第十一話 カルマ
第一章に入ります。
この話は暴力的な表現が含まれますので、予めご注意ください。
「どこもかしこも、暗いな……」
どす黒い曇天の下、とある山のいただきに青年が佇んでいた。
木々は枯れ、毒々しい色の霧が漂っている。
辺りは月夜くらいの明るさで、視界は頗る悪い。
腐敗臭が鼻孔を抜け、生暖かい空気がまとわりつく。
陰惨な環境に思わず眉を顰め、ぼやいた言葉は虚空を舞った。
(……仕方ないか。待機しよう)
青年は故あってここにいた。
人と会う予定があるのだ。
もっとも、約束をしているわけではない。
相手は彼が待っていることなど知らない。
でも彼は、相手がやって来るのを知っている。
(……別にやましいことは無いんだけど、何だかいかがわしく思えてきたな……というか、そもそもこんな場所に人がいるなんて普通は考えないだろうし)
登頂してきた相手が自分を見たら、どう思うだろうか。
いるはずのない、見覚えのない赤の他人。
しかも「待ってました」と言わんばかりに出迎えてくる。
――想像して客観視するほどに、己の不審さを痛感する。
邂逅の体裁は、もっと考える必要がありそうだ。
青年はひとまず物陰に隠れることにした。
一旦、作戦を練る時間を確保する。
(ん……?)
ふと、今しがた身を潜めた縦長の岩を見上げる。
厚さは腕一本分くらい、高さは自分の何倍もある。
楕円形で、石碑のような雰囲気の大岩だ。
ところどころ砕けており、年季が入っている。
何やら文字が彫ってあるが、もれなく掠れていて解読はできない。
それでも興味本位で文字を辿ってゆくと、やがて足元の状態に気づく。
地面には泥濘んだ土の隆起が点在しており、靴が派手に汚れていた。
また、すぐ横に大きな穴がぽっかりと開いている。
(何かが掘り返したあとかな?)
不思議に思って、周囲を改めて確認する。
すぐに、散乱している何かを発見した。
屈んで凝視すると、それらは骨だとわかった。
大きさからして、動物だろうか。
昔、一つの命を支えていたであろうものの残骸。
"墓荒らし"の文字が頭を過り、俄然、青年は滅入ってしまった。
人の仕業でないにしろ、この有様は気の毒だ。
(……どうか安らかに)
湧いて出た情緒に従って弔う。
その懶い心が、間違いだったのかはわからない。
急に寒気がした。
背後を振り返ると、そこには黒い物体が立っていた。
端無く現れたそれは、彼をじっと見つめている。
瞳に宿った昏き暗黒は、青年に底知れぬ恐怖を憶えさせる。
「うぁ……!」
一瞬の硬直を経て彼は飛び退いた。
反動を利用して駆け出し、がむしゃらに逃げる。
縺れる足を無理やり踏み締めながら、ひたすら道なき道を走った。
ややあって、ここまで来ればと後方確認を行ってみる。
無事に振り切れたのか、黒い物体が追ってきている気配はない。
少しだけ緊張が和らぎ、移動速度が落ちてゆく。
幸い、安堵したところを襲われるような展開もなかった。
間もなく息が整い、徐々に思考が冷静になる。
今、取るべき最善の行動は早々の下山だろうか。
しかし、あのような存在がもし山全体にいたならば。
逃げた先でも結局、別の個体に遭遇するかもしれない。
また、それ以前の問題もある。
この後の予定は、絶対に放り出すわけにはいかないのだ。
強い使命感と責任感が、逃亡の歩みを止める。
去るわけにはゆかず、戻るのは憚られ、迂闊に移動もできない。
青年はしばらく熟考したものの、堂々巡りに終わった。
こうして悩む間も、周囲の不気味さは恐怖心を煽ってやまない。
(……まず、さっきのはなんだったんだ。幽霊? 化け物? それとも見間違い……?)
希望的観測だが、あの存在が未知のものであるとは限らない。
枯れ尾花、単なる勘違いという線もあるのだ。
いずれにせよ、調べてみなければ何もわかるまい。
彼は勇気を振り絞って、今一度遠くから現場を覗くことにした。
忍び足で元きた坂道を登り、木陰を転々とする。
やがて、再びあの石碑のようなものが見えてきた。
黒い物体は依然、微動だにしていない。
もしかすると本当に、勘違いだったのかもしれない。
青年はついに、木陰を離れて恐る恐る接近を試みた。
あと数歩先の距離に達したところで、まじまじと見つめてみる。
先刻は目が合ったような気がしたが、瞳は見当たらない。
輪郭が揺らいでおり、そこに在って、そこに無い感じもした。
(これ、調べたところで結局わからないかもな……)
そう思いつつも、彼は人差し指で物体をそっと啄いた。
刹那、漆黒の背景にぎょろりと目玉が浮かび上がる。
青年は己が愚行を恥じるより先に、強烈な畏怖に支配された。
戦慄と悲鳴が暴発する直前、目玉は彼を見据えて語り出した。
『我が地獄を憐れむ者。お前も同じ絶望を味わい、死に絶えるがよい』
如何なる刃物よりも鋭く、重く、冷たい怨嗟が青年を突き刺す。
その鈍色の声は、彼の意識を凍てつかせ、幻の世界へと誘った。
◇
暖かな日差し、仄かに香る緑茶の湯気。
気づけば、自分は縁側で寝そべり寛いでいた。
隣には一人の爺さんが腰掛けて、青空を眺めている。
よく晴れた昼下り、頬を撫でる空っ風が心地よい。
「ギンや」
爺さんが湯呑の茶柱を見ながらぽつりと言った。
何故か、それは自分の名前なのだとすぐにわかった。
ギンはすっと立ち上がり、嬉しそうに尻尾を揺らす。
我ながら、白いふさふさが愛くるしい。
これは、この体の記憶なのだろうか。
「感謝しているよ。いつも一緒にいてくれてありがとう」
頭をわしゃわしゃされる。
眼鏡越しに見える大空のような、広い瞳。
皺だらけの手は、お日様よりも暖かい。
全身に安らぎと嬉しさが駆け巡る。
今こうしている時間が、たまらなく楽しい。
でも、どうしてだろう。
爺さんは心なしか、元気がない気がする。
ギンは彼の手をぺろりと舐め、励ました。
「はは……わかるかい?」
わかるに決まっている。
ずっと一緒に生きてきたのだから。
あなたにはいつも、笑っていて欲しい。
ギンが小さく、ワンと鳴いた。
爺さんは満足そうに胡座をかいて、後ろに両手をつく。
「お前とこうしていると、心に羽が生えたようだよ。……もっと一緒にいられたらいいのにな」
遠くを見つめる爺さんの笑顔は、寂しげだった。
最近、よく見るようになった表情だ。
笑ってはいるのだが、自分はこの顔があまり得意ではない。
散歩中にされると特に、もやもやする。
爺さんを引っ張り回すのは、永遠の生き甲斐だ。
しかしこの顔の時は、我慢しないと駄目なのである。
やれば、自分だけが先に行ってしまう気がするから。
爺さんを置いてけぼりにしてしまう気がするから。
「なあギン。生まれ変わっても、また会おうな。……そん時ゃ、同じになれることを祈っているよ」
「――?」
意味はよくわからない。
だが、会えるのはいいことだ。
爺さんと同じなのも、すごくよい。
同じだったらきっと、もっと気持ちを伝えられる。
もっと色んなところに行けるはず。
このふさふさも好きだが、爺さんの、かさかさも好きだ。
ギンは爺さんと婆さんと、三人で歩く自分を想像した。
さぞや、楽しい時間であろう。
尻尾を激しく揺らすギンは、真っ直ぐに願っていた。
かさかさになりたいと。
「ワン!」
「ははは。……なれるさ、優しいお前なら」
爺さんはギンのつぶらな瞳を覗き込んだ。
通じ合う二人を、太陽の光が柔らかく包み込む。
その様子に、茶菓子を持ってきた婆さんがにっこりと微笑んだ。
「ありがとう」と貰った煎餅を大きく砕き、爺さんは続ける。
「いいかい? 何があっても、穏やかな、そのままのお前でいるんだよ。決して、他の誰かを傷つけてはいけないよ」
「アゥ?」
「……あれまぁ、ひょっとしてあなた、まだ澄ちゃんのこと気にしているの?」
「はは、ちょっとね。……澄ちゃん、わかるかな。ほら、たまに遊びに来る女の子がいるだろ?」
「ワフッ、ワン!」
スミ。
爺さんと同じ姿をしている、あの小さいやつだ。
たまに見かけると、よく巻き付いてきて暑苦しい。
そういえば、この前は頻りにオテ、オテと言っていた。
自分に何かを求めているのはわかったから、色々とやったのを覚えている。
確かこうやって足を出した時、やつは笑いながらおやつをくれた。
足を出すだけで喜ぶなんて、本当に単純なやつだと思った。
しかし、もしかすると爺さんや婆さんも、喜んでくれるのかもしれない。
ギンは反射的に、前足を差し出した。
「ふふふ、相変わらずギンは賢いわね。そうそう、その澄ちゃんよ」
「ワッフ!」
「……実は昨日な、年甲斐もなくあの子を叱ってしまったんだよ」
「ワゥ?」
「叱るってのは……そう、"メっ!"てやつだ」
ギンの体がぴくりと震える。
昔、そうやって怒られた時期があった。
思い出して、悲しい気持ちがよみがえる。
あの時は爺さんに遊んでもらうために、悪戯をしたのだったか。
――スミのやつも、爺さんにかまって欲しかったのだろう。
自分は怒られるのが悲しいから、以来、二度とやっていないが。
ただあいつだって、メっとされたなら十分に反省したはずだ。
それなのに、なぜだろう。
爺さんは自分達よりもずっと、悲しそうな顔をしている気がした。
「ぼくはあの子をね……泣かせてしまったんだ。傷つけてしまった」
「アゥ……ゥゥ……」
「でもあなた、あれは澄ちゃんのためにそうしたんでしょ? かわいい孫なんだからこそ、時には……」
「そうだね。でもやっぱり、どんな理由があっても、誰かを傷つけてはいけないんだ。それはすごく痛いことだから。相手だけではなく、自分自身でさえも」
痛いのは嫌いだ。
痛いのは大抵、悲しいと同時にやってくる。
自分は爺さんに怒られると悲しいし、痛い。
だけども、爺さんはもっと悲しくて痛かったのか?
――誰かを傷つける、それはとても恐ろしいことのように感じられた。
爺さんがしてくれた今の話は、絶対に忘れないようにしよう。
ギンは二人の間に割って入ると、再び彼らの手を舐めた。
◇
爺さんがいなくなってから、随分経った。
どこにいったのかはわからない。
ただ、大好きな婆さんと自分を放っていなくなるとは思えなかった。
なんとなく、爺さんはどこかで待っている気がする。
おそらく自分たちは、まだそこに行かれないだけなのだ。
それからというもの、ギンは自分の番を心待ちにしていた。
爺さんは言っていた。
また会いたい、お前なら同じになれると。
いずれ、順番が回ってくるはずだ。
その時のために、あの人と再会するために。
優しく、穏やかであらねばとギンは決意を固めていた。
毎日、婆さんが手を合わせている場所がある。
そこは変てこな臭いがして、爺さんの平たい顔だけが置いてあった。
婆さんはいつも、ここでキーンという音を鳴らしたり、目を瞑ったりしている。
大体、お日様が一番高いときに座っていることが多い。
ところが今日は珍しく、外が暗くなってからやって来た。
「は~疲れた。ごめんねギン、お客さんとお喋りしてたら時間かかっちゃった。隆正さんにお祈りしたら、すぐにご飯を用意するからね」
言われてみると、お腹が減っていた。
暑くて一日中この部屋で涼んでいたが、腹は減るものだ。
そういえば、知らない臭いが幾つか家に入ってきていた。
婆さんは今まで、そいつらと過ごしていたのだろう。
疲れて体がだるそうな反面、表情は明るいようだ。
「隆正さん、今日はあなたの旧い友人という方々が来て、色々とお話を聞かせてくれたんですよ? 悲しくて耐えられない~って、お線香は上げてくれなかったけどねぇ。なんでも、あなたをすごく尊敬していたんですって」
婆さんは目を閉じながら笑みを浮かべる。
とても誇らしそうだった。
ギンは、その後ろ姿をあたたかく見守る。
近頃は辛そうな顔ばかりだったから、心配していた。
久しぶりに楽しそうな婆さんが見られてよかった。
今はご飯より、この時間を大切にして欲しい。
しかし、一つ変だなと思うことがある。
知らない臭いは、まだ家の中に残っているのだ。
そしてそれは、静かにこっちへ向かって来ている。
婆さんは、この後もやつらと過ごすのだろうか。
ザー、と襖が音を立てて開く。
婆さんは、驚いたようにそちらを見遣った。
「あら? ……何か、お忘れ物ですか?」
「ええ、すみません。大事なものを」
そう言って、男が一人やってくる。
ギンは呆然とした。
やつの頭上に、黒い煙が渦巻いている。
臭いは部屋に入った途端、鼻が曲がるほどの刺激臭に変化した。
氷のように冷たく、炎のように荒々しい目をした男の視線。
このような恐ろしい存在、今まで見たことがない。
何故、これほどまでに恐ろしいのか。
ギンはあの日の会話を思い出した。
恐ろしいのは、誰かを傷つけることだ。
「ワォーーーーン!!!ワワワンワワンワンワワンワン!!!」
「ギン……!?」
本能に従って吠える。
牙を剥き出しにして威嚇するも、男は平然としている。
「これはこれは……元気がよろしいことで」
「すみません……ギン、どうしたの!?」
慌てる婆さんの前に立ち塞がって、牽制する。
これだけ騒ぎ立てているのに、男は容易く間合いに入ってきた。
こうなってしまっては、先手を打つしかあるまい。
だが撃退せんと勇む心とは裏腹に、爺さんの言葉が頭に響き渡った。
『他の誰かを傷つけてはいけないよ』
その一瞬の隙を捉えたのか、男の足がギンを襲う。
腹を思い切り蹴り上げられ、壁際にふっ飛ばされた。
――生き物として、自分は彼らより非力ではないと思っていた。
しかしその強烈な一撃は、両者の隔たりを如実に表す暴力であった。
「ギン!! 貴方、一体なにを……!」
「だから、忘れものですよ。あんたを殺すの、忘れてましたわ」
体が痛くて動かない。
朦朧とする意識のなか、見えた光景。
尖った物を、男が振り回している。
婆さんがいつもご飯をつくる時に持っている、あの尖った物。
それが、婆さんに深々と入っていった。
苦しそうな声を張り上げて、倒れる婆さん。
辺りには、とびきり痛い時に出る、あの温かいものが流れ出している。
男はニヤリと笑って、平たい爺さんを投げ捨てた。
奥の方から、薄い何かを取り出している。
同時に光る四角いものを耳に当てて、喋り始めた。
「あったぞ。わかりやすすぎて笑えるわ。……ああ、もうそっちいく。後は頼むぞ? 命あっての物種だからな」
男が何を言っているのかわからない。
ただ、自分がたとえ如何なる姿をしていたとしても。
制御できるはずのない熾烈な情動が、全身の筋肉を攣らせてゆく。
ギンは破裂しそうなほど四肢を力ませて、立ち上がっていた。
そこへ押し寄せる、気の狂いそうな後悔と嫌悪の螺旋。
婆さんはどれほど痛い思いをしたのだろう。
おそらく、もう聞くことも叶わない。
婆さんの真ん中にあった灯火が、消えてしまっているから。
そしてそうしたのはやつであり、また自分でもあるのだ。
「あ……? んだ犬畜生、しぶといな。お前も逝っとくか?」
一つ、悟ったことがある。
自分はもう、爺さんに会えそうにない。
ひび割れた額縁から、大空のような瞳が見つめている。
そこに映っていたのは、血塗れのギンが、屍の上で遠吠えする姿だった。
◇
複数犯による強盗殺人。
人々が助け合い、慎ましく暮らす自然豊かな過疎地。
風鈴の鳴り響く穏やかな村で、その惨劇は起こったのだった。
犠牲となったのは未亡人の婆さんと、犯人のうちの一人。
事件より少し前、婆さんは義援金目的で小切手を振り出していた。
それをどこからか嗅ぎつけた犯人らにより、自宅が襲撃される。
現場では、衰弱した犬も発見された。
挫滅創や切創が見られ、犯人に応戦したものと思われる。
全身を咬まれた犯人の死因は、出血多量だった。
事件は瞬く間に情報の大海原に拡散。
当時この犬の処遇を巡り、世界中にて物議が醸された。
しかし、犬は回復した直後に病院から脱走。
そのまま行方がわからなくなってしまう。
◇
その後、ギンは野良犬として生き長らえていた。
裏山に身を潜め、時おり老夫婦の家を見守りながら。
――実は一度だけ、澄と再会したこともあった。
人知れず懸命にギンを捜索していたようで、やがて引き合ったのだ。
再会時、変わり果てた毛並みを見て彼女は涙を流していた。
優しく「うちにおいで」とも言ってくれた。
でもギンはそれに応えなかった。
また誰かを傷つけてしまうかもしれない。
痛いのも悲しいのも、もうたくさんだ。
怯えた瞳で、彼は澄の靴をぺろりと舐めて首を振った。
引き止めようとする澄を置いて、ギンは姿を消す。
以来その日まで、爺さんと同じ形をした者とは誰にも会わなかった。
獲物がとれず、腹の空いた寒い夜だった。
いつもより敏感になっている嗅覚が、異変を察知する。
遠くから、強烈な刺激臭がやってきている。
即座に、思い出したくない光景が想起された。
これは、あの日の臭いだ。
婆さんの灯火を奪った、あの男と同じ種類の臭い。
力が入らない体を、不快な感情が鞭打つ。
立ち上がり身構えていると、やがて一人の男が出現した。
「やっと見つけたよ……」
トス、と腹の辺りに何かが当たる。
じわりと痛みが広がった気がしたが、すぐに何も感じなくなった。
男の方を見ると案の定、頭上に黒い煙を伴っている。
目も、あいつと同じ氷と炎を宿してた。
ただ一つだけ、あの日と違っている部分がある。
自分は今、恐ろしさを微塵も感じていないのだ。
威嚇する気にもなれず、再び地面に座り込む。
その様子を見て男は拍子抜けしたのか、けたけたと笑った。
「なんだよ……随分と余裕じゃねぇか。これから俺が殺すってのによぉ」
コロス。
その意味は理解している。
あいつが婆さんにやったのと同じことだ。
そして、自分があいつにやったのとも同じこと。
コロスは全てを傷つけ、全てをひっくり返す。
餌を屠って貪るのとは性質の異なる、昏き感情を生み出す行為。
その先にあるのは、永遠に終わることのない渇きだけだ。
ギンは疲れていた。
楽しかった頃の記憶は色褪せ、もうよく思い出せない。
それでも、もし最後に叶うならば。
(爺さんと婆さんに会いたい)
彼はふと、思いついた。
こいつは自分をコロスと言った。
コロスなら、婆さんと一緒になれるかもしれない。
婆さんと一緒であれば、爺さんもきっと――。
支離滅裂になった思考が暴走する。
それを止める自我は、もうどこかに行ってしまったようだ。
(そうだ、こいつに)
気づけばギンは、男の手を舐めていた。
「あ……? クソがなんのつもり………」
男は尖った物を取り出し、ギンに突きつける。
ギンは虚ろな目で、それすらも舐め続けた。
垂れ流された涎が、男の膝を湿らせる。
「てめぇ……!!!」
凶器は差し出された前足を捉え、二つに切り裂いた。
ギンは白目を剥いて、反射的に声帯を震わせる。
しかし弛んだ体は、その叫びを完遂できなかった。
さらに、男によって顎から頭までを布で巻かれる。
既に五感は遠のき、あまり痛みは感じなくなっていた。
「こんなんじゃ終わらせねぇぞ……!! お前のせいで弟は死に、救えたはずの母も死に……!!」
血走った目で、男はギンをさらに傷つけていった。
もはや歩くことも、聞くことも、食べることも、鳴くこともできない。
いのち以外の殆どを奪われたギンを嘲い、男は愉悦の表情で言った。
「俺が憎いか? 人間が憎いか?」
ニンゲン?
こいつはニンゲンというのか?
ならば、ニンゲンが婆さんを?
でも皆、同じ形をしているではないか。
ニンゲンとは何なのだ。
自分は、ニンゲンになりたかったのか?
自分は、ニンゲンをコロスのに?
「痛いだろう、苦しいだろう、憎いだろう、辛いだろう?」
黒い煙がギンの全てを包み込んでゆく。
ああ、わかった気がする。
こいつは自分に、ニンゲンを傷つけたいかと聞いているのだ。
つまり、爺さんや婆さんと引き離そうとしているのか。
ばかなやつだ。
そのような真似をせずとも、もうとっくに離れてしまったというのに。
「ッ何とか言えよッ!! 俺たちの地獄はこんなものではなかったぞ!!!」
激昂した男が、もっと長い物を取り出す。
それをギンの頭部めがけて勢いよく振り下ろした。
とうとう致命傷を負ったギンの天地が、めくるめく逆転する。
途切れる灯火が最期に拾った声は、爺さんでも婆さんでもなく。
ただ涙に塗れ呪いの文言を繰り返す、ニンゲンの言葉だった。
「憎めよ……おれを憎めよ……! 人間を……全てを憎め!」