第116話 発声
~織原朔真視点~
「あ~あ~あ~あ~♪」
字面だときっと音階が表現できないだろうなと思いながら、僕はピアノの旋律に合わせて声を出す。
ここ数ヵ月、安定した収入が入ってきたこともあって僕は以前通っていたボイストレーニング教室に再び通うことにした。元々中学時代、過度のストレスが原因で声が出なくなってしまったこともあり、保健の先生に紹介されたボイトレ教室に僕は通っていたのだ。当時の僕はというと、大人というものが信じられなくなっており──今もそうなのだが──このまま声が出なくても良いと思っていた。
しかし、父親が戻ってこないことがいよいよ現実味を帯始め、これから僕と妹の2人で暮らしていかなければならないと理解した僕は、このままではよくないと漠然的に思った。紹介されたボイトレの先生は明るく、声の出ない僕を受け入れてくれた。ボイトレなんかで声が出るものなのかと思った僕だが、その先生は声がどうやって出るのか、そのメカニズムから教えてくれた。
僕の場合、声帯がストレスによって正常に動こうとしていないということと、喉や首回りに過度な力が入っているということを指摘された。
声帯を震わせることは一旦、おいといて肩や首回りの力を抜くように指導を受けた。そして、その先生は僕に発声の基本である腹式呼吸を教えてくれた。声が出なくなる前、歌に興味のあった僕はネットやユーチューブで歌を上手く歌うにはどうしたら良いか調べたことがあるが、腹式呼吸を推奨しているボイストレーナー達はほぼいなかった。
その旨を筆談で伝えた僕だが、先生は優しく僕に教えてくれた。腹式呼吸ではなく胸式呼吸でも歌は歌えるが、僕の場合首や喉の力を抜くことを優先すべきであると告げられた。今思えば、それは僕を納得させる為の方便である気がした。実際のところ豊かな低音は腹式呼吸からしか体現できないものだと今の僕は思っているからだ。
僕は歌に夢中になった。声が出なくとも誰かの歌を聞くことはできる。良いなと思った人の歌声を先生に聞かせては意見を言って貰った。具体的には、この人はどのように声を出しているのか、だ。その質問をすることで自分もこのように声が出せるようになるのではないかと、想像したものだ。
その質問に先生はきちんと答えてくれる。また、先生が上手いと思う歌手も教えてくれた。殆どがオペラ歌手ではあったが、僕はその歌手達の歌をわからないながらも聴いた。
ルチアーノ・パバロッティ
ホセ・カレーラス
エットーレ・バスティアニーニ
ルネ・フレミング
キャスリーン・バトル
ヴィットーリオ・グリゴーロ
自然な声帯の振るえ方、高音なのに柔らかく低音が響く。感情を揺さぶる強弱に、表情豊かな音色。
日々の生活に、学校、周囲の目から歌は僕を解放してくれた。そしていよいよ声が出るようになり、声を出しての発声練習が始まった。
しかし、母親の残したお金も少なくなり、高校生となった僕はアルバイトをするようになる。お金のかかるボイトレには行かなくなってしまった。というのがこれまでの経緯だ。約1年ぶりのレッスンを僕は現在受けている。
「まだ声を前に押し出そうとしてるね、もっと口元を柔らかくして、後ろに響かせる意識をしてみたら?」
岡野先生は言った。僕からしたら口元になんの意識もしていない。つまりは固くなっていることすら気付かなかった。僕は、はいと返事をして先生の言うことをきく。
発声練習をしているとたまに、これが良い声なのか?と疑いたくなるようなことがある。パバロッティのようなダイナミックな声を出したいものなのだが、それをイメージして声を出すと、決まって力が入っているとか声を前に押し出そうとしていると注意される。
僕は言われた通りに口元の脱力と、自分では良い声だと思わないような声を出す。すると先生が言った。
「そうそう!やっと戻ってきた」
戻ってきたというのは、以前通っていた時の声になってきたと言う意味だ。自分では劣化していないと思っていても、やはり発声練習をしていないと衰えてしまうものだ。
レッスンが終わり、先生に高校生活のことを聞かれた。当たり障りのない返答をする。何故再びこのボイトレに通おうとしたのかその理由を先生は訊いてこない。人には色々と事情がある。先生は気を遣って訊いてこないのだろうと僕は思った。
確かにチャンネル登録者数も伸びて、生活が楽になって、元々好きだった歌を習いにきたというのは間違っていない。しかし本当の理由としては夢を見たからだ。エドヴァルドの夢を。
◇ ◇ ◇ ◇
「よぉ……」
オレンジ色の髪と挑発するような目と口調。エドヴァルドが正面にいる。そして話し掛けてきた。僕は咄嗟にこれが夢だと認識する。
「そうだ、これは夢だ。お前と俺の夢」
僕は声を出そうと思ったが出なかった。その時、足がすくむような恐怖が募る。今まで出来ていたことができなくなる。僕はこの恐怖に日々怯えていた。
「そうそう、お前はこれが恐いんだよな。でも一ノ瀬さんが言ってたじゃないか?恐がる自分も本当の自分なんだって。そろそろじゃねぇの?」
何が?と聞き返したいが、目の前にいるエドヴァルドは僕自身だ。彼が何をそろそろなのか僕は知っている。
「恐怖って言うのはな、目を背けちまうと我が物顔でお前を飲み込んじまうんだ。お前はまだ人の目が恐い。あの時の自分に戻りたくなくて避けてんだろ?」
僕を見る目が、僕が可哀想な奴じゃなきゃいけないんだというレッテルを張り付ける。これがただの被害妄想であるのもわかっている。だけど、どうしてもたくさんの人の目を見るとあの頃の自分に、声が出なくて惨めで、弱い自分に戻ってしまう。エドヴァルドは少し悲しげな表情をして、暫く間を置いてから続けて言った。
「あん時のお前がいたから俺が生まれたんだ。なぁに恐かねぇよ、なんてたって俺が一緒なんだからな」
◇ ◇ ◇ ◇
僕はこのボイトレのお陰で声が出るようになったと感謝している反面、声の出なくなった当時のことをどうしても思い出してしまうのだ。
高校生になった時に、ボイトレに通うことは困難になったし、当初の目的である声もある程度出るようにはなった。妹の萌のおかげで、Vチューバーという居場所もできた。僕はボイトレをすることを避けていたのだ。しかし一ノ瀬さんの試合を見て、そして彼女の決意を聞いて、エドヴァルドの夢を見て、当時の惨めな自分とその悲しみに触れることができたらもしかしたら、人の目を気にせずもっと喋れるようになるかもしれない。
ボイトレの先生が再度話をふった。
「鏡三さんのところでバイトしてるって聞いたんだけど?」
僕は、はいと答える。鏡三さんとは、音咲鏡三、つまりは音咲さんのお父さんのことだ。