り(それも片手でスマホをいじりながらの余裕のポーズ)を披露していたのは、他ならぬ長女の陽葵だったことを。
彼女は自分が元祖であるという証拠をすべて隠滅し、今は「下の子の面倒を見る優しい姉」という鉄壁のガードを固めていたのです。
パパは仕事部屋のドアの隙間から、その「我関せず」を貫く陽葵の完璧な演技を見て、背筋が凍る思いでした。
(あいつ……一番怖いのは、陽葵だ……)
【第五章:次女の逆襲と、パパの致命的ミス】
説教も1時間を経過し、ようやく最終段階に入りました。
ママが最後に澪に向かって言いました。
「分かった? 二度と壁には登らない。いいわね?」
ここで、黙って耐えていた澪が、ついに我慢の限界を迎えて爆弾を投下しました。
「だって……だってお姉ちゃんだってやってたもん! 陽葵ちゃんがやってるの見て、カッコいいと思ったんだもん!!」
その瞬間、和室で颯太に絵本を読んでいた陽葵の肩が、ピクリと揺れました。
ママの視線が、和室の聖母へと向けられます。
「……陽葵? あんた、やってたの?」
陽葵は、ゆっくりと顔を上げました。その目は、澪を冷たく射抜いていました。
「……澪ちゃん。何の話? 私は颯太くんと遊んでるだけだよ」
しかし、パパは知っています。この状況を終わらせるには、真実を明らかにするしかない。……というか、パパは純粋に、あの時の陽葵の凄さを認めていたのです。
パパは仕事部屋からフラリと現れ、無邪気に言ってしまいました。
「そうだよママ。陽葵の壁登りは凄かったんだ。俺、思わず『おお! 凄いね! 天才か!』って褒めちぎっちゃったもん。あれは芸術的だったよなぁ、陽葵」
「…………パパぁ?」
ママの冷たい声が、リビングに響きました。
陽葵は「あちゃー」という顔でパパを睨み、ママは大きく、本当に大きくため息をつきました。
「パパが褒めるから、この子たちが図に乗るのよ……。もういいわ、今日の説教はおしまい! 全員、夕飯まで猛省しなさい!」
ママは台所へと消えていきました。
パパは「え、俺、何か悪いこと言った?」という顔で、再び仕事部屋へと戻っていきました。
【第六章:唐揚げの味と、頬の痛み】
夕食の時間。
今夜のメニューは、パパの大好物の唐揚げでした。
「秘密のダイエット」中のパパは、食べる量を半分に減らしつつも、その揚げたての唐揚げを噛み締めました。
「うーん! 今日の唐揚げは最高に美味しいねぇ、ママ! 疲れが吹き飛ぶよ」
パパは上機嫌でした。昼間の騒動など、すでに記憶の彼方。
食事を終え、家族団らんの時間。
パパは床に座り、テレビを見ていました。パパの真後ろのソファには、ママが座っています。
「パパさぁ……」
ママの手が、パパの背後から伸びてきました。
そして、パパの左右のほっぺたを、ガシッと掴みました。
「あ、あふぁ(ママ)?」
「パパ、さっきの続き。長女が壁に登った時、なんて言ったのかしら?」
ママの手が、パパの頬をぐいーっと引っ張ります。
「ひょめ(褒め)……ひょめたよぉ(褒めたよ)。ひゅご(凄)いよねぇ、あんなにひゅ(垂直)に……」
パパは悪気なく、正直に答えました。
その瞬間、ママの指先にさらなる力がこもりました。
「凄いねぇ、じゃないわよ! あんたがそんな適当に褒めるから、結菜が天井に張り付いてボタボタ涙流す羽目になるんでしょ! この『教育に悪い親バカ』め!」
「痛っ! 痛い痛い! ママ、10キロ痩せて顔の肉が薄くなってるから、いつもより痛いよ!」
パパの頬をぐりぐりと揉みしだくママ。
リビングには、パパの悲鳴と、それを見て大爆笑する子供たちの笑い声が響き渡りました。
和室の隅では、長女の陽葵がこっそりガッツポーズをしていました。
(よかった……最終的にパパが全部引き受けてくれた)
佐藤家の夜は、こうして更けていきます。
廊下の壁には、子供たちの手形と、パパの無責任な称賛の記憶が刻まれています。
そして明日もきっと、誰かが重力に逆らい、誰かが怒鳴り、そして最後には全員で笑い転げる。
そんな日も悪くない
壁登りサスケから始まった一日は、パパの頬の赤みと共に、賑やかに幕を閉じたのでした。




