かわちゃんに、あ、げ、る
十月十二日の朝は清々しく、昨夜の喧騒など何も無かったかのような顔をしている。
昨夜の九時頃から町田に近い相模原市の一部分で突然雷らしきものが放電して廻り、外に出て暴徒化し始めていた市民は縮こまり、家屋内で家庭騒乱中の家族は驚きに仲良く抱き合った。
放電に気づかない者も、後からの大きな連続する落雷の音で肝を冷やしただろう。
しかる後、バケツの水をひっくり返したかのような雨がその地域を襲った。
一瞬だが恐ろしい勢いの雨が止み、人々が何事かと空を見上げて、秋の星空の広がる様を目にして「きれいだ。」と思ったからか知らないが、騒乱はそれを境にしてピタリと収まったのだ。
素晴らしき神様の力?
「糞神。改宗したい。」
俺の子供は朝からぶつぶつと不穏当な事を呟いているが。
「昨夜は凄かったわね。それで、勝利は大丈夫なの?」
昨晩俺達を泊めてくれた家主が、悠然と微笑みながら俺に朝食の皿を俺に手渡した。
皿を受け取りながら、彼女の美貌が玄人が言う通りだと自分に認めた。
彼女はボッティチェリが描いたビーナスにそっくりな顔立ちをしているのだ。
年齢を感じさせないこの美しい彼女は、楊の婚約者の祖母であり、マツノグループの総裁でも在る。
優しそうな風貌と違い、彼女は恐ろしい女王様でもある。
「大丈夫どころか、幸せ一杯ですよ。たぶん。」
俺は思い出し笑いをしながら答えた。
楊は玄人によって一夜だけの飯綱使いの力を与えられたのである。
「え、俺がやるの?オコジョが使えるの?」
昨日の病室では、面倒臭くなったのが見え見えの玄人の提案に、楊は嫌がるどころか非常に喜んでいた。
玄人は彼に一時的に力を渡すと申し出たのだ。
「僕は相模原市の様子や全体が判りませんから、この町に詳しいかわちゃんが自分でやった方がいいと思うのですよ。」
俺は玄人の「うざいから投げちゃえ。」の気持ちが手に取るように判った。
山口の呆れたように玄人を見る目で尚更に確信だ。
こいつは天使よりも悪魔の方だからな。
「そうしたらお前はどうなる?オコジョさん達の守りが無くなっちゃうでしょう。」
「別にどうもなりませんよ。僕からオコジョが消えるわけでなく、かわちゃんに今日使い切る分の武本家の飯綱使いの力を渡すだけです。かわちゃんは明日には普通の人に戻りますし、力の使い方も淳平君が側にいれば大丈夫ですよ。」
「早く力を寄越せ。」
楊は嫌がるどころか完全にノリノリで、玄人に力を強請る有様だ。
彼はベッドに縛り付けられている事に、既に飽き飽きしていたのだろう。
玄人は悪魔のようなニマっとした笑い方をするや、両手を楊に差し出した。
楊は目を輝かせ、玄人の両手を両手で掴んだ。
その数秒の後、楊は何も起きていないだろうって顔で自分の体を見下ろした。
「うわぁ!」
楊は大声をあげて、ベッドから転げ落ちそうになった。
その様子を確認した玄人は、鼠入りのダンボールを両手で抱えあげると、わき目も降らずにスタスタと病室を後にしてしまったのだ
俺は玄人の後を追う前に、一応親友に声をかけた。
「大丈夫か?」
ベッドから転げ落ちまいとベッドのサイドレールにしがみ付く親友は、ゆっくりと顔を上げて俺に顔を歪めてみせた。
それはそれはいやらしく、蕩けそうな喜びの顔だった。
「ぜんぜん大丈夫!」
「何が見えているんだ。」
「俺の周り、白くて可愛いオコジョだらけなんだよ。ちょーかわいい、この生き物。あぁ、しっぽが、長いしっぽがね、先だけが黒いの。それをぴょこぴょこ動かしている。」
「あぁ、よかったね。じゃあお大事に。」
町の様子の心配を何処かにやった男を病室に残して、俺も玄人同様に相模原市の事件やら何やらを放り投げて病院を出たのだった。




