飯綱使いの力
「それもそうね、今朝一番で梨々子が見舞いに行くって家を出たそうだから。」
葉子の言葉で物思いが覚めたが、俺の言葉に葉子は勘違いをしているようだ。
しかし、改めて訂正する必要も無いだろうと思いながらも、親切な彼女に孫が無駄足になる可哀想な可能性を一応は告げた。
「退院をしていたらどうするんですか。」
この楊ストーカー家族は情報が早いが詰めが甘いのだ。
「大丈夫ですよ。かわちゃんは昼までは動けないはずです。あれは相当体力を消耗しますからね。」
半熟のポーチドエッグをつついて、素晴らしい朝食に幸せ一杯となった玄人が答えた。
「そうね。脱水症状は大変よね。」
葉子はやはり考え違いをしているが、わざわざ訂正をする必要は無いだろう。
昨夜は楊が大騒ぎだったらしいのだ。
九時半には、疲れた、と爆睡していた玄人のスマートフォンには、山口からのSOSのメールが次々と届いていた。
「かわさんがふざけすぎている!」
「どうやってかわさんを制御させたらいいの!」
「クロト助けて!」
全て未読。
恋人に非道いよな、こいつは。
ピンコンピンコン煩いからと、俺も電源を勝手に落としてしまった事も思い出し、玄人にはないが俺にはある人情味から玄人に提案をしていた。
「世田谷に戻る前に警察署に挨拶に行くか?山口のことが心配だろ。」
俺の声かけに玄人は腕を組み、今ひとつの声をあげただけだった。
「うーん。」
面倒臭くなったのか?
俺よりも本気でひどい奴だよな、こいつは。
何か考え出したのか、ポーチドエッグトーストをもう一つ食べたいのか、腕を組んだ玄人は空っぽの皿を見下ろして暫し動きを止めている。
「どうした?嫌ならまっすぐ世田谷に帰るぞ。」
「うーん」
玄人はやはり唸っただけだった。
俺は玄人ほどじゃないが堪え性がないのだ。
つまりかなりイラついてきた。
「どうした。」
思わず出た俺の低い声に、カチャンと茶器の大きな音がした。
食後の茶を用意している葉子が、俺の声で怯えてしまったようだ。
俺は言葉の内容よりも、声そのもので、相手を怯えさせる事が出来るのだ。
「すいません。」
彼女に声をかけて立ち上がると、彼女は微笑んで手で座るように合図した。
俺は軽く頭を下げて座りなおし、大きく深呼吸して優しい声を出そうとした時、玄人がようやく重い口を開いた。
俺は聞いて、こいつを黙らせておくべきだった、と後悔した。
彼は、署長室にいる自分以上の飯綱使いが黒幕かもしれない、と答えたのだ。
「何の動物を使っているか判るか?」
彼は首を振る。
「飯綱使いってだけで、僕に見通すことは出来ません。僕以上ですから、探りに飛ばしたオコジョが全部返されます。一昨日出会ったあの男だったら、僕は絶対に対処どころか歯が立ちません。どうしよう。かわちゃんの上司でしょう。」
彼は山口に連れ込まれたというラブホテルの一件を、ようやく俺に説明したのである。
「早く言え、そう言うことは。」
「だって、ダイゴを消しちゃった男です。関わらないようにすれば大丈夫かなって。」
「あのバター犬が消えたのか?良い事じゃないか。」
玄人はむぅっという顔つきで、涙まで溢れさせて俺を睨んできた。
「あいつも犬神ならよ、出雲にでも行っているんじゃないのか?」
「適当なことを言わないでください!」
俺に言い返してから、彼はぎゅっと目を瞑った。
そして瞑ってすぐに涙を零した。
彼は俺の適当な言葉に怒りながらも、かすかな期待も込めて失われた存在へ思いを馳せてしまったのだろう。
それなのに再び喪失の追体験だ。
魔物に消された犬神がどうして出雲にいると考えられるのだ。
俺は考え無しの言葉を放った自分を心の中で罵っていた。
「すまなかった。俺もどうしてそんな物言いをしたのか自分でもわからない。お前を傷つけてしまってすまなかったね。」
涙をぽろぽろと流している彼は、チクショウ、と呟いた。
「クロ?」
両目をぎゅっと瞑ったままの彼は、歯を食いしばるようにしながらも俺に答えた。
「居ました。出雲。あの男に境内に呪で縛り付けられたそうです。十一月になったら帰って来れるって、修行頑張れって言われたって。」
「……そうか。消されていなくて良かったな。」
俺は木に縛り付けられてヒンヒン泣いているダイゴを思い浮かべ、会った事のないそいつへの好感度が湧く自分を抑えられなかった。
冗談だけでなく、会ったことのない人物。
切れ者の署長が簡単に暴漢から逃げ出せた事も頷ける。
自分の計画ならば無傷だろう。
病院にいる友人の安全と仕返しのために、俺は奴に対峙しなければならない。




