白雪妃
昔、とても寒い冬の日に森の奥の小さなあばら屋でティアラは生まれました。ティアラのお母さんは名前をシヴィル=グランティスといい、元はとても高貴なお生まれの方だったのですが、しがない音楽家と恋に落ち両親からは勘当を言い渡されていました。その上この音楽家もまた、嫉妬深いシヴィルに嫌気が差すと、身重の身の彼女のことを捨てたのでした。
シヴィルはもはやどうしてよいかもわからず、森をさ迷い歩いてこのままお腹の赤ん坊ごと死んでしまう覚悟でした。ところが、森に住む狩人の男が雪の上にいき倒れているシヴィルのことを助け起こして、彼女のことを介抱してくれたのでした。
狩人の男がシヴィルのことを発見した時、彼女は下腹部から出血しており、真っ白な雪の上には赤い血が水たまりのようになっていました。
「これは大変だ」
狩人の男はすぐに自分の粗末な家にシヴィルのことを運ぶと、村までひとっ走り、医者を呼びにいきました。ところが、狩人の男と年老いた医者が彼の家に戻ってきた時、シヴィルはすでに雪のように白い肌の可愛らしい赤ん坊を生んだあとだったのでした。
医者は軽く産後の処置をすると、赤ん坊が健康な様子であるのに安心して、すぐに村へ帰っていきましたが、狩人の男は医者を村まで送って自分の家まで戻ってくる時、ある覚悟を胸に秘めていたのでした。
シヴィルはまだ若く、とても美しい娘でしたので、狩人は一目見た瞬間に彼女のことを好きになってしまったのでした。それで狩人のオルガはシヴィルに結婚を申しこみ、もはやどこにもいくところのなかったシヴィルはその申しこみを快く受けたのでした。
やがて十六年の年月が経ち、この時生まれたティアラはとても美しい娘に成長しました。髪の毛は黒絹のように艶やかで、肌は雪のように白く、頬は淡い薔薇色で、唇は真っ赤な林檎のようでした。ところがシヴィルは自分の娘が年ごろになるにつれて次第に彼女のことを虐待するようになりました。何故といって、夫のオルガの関心がだんだんに自分から離れて、この義理の美しい、可愛らしい娘へと移っていくのが手にとるようにわかったからでした。
シヴィルがそのことをオルガに問い詰めても、彼は「おいおい。俺はティアラのことを赤ん坊の頃から知っているんだぜ。血は繋がっていなくても実の娘も同然さ。その娘に血の繋がった本当の母親であるおまえが嫉妬するだなんて、おかしいじゃないか」と言って、まるで相手にしてくれません。でもシヴィルにはよくわかっていたのでした――彼が時折自分の娘のことをいやらしい目で眺めているということが。
ふたりの間にはその他にもたくさんの色々な問題がありました。何しろシヴィルは上流階級の貴族の娘でしたから、炊事も掃除も洗濯も裁縫も何ひとつまともにできませんでした。彼女の取り柄といえばただ美しいことと、夜の相手ができるというそのふたつのことしかありませんでしたから、オルガはそこから絞りとれるだけのものをシヴィルから絞りとろうとしましたし、何かと言うと命の恩人ぶってすべての悪いことを彼女のせいにしようとしました。
それでもシヴィルは自分の子供のためにも頑張って耐え、一生懸命家事を覚えてオルガの良い妻になろうとしたのですが、彼はシヴィルに対して性的興味がまるでなくなると、今度は義理の娘のティアラのほうにその関心を寄せるようになっていたのでした。
シヴィルはそのことがとても許せませんでしたし、鏡の中の自分の顔をのぞきこむにつけ、その思いは次第に募る一方でした。何故といってこれまでの子育ての苦労やら生活の苦労やらでシヴィルの容色は衰えていましたし、実際の年齢よりも老けて見えるくらいだったからです。ところがそれとは反比例するように娘のティアラはどんどん美しくなっていきました。もともと何かにつけて嫉妬深かったシヴィルは、しょっちゅう癇癪を起こしては娘に当たり散らし、
「こうなったのはおまえのせいだ。おまえさえ生まれてこなければ、わたしは今ごろ貴族たちに囲まれて華やかな生活を送っていただろうに!」と言ってオルガのいないところでティアラのことをいじめました。
ティアラはオルガが自分の本当のお父さんでないことを知っていましたし、根がとても素直ないい娘でしたから、なんでも黙って母親のいうことを聞いていました。井戸の水汲みやら料理の支度、掃除に洗濯に裁縫、その他生活のために必要なことはどんな雑用も文句ひとつ言わずにやりました。ティアラには同じ年ごろの友達というものがありませんでしたし、血の繋がった母と血の繋がらない義理の父親、それに小さなあばら屋――その狭い世界で生きていく他はなかったからです。
唯一、ティアラにとって友達と呼べそうなのは、彼女の生まれ育ったあばら屋をとり囲む自然だったでしょうか。朝は鳥たちの歌声で目を覚まし、井戸に水を汲みにいった時にリスたちに挨拶したり――ちょっとした暇を見つけては森の中を散策すること、それだけがティアラにとって唯一の心の慰めでした。
その日もティアラはお夕飯の支度を大体のところすませると、お母さんにちょっと散歩にいってきますと言って出かけました。シヴィルは娘がその日一日の仕事をほとんどひとりでこなしたことを満足の目で眺めていましたので、もちろん快く彼女のことを送りだしました。
「晩ごはんの時間までには戻ってくるんだよ」
そう母親が優しく言ってくれたのを聞いて、ティアラはほっとして家の勝手口から外へでてゆきました。ティアラは自分のお母さんのことが大好きでしたし、時々母親がヒステリックにわめき散らす時も、
『お母さんはわたしさえいなければ、王城のある町で裕福に暮らしていたんだわ。それなのにこんな辺鄙なところで暮らしているのはわたしが生まれてしまったせい……なんて申し訳ないんでしょう』
そう思ってただ黙って母親の言い分を鵜呑みにしていたのでした。ティアラは義理の父であるオルガに対しても、『血の繋がりもないのに、ただ飯食らいのわたしを養ってくれる優しいお父さん』というように思っておりましたので、貧しい食事に粗末な服といったような生活でも、つらいと感じたことは今までいっぺんもありませんでした。
心の清らかなティアラが心底から願っていたこと――それはいつか親孝行がしたいということでした。文字の読み書きや簡単な計算などはお母さんが教えてくれていましたし、もし遠く離れることになったとしても町にでて勤め先が見つかるなら、働いたお金を両親に送れるのにと、そんなふうに考えていたのでした。
しかしながら、ティアラはまるで気づいていませんでしたけれども、彼女の両親はそんな娘の気持ちに釣り合うほどの立派な人間ではありませんでした。その日、ティアラは森を散歩中に狩りをしている最中のお父さんを見かけて、彼に向かってにっこり微笑むと大きく手を振りました。
「おとうさーん!」
そうティアラが叫んだ瞬間に、鹿の群れが茂みから逃げだし、弓の狙いを定めてあとは矢を射るばかりになっていたオルガは、娘に対して癇癪を起こしました。
「このただ飯食らいの役立たずめ!なんていうことをしてくれたんだ!鹿を一頭射止めれば、美味しい肉にありつけるだけでなく、皮を売ることだってできたのに!」
オルガはシヴィルに負けないくらいの癇癪持ちでしたので、ふたりの間の喧嘩は時に凄まじいほどでしたが、彼は娘に対しては滅多にこんなふうに怒りませんでしたので、ティアラは申し訳なさのあまり、胸が潰れる思いでした。
「……ごめんなさい」
そうしょんぼりしてあやまると、オルガは義理の娘の美しい顔を見下ろしながら、突然優しくなって、
「いや、べつにいいんだよ」
と猫撫で声で言いました。そして申し訳ない気持ちでいっぱいになっているティアラの気持ちを利用するように茂みの中へ押し倒すと、彼女の清らかな純潔を奪ってしまったのでした。
「このことは、お母さんには絶対に言うんじゃないぞ」
そうオルガに言われたティアラは、目を見開いたまま頷くことさえできませんでした。一体今自分の身の上に何が起きたのか、彼女にはまるで理解できなかったからです。それでも唯一ティアラが理解できたこと――それはもう家には帰れないし、お母さんとも顔を合わせられないということでした。それで可哀想なこの娘は、父親がその場からそそくさと去っていったあとも茂みの中に佇んだまま、そこで夜を明かしたのでした。
次の日の朝になった時、ティアラは自分がどこなのかもわからない他人の家にいることに気がつきました。ベッドから起き上がると足や腰の関節が痛みましたし、「くしゅん!」とくしゃみがひとつ飛びだしました。そしてまわりを見まわしてみると、そこはなんとも小綺麗な、とても住み心地の好さそうな家だったのでした。
台所からはパンを焼いたあとの香ばしい匂いが漂ってきていましたし、暖炉には火が赤々と燃えていてとても暖かでした。それに今自分が眠っているベッドも、フカフカとして寝心地がよく、このままいつまでもずっと眠っていたいくらいでした。
「ここは一体どこかしら?」
ティアラは立ち上がると、全部で七つもベッドがある寝室からでて、台所のほうへ歩いてゆきました。そこには長方形のテーブルの上に、やはり七つのお皿とスプーンやフォーク、コップなどが並んでいたのでした。
ティアラはぐう、とお腹が鳴ると、なんでもいいから食べものを口の中へ入れたいと思いました。それで意地汚いとは思ったのですが、七つのお皿の上の食べ残しに手をつけると、お礼がわりに食器を洗っておくことにしたのでした。
「この丸太小屋にはきっと、七人の人が住んでいるのね。もしこの人たちがいい人なら――きっとわたしのことを小間使いとして雇ってくれるでしょう。だってわたしにはもう、帰るところなんてないんですもの」
ティアラはきのうあった悲しい出来事のことを思いだすと、たまらなくなってわっと泣きだしました。信頼していた人に裏切られたことと、大好きなお母さんに会えないこととが、身も世もなく彼女のことを責め苛んでいたのでした。
そして夕方頃になって七人の小人たちが丸太小屋へ戻ってくると、彼らはティアラのなんとも美しい容貌を見て、次々に感嘆の声を上げたのでした。
「これはまあなんと美しい!」と、一番最初に入ってきた茶色い帽子の小人が言いました。
「瞳はまるでサファイアか深い海の色のよう」と、二番目に入ってきた黄色い帽子の小人。
「その上髪は黒檀のように真っ黒で、黒絹のように艶やか」と、三番目の紫色の帽子の小人。
「頬は薔薇のように愛らしくて」と、四番目の赤い帽子の小人。
「唇はまるで鈴なりの苺のような可愛らしさ」と、五番目の緑色の帽子の小人。
「肌は処女雪みたいに真っ白だ」と、六番目の青い帽子の小人。
「果たしてこのお姫さまはだーあれ?」と、小首を傾げながら、七番目の水色の帽子の小人が言い終えると、ティアラはあまりの賛辞の数々に照れ笑いしながらおずおずと答えました。
「わたしの名前はティアラといいます。助けていただいたこと、本当に心から感謝しています。それで、もしよければみなさんの身のまわりのお世話をさせていただければと思うのです。実は事情があって、今まで住んでいた家のほうにはもう、戻れなくなってしまったので……」
「そんなことだろうと思ったよ」と、どうやら七人の小人のリーダー格らしい、茶色い帽子の小人――ブラウンが言いました。「でもまあいいだろう。オイラたちは昼間、近くの山に鉱石を掘りにいってるからね。その間に部屋の掃除や食事の支度なんかをしてくれるなら、こっちとしても大助かりというわけさ。みんなだって、賛成だろう?」
「もちろんだとも!」
六人の小人が同時にそう答えると、ティアラは嬉しさのあまり泣きだしそうになってしまったくらいでした。
「みなさん、どうもありがとう。わたし、みなさんのためにきっと一生懸命働きます」
ティアラは早速夕食の準備にとりかかり、とても美味しい鹿肉のシチューをこしらえました。七人の小人たちは口を揃えて「美味しい!」、「うまい!」と言っては、次から次へとおかわりをして、鍋のシチューを残さず食べてしまったくらいでした。
そして後片付けがすべてすんだあとで、ティアラは小人たちより先にベッドで休ませてもらうことにしました。小人たちが自分の料理を褒めてくれたことはとても嬉しかったのですが、ティアラはこの時すでにホームシックにかかっていて、早くベッドの中に身を落ち着けて、声を押し殺して泣きたい気分だったのです。
七人の小人たちはティアラに「おやすみなさい」と口々に言いますと、居間の暖炉を囲って酒盛りをはじめました。ティアラは一番隅のほうのベッドへ横になってしくしくと声を押し殺して泣いていたのですが、そのうちに眠りに落ち、一刻ほどしてから再び目を覚ましました。隣の部屋では小人たちがおのおの木でできたコップに葡萄酒を注いで飲み、鼻や頬を赤く染めながら何やら話をして盛り上がっている様子です。
「それにしても、ヒヒヒ。オイラたちゃ随分上等の拾いものをしたもんさな」
「おうともさ。べっぴんな上に料理上手ときちゃ、こりゃたまんねえなあ」
「ところであの娘にベッドをひとつ占領されたとなると、オイラたちのうちのひとりがあぶれちまうんでねえか?」
「そうだなあ。誰かひとり交替でふたりでひとつのベッドを使ったらどうだい?」
「へへへ。それよりオイラ、あのべっぴんな娘っ子と一緒に寝たいだよ」
「じゃあ、オイラたち七人が交替で、あの娘っ子と寝るってのはどうだい?」
「毎日ひとりずつ、交替であの娘っ子の体を満足させてやるのさ」
そのあと、七人の小人たちは「フヒヒ」だの「へへへ」だのと下品に笑いだし、最後には酔い潰れてそのままいびきをかいて眠りこんでしまったのでした。
この話を聞くとはなしに聞いていたティアラは、突然この善良そうな小人たちのことが恐ろしくなり、急いで窓から逃げだしました。
七人の小人たちのことを弁明して申しますと、彼らは酔いの勢いに任せてついそんな話をしてしまっただけなのであって、もちろんティアラに乱暴するつもりなど毛頭なかったのです。事実、七人は朝になるとゆうべ酔っ払って話したことはすっかり忘れていました。そしてティアラが逃げるようにいなくなったのを見て、「一体どうしたのだろう?」と互いに顔を見合わせたのでした。
ティアラは信頼していた義理の父に無理矢理犯されたばかりということもあって、その種の話には今、とても神経が過敏になっていたのです。それで、もう誰も信じられないような気分になって、夜明けの森の中をあてどもなくさ迷い歩いていたのでした。今はもう十月……風もだんだんと冷たくなり、冬の足音が遠くの空にこだましているような気配が感じられます。
(わたしはこのまま、生まれ育ったこの森で、寒さに凍えながら飢え死にしてしまうしかないのかしら)
ティアラは針葉樹の樹木の間をふらふらと歩いていたのですが、知らぬ間に道がわからなくなってしまっていました。でもそのことがわかってからもティアラは、(もうどうでもいい)としか思えませんでした。そのうちに力尽きて倒れたら、そのままそこで死ぬ覚悟だったのです。
ところが、遠くの茶色い道なき道から黒いローブ姿のおばあさんが歩いてくるのを見ると、ティアラは一条の光をそこに垣間見る思いがしました。おばあさんは籠に林檎をいくつも持っていて、ティアラはその林檎が食べたくて食べたくてたまらなくなりました。
「もし、おばあさん」と、ティアラは空腹と疲れで、ふらついた足どりで彼女に引き寄せられるように近寄っていきました。
「その美味しそうな林檎をおひとつ、分けていただけないかしら?」
実をいうとこのおばあさんは、ティアラの母親のシヴィルでした。でもどういうわけかこの時、ティアラには彼女が自分の母親であるとはわからなかったのです。シヴィルはティアラがいなくなったあの後、狂ったように散々森の中を探しまわった揚げ句、様子のおかしいオルガに本当のことを白状させていたのでした。
シヴィルはそのせいで、たったの一晩で髪の毛が真っ白になり、顔は皺くちゃになっていました。そして林檎に毒を入れたものを用意すると、それを普通の林檎と一緒に籠に詰めたのでした。
(この毒入り林檎で、ティアラと一緒に死のう)
シヴィルは食事に毒を混ぜてオルガのことを殺すと、あばら屋をでて、森中をさ迷い歩き続けました。そしてようやくのことでとうとう、再び娘と巡り会うことができたのです。
「これはあげられないよ、お嬢さん」シヴィルは嗄れ声で言いました。「なんたって毒が入っているもんでね」
「まあ、毒が!」
ティアラは驚きましたが、それもほんの束の間のことで、すぐにおばあさんに「どうかその林檎をください」と、涙ながらに懇願しました。
「どうやら訳ありのようだね。じゃあこの青いのをひとつ分けてあげようか。死ぬなんてことはいつでもできることだからね、滅多な気を起こさず、できるなら生きることを考えるんだよ」
ティアラは不思議なおばあさんに「どうもありがとう」と丁寧にお礼を言うと、さらに森の深いところへと足を進めていきました。もうすぐ日暮れです。次期に冷気が忍びこんできて、とても寒くなるでしょう。ティアラも歩き疲れてもうくたくたでした。それにお腹も空いています。毒入りだろうとなんだろうと構わないから、この林檎を食べてしまおうと思いました。
そしてティアラがその青い林檎に真珠のような白い歯を立てようとした時――松や杉などの針葉樹が連なる森の彼方から、馬のいななきが聞こえてきました。ティアラが振り返ると、彼方の方角から馬の蹄の音が近づいてくるのがわかります。こんなところに一体誰だろう……ティアラはどきどきしながら馬の姿が現れるのを待ちました。
「どうどう!」
その黒馬に跨った若い男性は、狭い道ともいえないような道で馬を竿立ちにして止めると、驚いたような顔をしてティアラのことを見下ろしています。
「君、こんなところで一体どうしたの?」
彼――カルロ王子は実をいうと、狩りの最中に道に迷ってしまったのでした。それでもこの王子さまはとても鷹揚な性格をしていましたから、陽が暮れかかっているにも関わらず、全然焦ってなどいませんでした。それならそれで、そこらへんで野宿をして夜を明かせばいいと、そんなふうに思っていたのです。
カルロ王子は馬から下りると、怯えたような顔をした可愛らしい娘の綺麗な瞳をじっとのぞきこみました。
(なんという美しい娘なのだろう。だが何故こんなところで若い娘がひとり、ほっつき歩いているのか……)
娘のほうから返事が何もありませんので、王子はさらに重ねて言いました。
「そろそろ陽が暮れるよ。もしよければ、ぼくの馬に一緒にお乗りなさい。家まで送っていってあげるから」
ティアラはなんと答えたらよいかもわからず、金縛りにあったように怯えきっていました。何故といってティアラはこれまで、カルロ王子のような若い男性に――それも彼のようにハンサムで感じのいい男性に――一度も会ったことなどなかったからです。
「君、もしかして口が聞けないの?」
ティアラは不機嫌そうに眉を顰めているカルロ王子に向かって、一生懸命首を振りました。
「ふうん。じゃあ名前はなんていうの?」
「……ティアラといいます」
ティアラはやっとのことで自分の名前を答えました。
「宝石か。君はきっと御両親にとって、そのような存在なのだろうね」
カルロ王子はあくまでも何気なくそう言ったのですが、目の前の美しいけれども見すぼらしい格好の娘が突然泣きだしたのを見て、自分が何か悪いことをしたような、そんな気がしてきました。
「何も、泣くことはないじゃないか。それとももしかして君には御両親がなかったのかな?もしそうなら、あやまらなくてはいけないけれど」
ティアラがまた一生懸命首を振るのを見て、カルロ王子はどうしたらいいのかわからなくなりました。可哀想に、この可愛らしい様子の娘は寒さに凍える小鳥のように、身を震わせながら泣きじゃくっています。王子は溜息をひとつ着くと、自分が身に着けていた紺色のローブをティアラの肩にかけてあげることにしました。
「ぼくは狩りの最中に、オオジカを追うのに夢中になっていて、道に迷ってしまったんだよ。もし君が道案内してくれるとしたら、とても助かるんだけど」
「……道なんて、わたしにももうわかりません」
そうティアラが答えるのを聞いて、ようやくカルロ王子は納得がいきました。彼女もまた自分と同じように森で迷子になってしまい、不安のあまり泣きだしてしまったのだろうと。それならひとりよりもふたりでいたほうが、お互いひとりぽっちでいるよりずっと幸いなことだと思いました。
「じゃあね、今日はもう陽も暮れてきたし、とりあえず野宿するための場所を確保することにしよう。それから薪にするための木を集めて、火を起こさなきゃね。それで明日の朝になったらまたふたりで森の出口を探すんだ」
ティアラはカルロ王子の言うとおり、薪を集めながら元きた道へと引き返し、木こりが樹木を伐採してできた広場を途中に見つけると、彼とふたり、そこで夜を明かすことにしたのでした。
やがてあたりは真っ暗になり、薪の燃える炎にあたりながら、カルロ王子とティアラは軽い世間話のようなものをしました。カルロさまは自分の身分が王子であるとは彼女に打ち明けませんでしたが、それでもティアラは彼の身なりが立派なのを見て、きっとどこかのお貴族さまに違いないと思っていました。
「じゃあ、近くの領地にお屋敷をお持ちなのですか」
「うん、まあね」と、カルロ王子が答えます。「毎年秋には必ず、狩猟のためにそこを訪れるんだ。ぼくには兄さんがひとりいるんだけど、兄さんは狩りが野蛮だって言って絶対やりたがらないんだよ。でもぼく思うんだけどねえ、自分が毎日食べてる豚の肉も牛の肉も結局はどこかで誰かが屠ったものだろう?それなのに野蛮だっていうのはちょっとおかしいんじゃないかって思うんだよ」
「わたし、難しいことはよくわかりませんけど……でもわたしの父は猟師をしているので、もしお父さんが何も獲物を持ってきてくれなくなったとしたら、飢え死にするしかなかったと思います」
「そうそう。ぼくが言いたいのはそういうことなんだよ」と、カルロ王子はにっこりしながら言いました。「だからぼく、動物の死体を見ただけで失神しちゃうようなご婦人は好きになれないんだ。ぼくは自分が狩った獲物は鹿でも猪でも鶉でもなんでも、解体する作業まで自分でやるんだよ。そうじゃないとなんだか野生を冒涜しているような気がするからね」
「ぼうとく?」ティアラは難しい言葉がカルロ王子の口からでたので、小さく首を傾げました。
「ええと、その……そうだね。改めてそう聞かれるとちょっと説明が難しいな。でもまあ、ようするに自然という神聖な存在を愛し敬うということさ。ちょうど、女性に対するのと同じようにね」
そう言ってカルロ王子が熱っぽい眼差しをティアラに対して向けてきましたので、ティアラはなんとなくどきまぎして俯きました。
「ところでティアラちゃん。君が持っているその青い林檎だけど……もしよかったら半分分けてもらえないかな。ぼく、さっきからお腹がぺこぺこで」
「こっ、これは駄目です」と、ティアラは即座に林檎を自分の背後に隠しました。「だってこれ、毒林檎なんですもの」
「毒林檎?」と、カルロ王子は怪訝そうな顔をしています。「じゃあなんでそんなもの、後生大事に持っているの?」
「そっ、それは……」
ティアラが言葉に詰まったのを見て、カルロ王子は肩を竦めました。そうまでして自分に食べさせたくないというのなら、それはそれで仕方がないというように。
「まあ、いいや。とにかくそれは君にとって大切な林檎なんだね。意地汚いことを言って悪かったよ。そろそろ横になって眠るといい。ぼくが火の番をしていてあげるから」
ティアラは王子の暖かい毛織りのローブを布団がわりにして横になると、そのまますぐにすやすやと眠ってしまいました。なんだかもう何日もぐっすりとは眠っていないような気がしていましたし、こんなに安心した気持ちで横になるのも随分久しぶりのことのような気がしていました。
そしてカルロ王子は子供のようにすやすやと可愛らしい寝息を立てているティアラのことを見つめながら、寝ずの番を務めていたのですが――まるでティアラの青い林檎をつけ狙うように、一匹の大蛇が夜明け前に姿を現したのでした。王子もまた半分うとうとしかかっていたのですが、緑色のうねうねとした蛇の存在に気がつきますと、すぐに腰の剣を抜き放ち、蛇を追い払いました。その蛇は根が臆病だったのかどうか、カルロ王子が剣の先で少しつついただけで、すぐに藪の中へと姿を消してしまいました。
カルロ王子は蛇のせいですっかり目が覚めてしまうと、ティアラの青い林檎のことがどうにも気になって気になって仕方ありませんでした。その艶々とした色といい、熟した形といい、とても美味しそうで喉から手がでそうなほどでした。それで王子はこっそり、ティアラの頭のそばから青い林檎を手にとると、それをほれぼれと眺めて一口かじってしまったのです。ティアラになら、あとからどうとでも言い訳ができると思いましたし、お腹が空いてどうにも我慢ができなかったと言えば、きっと彼女も許してくれるに違いないと思ったのです。
ところが、その林檎はティアラが言ったとおり本当に本物の毒林檎でしたので――カルロ王子は一口食べたその数秒後に、「うぐっ」と喉が詰まったようになりました。その時ティアラが目を覚まして、王子の奇妙な様子に気がつきますと、林檎が一口かじられた形で地面に転がっているのを見て、顔が蒼白になりました。
「カルロさまっ!」
ティアラはすぐに王子の背後にまわって、その広い背中を手のひらでどんどん叩きました。後頭部や首の後ろも容赦なくビシバシ叩いて、カルロ王子が林檎のかけらを吐きだしたあとも、彼のことを力いっぱい殴っていたくらいでした。
「……ティアラ、ティアラ。もういいよ。もう大丈夫」
王子はティアラが、自分に何か恨みでもあるのではないかというくらい殴ってきたので、思わず笑いがこみあげてきたほどでした――たった今、自分は死にかけていたというにも関わらずです。
「君は面白い娘だねえ」王子は腰にぶら下げていた水筒で軽くうがいをすると、くすくす笑いながらティアラのことを改めて見つめ直しました。「どうしてそんな毒林檎なんか大切そうに持っていたりなんかしたの。ぼくはてっきり君が自分の唯一の食糧をとられたくないもんで、ぼくに分けてくれなかったのかなと思ってたんだけど。まさか本当に毒入りだったとはねえ」
「ごめんなさい、カルロさま。わたし……」
最初にもっと詳しく話をしておけば良かったと思い、ティアラは涙ぐみながら彼に説明しはじめました――つい二日ほど前に義理の父親に森の中で陵辱されたこと、また七人の小人が自分を助けてくれたものの、彼らが酔っ払って話していたことが怖くなってそこから逃げだしたこと、もう死んでしまおうと思ってふらふらと歩きまわっていたら林檎の籠を持ったおばあさんが現れて、毒入りの林檎を分けてくれたことなど、包み隠さず全部をです。
カルロ王子は泣きながら自分の身の上話を語るティアラのことが哀れであるとともに愛しくてたまらなくなり、最後には彼女のことをぎゅっと抱きしめていたくらいでした。
「きっと、とてもつらかっただろうね……でも一度や二度、大きな石に躓いたからといって、人生を投げだしてはいけないよ。君の義理のお父さんのことはぼくも斬り殺してやりたいくらいだけれど、小人たちが酔って言ったことなんて、いちいち気にしてはいけない。男なんていうのは酔っ払ったらちょっと下品な冗談を言うものだし、もちろんそういうことがあったあとだから、君が逃げだしたのも無理はないとは思うけど――これからは過去にあった嫌なことは全部忘れるようにするんだ。そうしたらぼくが君に、本当の愛がどんなものかを教えてあげるからね」
「……はい。カルロさま」
ティアラは王子さまの暖かな胸の中で、最初は悲しくて流していた涙が、最後には嬉し涙に変わるのを感じました。そして純潔を奪われた自分のことを軽蔑もせずにそんなふうに優しく扱ってくださるのだから、この方にならきっと、何があっても一生ついていけるだろうとさえ思ったのでした。
カルロ王子はティアラに愛の約束のためにキスをひとつすると、もう大分小さくなっていた火を消して、ティアラとともに黒馬に跨りました。そしてほどなくして王子のことを探しまわっていた彼の従者たちと巡りあい、自分の領地にある大きな屋敷へと彼女のことを連れ帰ったのでした。
一方シヴィルは、自分の娘に毒林檎を手渡したあと、鬱蒼とした森の中で林檎を一口かじり、苔むした緑の絨毯の上で息絶えて亡くなっていました。この時もう彼女は少し気が触れていましたので、林檎をティアラにひとつ渡した時にも、それが自分の娘だとは実はわかっていなかったのでした。
そしてティアラがカルロ王子とともに生まれて初めて森の外へでた日の夕方――シヴィルの遺体は七人の小人たちに発見され、彼らの手によって丁重に埋葬されたのでした。
彼らはシヴィルのことも、彼女の夫である猟師のオルガのことも知っていましたから、その上で彼女のことを深く哀れみ、なんと気の毒な婦人だろうと口々に言いあいました。七人の小人たちはふたりの間にティアラという名のひとり娘がいることも知っていたので、それで暫くの間彼女のことを預かるつもりでいたのです。ところがティアラはいつの間にかいなくなっていましたから、そのことを知らせにオルガの掘っ立て小屋までブラウンが走っていくと――そこには毒殺されたオルガの死体があったのでした。
七人の小人たちはこの気の毒な仲の悪かった夫婦のために立派な棺をふたつ作ると、その中に遺体を納めて土の中へと埋めました。そしてその上に彼ら夫婦の名を記した木の墓標を立てると、跪いて弔いの祈りを捧げたのでした。
それから一年後、紆余曲折の末にカルロ王子とティアラは結ばれて、盛大な結婚式が行われることになりました。そこでティアラは両親にも式に出席してもらいたいと思い、招待状をだしたのですが――伝令の使者の話によると、ふたりはすでに亡くなっているということでした。ショックを受けたティアラは、両親のお墓参りのために自分の生まれ育った森へと戻ったのですが、七人の小人から両親が死んだ時の状況などを聞かされて――その時初めて、あの時毒林檎をくれたのが自分の母親であると、気づいたのでした。
「ああ、お母さん。わたしはなんと親不孝な娘でしょう。ようやくこれで親孝行ができると思ったのに……こんなことなら、あの時わたしもお母さんと一緒に毒林檎を食べて、この森の中で死んでいればよかった。どうかお母さん、こんなに親不孝な娘のことを許してください」
そう言ってティアラは両親の墓の前で涙を流し、一日中そこから離れませんでした。実をいうとティアラは、王城のある町で自分のおじいさんとおばあさんとも会うことができていましたし、貴族の彼らが養女として引きとってくれたことで、ようやくカルロ王子と結婚することができるようになったのです。おじいさんもおばあさんも、勘当した娘のことを今ではすっかり許していましたし、これからはまた昔のように家族みんなで仲良くやっていこうと話していたばかりでした。ああ、それなのに……ティアラは自分の幼い時から苦労してきた美しい母のことを思うと、悲しみで胸が潰れそうなくらいでした。
その後、ティアラはカルロ王子と結婚してお妃さまになったのですが、雪のように白い肌の美しい彼女のことを国民たちは親しみをこめて<白雪妃>と呼ぶようになったということです。
終わり