史実のドアマットヒロイン―細君譲渡事件の感想
皆様、公式企画の歴史ジャンルのテーマ「手紙」の進捗はいかがですか。私は、そもそも題材選びに難航しております。
題材として明治、大正、昭和辺りの近代文学者をネタに書こうかなと思って見つけた細君譲渡事件。これをテーマに一つ書こうとしたんですが、どうも私には扱いきれぬ難物。
しかし、せっかく多少調べたんだからまとめて感想文でも書いて昇華しようと思います。
まず、細君譲渡事件とは。
作家谷崎潤一郎が友人である佐藤春夫に妻千代を譲渡し、そのことを三人の連名で声明文を出して新聞の一面を飾ったというもの。
そのいきさつを瀬戸内寂聴が「つれなかりせばなかなかに」という本にまとめてます。
こちら、1997年刊行の本。新たに入手するのは難しい。Amazonでは古本くらいしかヒットしません。
書店で買えないならば、図書館で探そうと思ったら私の居住区の図書館は現在改装中。NO! このタイミングで! 隣の区の図書館、どこにあるのか知らんよー。というか、そもそも図書館に所蔵してあるかどうかも不明ですがね。
……調べてみたら、居住区の図書館には無くて隣の区の図書館にはあるけど貸し出し中。隣の隣の区の図書館にはある、と。ふむ。
とりあえず、今すぐは読めないので「つれなかりせばなかなかに」はまた機会を見つけて読むとします。
では、改めて事件のいきさつをほぼネット調べですが、まとめていきます。
谷崎潤一郎は、元々気の強い性格の初という芸者と結婚するつもりでいました。
ところが、初との結婚はならずその妹の千代と結婚します。
この千代という女性は、初とは性格がまったく異なりおとなしく従順で家庭的でした。そのことに谷崎は物足りなさを感じ、妻を愛しません。
そんな冷えた夫婦関係の間に現れたのが、千代の妹せい子です。
このせい子はおとなしい千代とは違って奔放で小悪魔。そのせい子をモデルとして書いたのが「痴人の愛」です。
奔放な妹、それに惹かれる夫、耐え忍ぶ姉! 異世界恋愛カテゴリーで見たことあるやつ!
そんな妻を冷遇して妻の妹に熱を上げる友人を見て、妻を不憫に思ったのが佐藤春夫です。
佐藤春夫はこの時、実弟と自分の妻との不倫に悩んでました。そして、夫と妹との不倫に悩む千代に同情し、彼女への思いが次第に愛情に変わります。
どいつもこいつも。
夫に捨て置かれて娘とわびしく夕食をとる千代、そんな二人と夕食をとる佐藤。……なんで?
その時の心境を描いた詩が「秋刀魚の歌」です。
佐藤の故郷ではすだちを秋刀魚にしぼって食べたんだよ、秋刀魚の腸は苦くておいしいといえば、幼い子が小さい箸を操って腸をくれようとしてくれる。そのいじらしい様に、父に顧みられない幼子とその母のかなわない一家団欒を哀れに思う。一人での夕食に秋刀魚を食べた時、その様を思い出して涙を流す。
そんな内容の詩です。詩自体は素晴らしい。
そんな赤の他人同士なのに夫婦然とした様子の佐藤と千代を見て、谷崎は二人が一緒になることを勧めます。
谷崎は谷崎でせい子と結婚しようと思ってました。
しかし、せい子はすっぱりと谷崎を振ります。
ここでいいぞと思いましたね。私、異世界恋愛ものの冷遇夫がヒロインや横恋慕女と愛を成就させる展開がどうも好きじゃないのです。
ひどいことしといてなにを愛を獲得しとんねん、と思ってしまうわけです。
せい子に振られた谷崎は、千代との離婚を撤回します。そのことに、佐藤は谷崎に激怒します。そして、二人は絶交します。
これが細君譲渡事件の前に起こった小田原事件のいきさつです。
ここで佐藤がスパダリなら、千代をさらうんでしょうけど、佐藤は谷崎と絶交しただけで終わりました。
さらえよ!
その後、佐藤は別の女性と恋に落ちます。千代を失った悲しみを埋めたかったんでしょうか。そして、奥さんとの板挟みに苦悩します。
いや、そこは別れときなさいよ。
奥さんと恋人との板挟みに苦悩した佐藤は、谷崎の心境を理解して、後に和解します。
いや、ちょっと何言ってんのかわかんないですね。と私の中のサンドイッチマンが言ってます。この言葉では理解できるけど、心情が理解しきれない、DOWNLOADEDとはならない感じよ。
谷崎の方はというと、千代と冷えた関係を続けながら他の女性と付き合ったり横恋慕したりしていました。
そして、谷崎のもとに押し掛けるように弟子志願の男、和田六郎が現れます。
この和田が千代にのぼせ上り、谷崎は二人に付き合うことを勧めます。
なにしとんねん。
そして二人は谷崎公認の元、付き合いだしました。
はあ? と私の中のちいかわのウサギが言ってます。
谷崎は二人の交際の様子を千代に報告させていました。そして、その様子をもとに一つの作品を作ります。
それが「蓼食う虫」です。
いや、きついってー。
蓼食う虫には妻との冷えた関係に悩む男、斯波要の心情が語られます。
一部抜粋
『三十に近い歳のわりには若くもあり水々しくもあり、これが他人の妻であったら彼とても美しいと感ずるであろう。今でも彼はこの肉体を嘗て夜な夜なそうしたように抱きしめてやりたい親切はある。
ただ悲しいのは、彼に取ってはそれが殆ど結婚の最初から性慾的に何等の魅力もないことだった。そうして今の水々しさも若々しさも、実は彼女に数年の間後家と同じ生活をさせた必然の結果であることを思うと、哀れと云うよりは不思議な寒気を覚えるのであった。』
いや、きついって。そして、腹立たしい。
人妻ならいいのになとか、抱くことが親切だとか、性欲的に魅力もないとか、ひどいことばっかり言ってる。
それが、妻に対しての憐れみと同情心から出てることが恐ろしい。
子供に対してはこんな風です。
父と母の不仲を悟っている子供に対して、打ち明ける覚悟をしていたと語り、父と母とどっちが悪いというのではない、そんなことを恥じてはいけない、と理性に訴えるつもりだとします。
しかし、万一別れなければ余計な心配をさせてしまうし、と結局は子供に話しません。
子供にまでうわべの笑顔を作らせている状況を不憫に思います。
サイコパスかな。
「蓼食う虫」では妻が知り合った男、阿曽を後から紹介され、要は二人に付き合うことを勧めます。
そして、妻に阿曽の元へと通わせながら、ごく自然と違和感なく離婚することを目指します。
無理だろ。
現実の方の谷崎は佐藤に、和田と千代とのいきさつを淡々と事務的に手紙でお知らせします。
片恋してた友人妻の新しい恋とかお知らせされても、と普通は思うんですが。やっぱりサイコパスかな。
谷崎は自分の中にある寝取られ願望が佐藤にもあると思ってたんでしょうか。
その後、千代は和田の子を妊娠、堕胎。和田は行方をくらませてしまいました。クソ野郎!
しかし、和田も谷崎の弟子になろうと思って押し掛けたのに、その妻との恋愛を勧められて、しかもそれを小説にされるなんて、当初はまったく思ってなかったでしょう。
和田も谷崎の芸術のために人生を歪めさせられたのです。
その一年後。いよいよ細君譲渡事件が起こります。
『……我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、……素より双方交際の儀は従前の通りにつき、右御諒承の上、一層の御厚誼を賜り度く、いずれ相当仲人を立て、御披露に及ぶべく候えども、取あえず寸楮を以て、御通知申し上げ候……』
Wikipediaから引用を失礼します。三人連名でこんな声明文を発表。谷崎はこれで世間からも賛同を得られると思ったようですが、このスキャンダルが原因で谷崎と千代の娘、鮎子は退学させられてしまいました。
その後、千代と佐藤は結婚。鮎子も千代についていき、二人の間には息子も生まれました。二人は終生連れ添いました。
谷崎はこの時ちょっかいを出していたお金持ちの人妻と一緒になろうとしつつ、結局は別の人と結婚します。が、2年後には別れてちょっかいを出してた人妻(その時には没落して元人妻)と結婚し直します。
万事めでたしめでたし、とはいかないまでも上手いこと収まったわけですね。
しかし、谷崎は人を振り回す天才ですね。
「蓼食う虫」ではどっちも悪くないと言いつつ、なんとなーく妻にヘイトが向くように書こうとしてんじゃないの、と思わされました。そういう印象操作をして、自分への非難を避けよう的な意図があったんではないかな、と。
でも、それを超えるナチュラルボーンクズ思考が透けて見えてそうは思えないんですが。
やっぱりサイコパスでしょ。
佐藤の方も成り行き任せで自らの手で千代を奪いに来ない辺り、優柔不断系クズではあります。
千代は、佐藤や和田の愛を受け入れたのは、谷崎から逃れたかった気持ちがあったのでは、と思います。
史実のドアマットヒロインの物語はスパダリもざまあなくて、すっきりしません。ジェンダーがどうこう言いたくはないですが、女性の立場の弱さを思い知らされます。
誰の言葉かは忘れましたが、ネットか何かで見た言葉。
「女は自分の稼ぎで寿司を食べられるようにならなければならない」
これが実現できる現代は恵まれた時代だな、と思います。