第135話 挨拶
~音咲華多莉視点~
帽子を目深に被って、マスクをする。泊まっている部屋から出ようとする私は、扉を開けて廊下の左右を確認した。
誰もいない。
私はホッとした。織原に会いたくない。お父さんの言葉でショックを受けて、たまたま私の部屋の前にいた織原を巻き込んでしまった。あれから彼には会っていない。弱っているところを見られて、更には弱音を吐いてしまった。織原になら打ち明けても良いと私はどこかで思ってたんだ。あの時にも思ったが、私とお父さんとのことをお父さんのいない織原に打ち明けたのは良くなかったのだと反省している。
──だけど、織原に知ってもらいたかった。何故なら私はきっと、彼に、織原に…なんだろう上手く言葉にできない……
腕をひいてトラックから私を守ってくれたことや、胸を触られたこと、体育館裏で一緒に樹の裏に隠れたこと、林間学校でのこと、勉強を教えてくれたこと、ホテルの廊下でのことを私は思い出した。
もしかすると、私は彼のことを私だけの使用人かなんかと思っているんだと思う。
だってディスティニーシーで見知らぬ年上の女の人と一緒にいたのを目撃した時──これは私の勘違いだったけれど──とても嫌な気持ちになった。何故かというと私だけの使用人なのに、私に断りもなく遊んでいるんだもの。
いくら使用人だからといって、プライベートにまで私が踏み込むべきではないことはわかっている。
──だけど、ホテルの関係者である彼が危ない女の人と一緒にいればホテルのイメージダウンにも繋がるし…そう!だから私は嫌な気持ちになったんだ!!
エレベーターホールでエレベーターを待っていると、再び私は左右を確認した。織原がいつ出勤してくるかわからない。エレベーターがまだ来ないことを確認してから、私は再び自分が来た廊下を確認する。
──ふぅ…どうやら今日は出勤日じゃないらしい…そっか……
何故だか彼を探しているみたいだった。
──だ、だって使用人だもの彼の健康管理とかは、雇い主である私がするべきじゃない?
そう思いながら下の階に到着した。ロビーを通り抜け、私はまたキョロキョロと辺りを見回す。
──今日は本当に休みのようね……
マネージャーの加賀美英子がいつものところに車を止めて待っている。私がドアに手を掛ける前にドアが開いた。加賀美が運転席から自動で開けてくれたのだ。車に乗り込むと運転席にいる加賀美が挨拶してきた。
「おはよう。よく眠れた?」
私もおはよう、と答えて加賀美の質問に答える。
「いつも通りかな。それよりもこの前送った企画書読んだ?」
ドアが自動で閉まる。私はシートベルトを掛けながら加賀美の返答を待った。ハンドルをきりながら出発すると、加賀美は言った。
「読んだ。けどその日の午前中は朝一で撮影が入ってるじゃない?」
「そう、だから午後なら良いでしょ?」
「ん~全部上手く行けば問題ないけど……」
「午後って行っても16時とかにすれば大丈夫だって!それより企画内容についてはどう思ったの?」
高速に入った。向かうはお台場だ。
「良いと思う。後は学校側に許可をとらなきゃダメね」
「学校が始まったら担任の先生に相談してみる。だからその日の午後から予定は入れないでね」
「はいはい」
私はワイヤレスイヤホンを耳に装着した。加賀美はその光景を見ると慌てて私に話し掛けた。
「今日の収録内容、急遽変わったところがあるんだけど、そこで華多莉にコメント求めるかもしれないから考えといてね」
私は片方のイヤホンを外して抗議した。
「えぇ~、そんなんばっかじゃん。台本読む意味ないし」
「仕方ないでしょ?昨日とか何か事件が起きたら取り上げなきゃいけないんだから」
これから行く収録は最新のニュースを芸能人達が独特な角度で切っていく生放送の番組だ。確かに仕方のないことだ。加賀美の言葉を聞き流しながら、スマホを操作する。今日が朝早かった為に、昨日の夜のエドヴァルド様の配信を見ていないのだ。
『重大発表』
という文字で埋め尽くされたサムネイルだった。リアルタイムで見たかったが諦めて就寝したのだ。
サムネイルをタップして動画を再生させる。
「で?何が変わったの?」
動画を見ながらなので、話すタイミングが微妙に遅くなる。それは運転している加賀美も一緒で、合流地点での車線変更による攻防に加賀美は集中していた。
その間にも動画は再生させる。どんな重大発表が行われるのか、ネタバレになるかもしれないのでコメント欄はまだ見ないようにしている。
画面の右側をタップして10秒、20秒早送りをしてオープニングを飛ばした。そして愛しのエドヴァルド様が現れる。
『っえ~、重大発表つってね。仰々しいサムネイルに釣られた人もいるかもしれません。どうしようかな?いきなり話しちゃおうか?あんまり勿体振るのも良くないし、折角開始時間まで待ってくれてる人もいたから、もう話しちゃうね。少し前に、ポーカー大会の前かな?話したんだけど、テレビ番組のオファーの話あったじゃん?あれ、やっぱり受けてみようと思うんだよね』
車線変更が完了したのか加賀美がこちらをチラリと見ながら言った。
「Vチューバーの人がゲストに出ることになって、高校生である華多莉にVチューバーについてどう思うのかコメントしてもらいたいみたい」
『ポーカー大会の影響でオファー受けたの?そう。まさにそれ、影響受けやすいからさ、テレビに出演することになりました。明日の午前10時、富士見テレビのワイドデショーに出ます!!』
「えぇぇぇぇぇぇ~!!!!」
大声を出した私に加賀美がビクリと身体を弾ませて私を見た。
「だ、大丈夫!?コメントするのそんなに嫌だった?」
「…加賀美、Vチューバーの人がゲストに出るって言ってたけど、なんて人かわかる?」
「え~っと、最近ザスティン・マーランがSNSで取り上げて話題になったVチューバーで……手帳見れば正確にわかるけど、確かエドヴァルドなんとかっていう……」
「エドヴァルド・ブレイン……」
「そう!エドヴァルド・ブレイン!華多莉も知ってたみたいね」
「知ってるも何も……」
──めちゃくちゃファンなんだけど。え?ウソ、共演するの?ヤバイヤバイヤバイヤバイ!!
両頬に手を当てた。指先が高温となった耳と接触する。私は手を頬から少し上へずらして耳を手で包むようにして冷ました。そうやって興奮を押さえようとするが無理であった。今度はヘッドレストに頭を何度か打ち付けて、仰け反りながらどうしようかと考える。
──それよりもなんてコメントしようか?待って、上手く喋れなかったらどうするの!?エドヴァルド様に嫌われでもしたら……
座席でクネクネしながら悶える私を心配そうに加賀美は見ていた。
そんなことを考えているとあっという間に富士見テレビの収録スタジオに到着した。
『音咲華多莉様』
と書かれた楽屋に入ったがしかし、ここまでどうやって来たのか覚えていない。かつてない緊張が私を襲った。
おもむろに立ち上がり、廊下へ出た。じっとしていられない。とりあえずトイレに行こう。そう思って廊下を歩くと、私は発見してしまった。
『エドヴァルド・ブレイン様』
と書かれた楽屋を。
咄嗟に後退り、考えた。
──え…ここにエドヴァルド様がいるの?
どうしようか。共演者なのだから挨拶をしても良い筈だ。
──で、でもこれってある意味マナー違反よね……だって、Vチューバーの中の人を突き止めようとしているのだから。でもこの前FMSで天久カミカさんと会ったんだし……
エドヴァルド様はおそらく私を認知してくれている。それに私と同じ学校に通っている。私が挨拶に来ても──驚くかもしれないけど──きっと笑って対応してくださる筈だ。
エドヴァルド様の楽屋の扉が神々しく光って見えた。取手に手を掛ける前に扉に耳を押し当てて中の様子を探った。
微かに声が聞こえる。
端から見たら楽屋泥棒に間違えられるだろう。しかしそんなリスクを負ってわかったことは中に2人いるということだ。1人はスタッフさんでもう1人はエドヴァルド様だ。その声は扉越しでもわかった。
どうしよう。挨拶しても良い?どうしても直接お礼が言いたい。私がここまでアイドルを頑張れたのは貴方のおかげだって。自己中心的なことだってわかっている。だけど、この想いは押さえられない。
震える手を持ち上げて、私は目を見開き扉をノックした。
「はい!」
スタッフさんの声がする。私は震える手と同様、震えた声で失礼しますと言ってから扉を押し開けた。