署長室の中での邂逅
髙を横に、俺達は昨日の騒乱の爪痕は殆んど残っていない署内を通り抜け、ついに嫌な部屋の前に立つこととなった。
このドアを開けたその時、俺は楊の死んだ姿を見た時の事を思い出したのだ。
何も映していない、瞳孔の開いた硝子玉のような瞳。
肌は青白くゴムのような質感に、血だけが鮮やかに彼を飾る。
あの、あいつの無残な死に様の映像は、暫くは忘れられないだろう。
俺と同様か、髙までも逡巡している。
その時、若い男の声が室内から漏れ聞こえた。
「あなたは何でも出来るのに何もしないのはなぜなのですか?」
俺はドアを開けた。
俺はそこで珍しく息を飲んだ。
部屋の中は加瀬と戸口近くに倒れた山口、そして死人一人に、いや、そんな奴らはどうでもよい。
ほら、署長デスクの向こうには、忘れられない見覚えのある男がいるではないか。
丸顔の初老の飯綱使い、だ。
あれは、武本家の菩提寺の住職の弟、三厩隆志と名乗っていた男。
俺を玄人に引き合わせた男だ。
「三厩さん、お久しぶりです。」
俺の挨拶に、三厩こそ自分の方が驚いたくらいの表情を浮かべたではないか。
「何をふざけているの。此方は神崎慈警視正、署長です。」
髙は何事も無く俺に訂正するが、俺は三厩の言葉を思い出していた。
「私は妖怪のようなものだ。私が弟だと言えばそう思い込む。私は生きているが生きていないと同じ存在なのだよ。」
三厩は五人分の寿命分の不死の人間になってしまった人だった。
今は武本町と名前を変えた寒村に、戦後すぐに憲兵達がやって来た事が発端だ。
奴等の目的は武本家の財産を奪うためである。
くれてやるにはその財産は男手を失っている村の為に使う必要があり、そして若い女達を憲兵という名の慮外者からも隠す必要があった。
そこで村人総出で武本の屋敷を林の奥深くに隠し、財産と村の乙女達を護ろうとしたのである。
裏切り者がいる事も知らずに。
裏切り者は憲兵達を隠した屋敷に案内して、そして、憲兵共々人知れずに林の中で死に絶えたのである。
「あそこは温泉が出るから硫黄か天然ガスかなぁ。」
憲兵の死因について、三厩はのんびりと語った。
だが、間抜けな話で済むわけはなく、憲兵が戻らなければ村自体が潰されるだろうと、三厩はその五人の死体に一年だけ自分の命を与え、その上で記憶を改変して彼らを村から立ち去らせたのである。
それで終いになるはずが、三厩はその五人の本来の残った寿命を全部その身に受けてしまったのだ。
人の命を人間が弄ぶことは許されない。
五人分の不老不死は、彼がこの世の理から反したがためのペナルティだ。
俺の目の前に再び立つこの男は、自分の本当の寿命が尽きた日に孫を失い、そしてひ孫をも不幸に貶めたと自嘲していた男であった。
彼の懐かしい顔を眺めて、そして、彼のもう一つの言葉を思い出した。
「私が今の人生をやめて別の人間に成り代わると、君達は私を忘れる。私が円慈和尚をやめた時は、息子も友人も妻でさえ、誰も彼もが円慈を忘れてしまった。息子など、葬式をしてもいないのに自分が私に引導を渡したとまで思い込んでいる。」
俺は忘れていない。
だが、神崎と呼ぶと三厩を消してしまう気がした。
それで彼ではなく、事の発端らしき馬鹿者に話しかける事に決めたのだ。
「それで、加瀬ってお前か。お前がこの混乱か?コラ。真っ当に生きている一般人を巻き込んで何をやっているんだよ。」
島流れ署に島流れするほどの阿呆だからか、俺の真っ当な意見に大きな目を見開いて鳩のような顔をするだけで、口答えもせずに突っ立っているだけであった。
アハハハと脅されていた署長が笑い、俺の隣の髙の嘆きが聞こえた。
「百目鬼さん、それではただのチンピラですよ。」
「うるせぇ。」
髙に反発しながら、俺は部屋の前で聞こえたセリフを思い出した。
「加瀬よ。何でも出来るからこそしちゃいけないし、しないんだよ。つまらないだろ。」
「じゃあ、僕はいつも踏みつけられて馬鹿にされてお終いですか。僕はいつだって手柄を盗まれて、それでも僕は頑張ってきたのに。あいつが、あいつが全部。僕を誰も助けてはくれないから!だから!仕方が無いじゃないですか!」
加瀬は半泣きで後退った。
すると拳銃を持った死人がゆらりと動いた。
死人はニヤッと顔を歪め、加瀬を小ばかにしたように笑った。




